第10話 猿の教室(前編)

 就活をしていた大学四年の頃、とある企業の集団面接でこんな質問が出た。


「皆さんの、最近一番笑ったエピソードを教えてください」


 得意分野が来たと思った。この頃の僕は、こういった笑いを取るためのトークにそれなりに自信を持っていた。

 集団面接は五人で行われており、僕はその左端の席だった。右の方を向いて他の四人を見ると、いきなり飛んできたトリッキーな質問に、目を逸らしたりそわそわしたりと落ち着きがない。しかも普通だったら右からとか左からとか聞けばいいのに、面接官が「じゃあ〇〇さんから」とか言って僕の隣に座る人を指名するトリッキーの追いがけをしてくるもんだから、集団はより一層落ち着きを失っていた。こいつらにエピソードトークで負けるわけがないと思った。


 結局最初に指名された僕の隣の人は何もエピソードを話す事ができず、「じゃあ後からもう一度聞くんで、それまでに考えておいてください」と言われて縮こまっていた。次に当てられた人も、話せはしたがグダグダで特に面白くも無く、面接官は特に笑う事も無く「なるほどわかりました」と言った。

 当たり前だ、普通の大学生が突然「なんか面白い話して」と言われているのだ。普通の大学生はエピソードトークのストックなんて持ち合わせてないし、自分をよく見せる為の話し方を練習してきているのであって、おもしろトークの練習なんてしてきていない。上手く話せなくて当然なのだ。


 ついに僕の番が来た。全体の四番目だったが、これまでの三人は軒並み上手く話せていなかったので、逆に失敗しても大丈夫だと緊張もほぐれていた。

 自信があった。話すエピソードもあれしかないと決めていた。別にこの日の為だったとは思わないが、今までどれだけの数のエピソードトークやラジオを聴いてきただろうか。自分でもやってみたいと、誰に聞かせるわけでもなくトークを録音して聞いてみる事も何度やっただろうか。日常生活で面白い出来事に遭遇した時に、ああこれはトークに使えるな、等と言って話し方を考え始める事もどれだけやっただろうか。全てが今ここに繋がっている。


 前を向き直すと、穏やかな笑みを浮かべた面接官がこちらを見ていた。右手に意識を向けると、他の四人がこちらに注目しているのがわかる。ふっと一息つき、異様に小慣れた語り口調で、僕は話し始めた。


「あのー、これは僕が工場の単発アルバイトに行った時の話なんですけど……」




‐‐‐


 地獄のような高校生活の中で僕は次第に好きな物にのめり込むようになっていったが、この頃本格的に観始めた物に、お笑いがある。

 その頃世の中は、空前のお笑いブームだった。テレビはネタ番組に溢れ、次々と若手の芸人が取り上げられ、脚光を浴び、人気になっていった。だから僕も小学生の頃からお笑い番組をよく観ていたし、そして好きだったが、高校に入りパソコンを手に入れると、その頃から世に定着し始めた動画サイトでネタ動画等を観漁るようになり、更に笑いにのめり込んでいく。


 僕が、人を笑わせる事が大好きだった事は間違いない。率先して面白い事をしたい人間だったし、図工室の件や宿泊学習の件など、少なくとも今までの人生はそれなりにそれを実践できていた。あいつは面白い事をやる奴だという認識もおそらく持たれていた。


 だが、高校での失敗が全てを変えた。クラスで孤立し、話す相手も居らず、面白い事をする場所もなくなってしまった。そんな状況だったから、舞台上で思い切り何かをやり、観客の爆笑を掻っ攫っていく芸人たちが心の底から羨ましく、恰好良く見えた。


 その過程で、ラジオなんかもよく聞いたし、バラエティ番組のトークを切り抜いた動画なんかもよく観た。

 自分でも色々と話してみたくなった。過去の人生を振り返れば面白い出来事なんていくらでもあったから、それをラジオや動画の中の人のように面白おかしく話したかった。でも話す人が居なかった。聞かせる友達が居なかった。だから僕は、自分のトークを自分の携帯電話に録音した。架空のラジオ番組を作り、それも録音した。聞かせる人が居ないから、自分で聞いた。ひどい出来だったが、逆にどこをどう改善すればいいのかわかり易かった。これらを数回繰り返すと、だいぶマシな番組に近づいて行った。


 これを続けていたら、親しくない人との会話が上達するのではないか、と最初は思っていた。会話の能力を上げれば、多少はクラスにも溶け込めるのではないかと思ったのだ。だが、普通の会話とバラエティでのトークは、進め方も必要なスキルも微妙に違う。トークの研究を続けた結果僕は、オチのあるトークや一人喋りは人並み以上に出来るようになったが、普通の会話や世間話は一向に上達せず、また更に"一般から相容れない何か"に近づいて行っただけであった。




 お笑いブームだったから、クラスでもお笑い番組の話や芸人の話が話題に上がる事は多かった。当然僕はその話に混ざる事も無く、ただ自分の席に座っているだけなのだが、あの芸人面白い、面白くない、みたいな話はあちこちから聞こえて来た。

 それらに僕はずっと違和感のような物を感じていた。クラスメイト達の会話が、ずっとずれた事を話しているような気がした。なんだろう、この違和感は。そんな事をずっと考えていた。そしてある時、ああ、そういう事かと気付いたのだった。


 笑いという物をちゃんと理解できていない人は、世の中には沢山居る。




 笑いには二種類があると思っている。「面白い笑い」と「楽しい笑い」だ。


 人は、面白いと思った時に笑うが、同時に楽しいと思った時にも笑う。この二つは厳密には全く異なる性質の笑いなのだが、混同され易い。人は、自分が“笑っている”という行動の結果だけを捉えて、目の前で起こっている事象が本当は“楽しい”に分類される物であるにも関わらず、“面白い物”だと誤認してしまう事がよくあるのだ。この“面白い”と“楽しい”を明確に区別でき、かつ“面白い”を意図して作り出せるのが、笑いのセンスがある人間であり、面白い人間なのである。


 “楽しい”とは何なのか、もう少し掘り下げて説明してみる。楽しいとは、周囲の空気等によって自らのテンションが上がっており、興奮する気持ちやワクワクする気持ちによって、笑ってしまっている状態を指す。例を挙げるなら、学校などに居たクラスのお調子者を思い浮かべるとわかり易い。冷静に振り返ってみると、クラスのお調子者と呼ばれる人々は、殆ど何も面白い事などしていないのだ。


 お調子者のA君が先生にいたずらを仕掛けていて、周りの女子が「そんな事やってたら絶対ばれるよ」等と止めていたのに、「大丈夫だって!」と言いながらA君はやめようとしない。だけど結局すぐに先生にばれて授業中に説教が始まる。そんな時クラスメイトの僕らは、「ほら言わんこっちゃない」とクスクス笑ったりしていたと思うが、もしも全く無関係の第三者がこの状況に居合わせたとして、果たして面白いと言って笑うだろうか。


 僕らはクラスメイトなので、A君が本質的には悪い奴じゃない事も知っているし、こんな事をよくやるどうしようもない奴だというのも知っている。加えていたずらを仕掛ける一部始終や、本人はばれないと思っていた事も知っているので、怒られるA君を見て笑いが込み上げてくるのだ。

 ところが無関係の第三者からしたら、A君は先生にいたずらを仕掛けてばれたクソガキに過ぎないし、先生がただ正論の説教をしているだけなので、笑える余地など一つもない。もしかしたら、こんな奴絶対クラスに一人は居たな等と学生時代を思い出し、微笑ましい気分になるかもしれないが、いずれにせよそれは面白いという感情とはまた異なる。

 これが、“楽しい”の概念だ。身内の中でわいわいやって楽しい気分になってるから笑えるだけで、身内の範囲の外に出た瞬間、まったく笑えなくなってしまうのだ。


 逆にもしも、いたずらに気付いた先生が説教をしようとA君を前に呼び出した時に、予めこうなる事を予想していたA君が、床に置いていたバナナを踏んで滑って転ぶというギャグをやったらどうだろう。クラスメイトの僕らも笑うだろうし、傍から見ている第三者も、よっぽどA君が生理的に受けつけないとか、バナナに対して私的な恨みがあるとか、法廷に笑顔は要らないでお馴染みの北村弁護士であるとかで無ければ、きっと笑うだろう。最もシンプルかつお手本通りの“緊張と緩和”だ。

 このように、まず笑わせる為のギミックを用意し、それを伝える為に必要な要素を提示した上で受け手側に文脈的に理解させる。それが“面白い”の概念だ。


 A君のような人物は、“面白い人”ではなく、“楽しい人”に分類される。一緒に居たら本当に楽しいし、たくさん笑わせてくれるのだが、楽しい人が同時に面白いとは限らない。ところがこういう人物に限って、自分の言動で周りが笑ってくれるから、自分は面白い人間なんだという風に勘違いしてしまい易い。そして周りを笑わせる事の素晴らしさを知った、等と言って芸人を志してしまいがちだ。

 だが、芸人になって笑わせなくてはならないのは、クラスメイトではなく、客席に座る赤の他人である。“楽しい”をやるだけでは一向に笑いは取れないし、“面白い”を理解しなければ、いくら一所懸命ネタを考えても、絶対に面白くならない。

 所謂売れてない芸人の中で、普段出ている小屋のライブでも全くウケが取れずに燻っている人達も、元をたどればそういう“楽しい人”である事が多い気がする。統計も何も取ってない、あくまで主観で偏見であるが。




 僕は笑いを、もっと簡単でわかり易く、一部の異常者以外誰でも理解できる物であると思っていた。殆どの人が、何かを見て「面白い」と言って笑う事はあるだろうし、笑いは全員が理解できる普遍的な物だと思っていた。ところがどうやらそうではないようだった。


 音楽を高度に理解する為には専門的な知識や感性が必要になるように、小説を高度に読み解くためにはやはり知識や読解力が必要になるように、笑いを高度に理解する為には読解力、語彙力、一般教養等が必要になる。

 別に高度に理解する必要は無い。音楽や小説をライトに楽しむように、笑いを見て、「笑えた」「面白かった」、それだけで全然いいのだ。だが、ただ聴いたり読んだりしただけで音楽や小説を理解したとは言えないように、ただ見ただけで笑いを理解したとは言えないよという、それだけの話だ。


 笑いを理解した所で、プラスになる事は特にない。面白い人だと評価される可能性は高まるだろうが、その時間で何か新しい勉強をして資格でも取った方がきっと有意義だし、笑いを理解する事は人生にとって必須じゃない。だからいいんだ、理解なんてしなくても。無理して理解をする必要なんてない。必要なんてまったくないのに、何故あなた方は笑いを理解しているふりをしているのだろう?


 音楽や小説と一緒だ。殆どの人が音楽や小説をライトに楽しむだろう、そして「良かった」「自分には合わなかった」の二択を下す。具体的な批評をする人も居るが、その人は本当に詳しい人かレビューが好きな人かで、普通の人はそこまでしようとしない。ところが、笑いになると急に批評し始める人が山ほど居る。「面白くなかった」「すぐ消える」「一発屋じゃん」「オチが弱い」……

 別に論理的に正しい批評をしているのならそれでいいと思う。むしろどんどんやって欲しい。聴きたい。だが、そういう人に何故面白くなかったのかを問うと、大概こんな事を言う。


「ぜんぜん笑えなかった」


 あなたが笑わなかった結果の話など聞いていない。どうして面白くなかったの?と聞いてるのだ。なんで面白くないの?どこが?どのように?どういう根拠で?逆にどうやったら面白いの?




 皆が思っているのだ、「私は笑いを理解できている」と。今までの人生で色々な事で笑ってきたから、自分には面白い物と面白くない物の区別がつけられる能力があるのだ、と。そしてその能力を得る為に何か努力をしてきたわけではないから、笑いは誰でも理解できる簡単な物だと思っている。

 世の中には、音楽を聴いたり本を読んでも批評などしないのに、お笑いになると偉そうに批評を始める人が山ほど居る。音楽や本を批評するだけの知識もセンスも無いが、笑いなら批評できると思っているのだ。そういう人達はすぐに「面白くなかった」と言う。まさか自分がその面白さを理解できていないだけだとは、夢にも思わないのであろう。


 繰り返しになるが、音楽や小説と同じように、笑いを高度に理解するためには語彙力、一般教養、読解力等が求められる。当然それらが無い人にも伝わる至極簡単で分かり易い笑いも存在するが、情報量の増えた笑いになればなるほど、誰でも無条件で理解できる物ではなくなっていく。当然、発信側はそれでも全ての人に伝わるよう工夫してやるべきではあるが、そこまでやっても理解できない人は確実に居る。


 厄介なのは、笑いを理解できていない人は、それを“面白くない物”だと判断してしまいがちな事だ。笑いの評価基準に、“自らが笑えたかどうか”という軸しか無いと、理解できなかった物=笑えなかった物=面白くない物、といったように判断してしまう。その状態で批評を始めるから、ずれていってしまう。


 僕はよく、「面白くない物について語る時は、面白くなかった理由を説明しなさい」という話をする。「どこが面白いのかわからなかった」という感想をよく目にするが、それではただ単に面白い部分を理解できていないだけなのかもしれない。用意された笑いのギミックを理解し、その構造的問題点を指摘した上で、ここがこういう風に面白くない、というように論じる。ここまでやって初めてそれは批評として成立するし、笑いを理解していると言える。


 当然、普通の人が普通にお笑いを観る時に、ここまで考えながら見る必要はない。笑いなど、ただ何も考えずに見て、「笑えた、面白かった」となる程度でいいのだ。ただ、評論・批評のような事を行うのであれば、ここまでのレベルの理解してやってよという話だ。


 笑いという文化は、音楽や小説に比べてより大衆に迎合してきたと考える。加えて、テレビ等のメディアとの親和性も相まって今の文化的地位を築いているが、その結果大量の、「笑いを理解している風」の人々が生まれた。

 彼らは自分で自分の事を笑いを理解している人だと思っているから、悪びれる事も無く叩く。理解の追い付かなかった物を叩く。理解できない物を叩く。新しい物を叩く。本当に面白い物が、「理解ができないから」という理由で叩きのめされる。世の中には面白いもので溢れているのに、彼らはそれに見向きもしない。狭い視野で、面白くないと判断した物を排他し続ける。そのくせに、その理解のできなかった物が、世間で注目され始めると、周囲で注目され始めると、彼らは掌を反してそれを評価し始めるのだ。


 どうやらその現象の事を、世間では“売れる”と呼ぶらしかった。




後編へつづく

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