第8話 底

 高校生活を思い出すことは幾度となくあるが、何度思い返しても人生の底辺期間でしかない。


 入学してすぐに気づいた。僕は、友達を作る能力と一般的なコミュニケーション能力が著しく欠落していた。


 思えば中学校は、殆どの生徒が周辺の三つの小学校からの持ち上がりで、常に小学校からの友達が周りにいた。だから中学入学時に友達を作ろう!なんて思う必要が無かったし、小学校からの仲間内で勝手にわいわいやっていれば、似た感性を感じた奴らが勝手に集まってきた。だから友達を作る能力とその為のコミュニケーション能力は必須ではなかった。


 ところが高校ではそうは行かなかった。一番仲の良かった集団のうちの一人が同じ高校を受けたが、まさかの不合格。定期テストでは常に僕よりも上の順位を取っている奴だったが、最後の最後で僕だけが受かってしまった。だから高校入学時には、仲の良い友人が皆無だった。それでも誰かしらとは仲良くなれるだろうと思っていた。実際、高校が始まると、周りの席の生徒達が友達を作ろうと積極的に話しかけてきたが、ここで中学生活によって刻まれた僕の心の深い闇が、露呈する事になる。


 僕は、まったく他人を信用していなかった。最初に話しかけてきたのは、前の席に座っていた坊主頭の生徒で、見るからに野球部といった感じだった。その生徒-工藤は、個人的に第三中学の野球部の顧問を知っていたらしく、「あの先生、怒ると何話してるのか全然聞き取れなくなるよな」といったその顧問あるあるを披露して笑わせようとしてきたが、僕はそれに対して愛想笑いを浮かべる事すらできなかった。

 こいつはどういう人間なんだろうか、信頼していいのだろうか、野球部だろうしこいつも僕に嫌がらせをしてくるようになるんだろうか、僕のやる事を軽蔑し始めるのだろうか……


 そうして僕は、工藤との心の距離を果てしなく遠く取った。他のクラスメイトに対してもそうだった。信用できないから心を開かず、話しかけられても面白味のない返答を繰り返した。やがて僕はクラスの中で、“暗く喋らず無気力などうしようもない奴”という認識になり、周りがどんどんと友達グループを作り上げる中、次第に孤立していった。


 通っていたのは、一応は進学校と呼ばれるような高校だった。そこそこ頭の良い生徒しか入れないから、校内の民度は比較的高い。だから中学のようにいじめられる事は無かったし、僕以外でも知っている限りで校内にいじめは無かった。だが入学早々クラスで孤立し、落ちこぼれていった僕は、他のクラスメイトにとって冷笑の的であった。


 追い打ちをかけるように、僕は勉強の成績も落ちていった。中学の時は、国語、社会、理科が得意で、英語、数学が不得意、といったような状態だったが、高校に入って勉強のレベルが上がると、現代文と社会系科目でしか点が取れなくなっていた。部活に入っているわけでも無かったので、僕は更なる冷やかしの対象になったが、勉強をしなかったのでそれからも成績は落ちる一方だった。


 勉強をしなかったのは、本来は勉強に充てるべき時間を、他の事に費やしていたからだ。苦しみしかない高校生活。僕にとってのその捌け口は、放課後だった。


 部活に入っていなかったから、放課後の自由な時間は中学よりも増えた。だから、その時間で好きな事をずっとしていたかった。

 プロ野球のシーズンになるとテレビ中継をほぼ毎試合見たし、野球以外のスポーツ中継もよく見ていた。学校の休み時間になると、僕は教室に設置されている新聞を読む事くらいしかやる事がなく、スポーツ欄の効果で異様な情報量を身に着けたが、却ってそれが運動部等から気味悪がられた。


 入学祝いに親戚から貰ったノートパソコンがあったから、それでなんとなく文章を書き始めたのもこの頃だった。授業中も、真面目に聞いているふりをしながら小説のプロットを考えていた。


 こうして僕は、好きな事に籠るようになった。日中は苦行の高校生活を耐え、帰宅してから好きな事をする。その時間の為に生きるようになった。好きな物は僕を裏切らなかった。他者の評価に依存をせず、本当に自分が好きな物だけを好きと言い続けて生きてきたから、友達が居なくても一人で楽しむ事ができた。




 同じクラスに、トーレスというあだ名の生徒が居た。トーレスというのは、昨年からはJリーグでプレーし、先日引退を発表した元サッカースペイン代表のフェルナンド・トーレスの事だ。サッカーが好きで、フェルナンド・トーレスのファンであった彼は、いつしか何故かトーレスというあだ名で呼ばれるようにになっていた。


 トーレスはサッカー以外にも野球など、様々なスポーツが好きだった。そして、僕と同じ帰宅部だった。席が隣になった辺りから、トーレスは度々僕にスポーツの話題をふってくるようになった。「昨日の阪神の試合でさ」、「オランダとロシアの試合でね」……

 最初に話しかけてくるのはきまってトーレスで、僕から話しかけた事は殆ど無かったが、僕の高校三年間において、唯一まともに会話を交わした人物かもしれない。


 好きな物は一人でも楽しめていたし、それで満足していたが、それでもやっぱり、同じ趣味の話を誰かとするのは、その何倍も楽しかった。


 丁度その頃から、僕もサッカーを観始めていた。だからトーレスとはよく、野球とサッカーの話をした。部活あるあるで、実際にそのスポーツをやっている奴はプロの試合なんて観ずに練習をしているからあんまり詳しくない、というのがあるが、トーレスは帰宅部だったから、重要な試合は大体観ていた。だから僕と話が合った。


 ある日、移動教室で廊下を歩きながら、二人でクラブワールドカップの話をした。前年のその大会、日本からは浦和レッズが出場し、ブラジル人フォワードのワシントンが活躍していた。どちらからともなく、去年のワシントン凄かったな、という話になった。


 ワシントンはその年の浦和の躍進に大きく貢献したが、契約を更新せずにブラジルへと帰国していた。地元のフルミネンセというクラブに加入し、優勝すればクラブワールドカップに南米代表として出場できる、という大会の決勝で惜しくも敗れ、日本への凱旋が適わなかった直後だった。

 スポーツ欄を読み漁り、それ以外でもかねてからの情報収集癖でもって情報を集めまくっていた僕は、当然そんな経緯を知っていたし、サッカー好きであれば普通の話だと思っていた。だから階段を降りながら、ぼそっと言ったのだ。


「フルミネンセ、負けちゃったね……」


「……フルミネンセって何?」


 きょとんとした顔のトーレスがこちらを振り向いた。ああそうか、一般的サッカーファンであれば、欧州の強豪リーグでもないブラジルの、それも超強豪でもないクラブの事など普通は知らないのだなと、その時に気付いた。自分が異常に情報を収集しているだけなんだなと理解した。

 誰も悪くないのだが、何となくその時に、トーレスとの間の絶対に越えられない壁のような物を感じた。あんなゴミみたいな僕に話しかけてくれて本当に嬉しかったし、感謝もしているのだが、その後卒業するまで友達のような関係に発展する事は無かった。




 好きな事に……とにかく好きな事に没頭していたい。面白い事をずっと考えていたい。一ミリも面白くない日常の事など考えず、好きな事に時間を割きたい。好きな物をもっと好きになりたいし、もっと詳しくなりたい。好きな事で一番になりたい。


 僕のアイデンティティが、バチバチと音を立てながら猛烈なスピードで形成され始めた。

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