第5話 僕らはいつも
二〇一八年六月二日。金沢。
この日は僕の人生におけるターニングポイントとも言える日で、全ての始まりの日でもあり、そして同時に終わりに向けて動き出した日でもあるのだが、その話をするのはまだだいぶ先の事になりそうだ。
この日僕は、石川県の金沢に音楽フェスを観に来ていた。金沢に行くのは初めてだったが、六月上旬の快適な気候と、金沢駅の綺麗な駅舎が、夜行バスで疲れ切った僕を迎えてくれた。
会場は全国から集まったロックファンに溢れていた。知り合いと合流し、まずお目当てのバンドを観た後、僕はその知り合いについて行く形でとあるバンドを観た。
メインステージの後方には余裕過ぎるスペースがあった。僕らはそこに陣取り、パフォーマンス中のバンドを観る。知り合いが、「懐かしい」等と呟いていた。
そのバンドは、名をオレンジレンジという。僕にとっては、因縁深い名前だった。
実家に帰省した時に、整理されていない棚の中から、小学校時代の通知表が二冊ほど出てきたことがあった。それぞれ何年生の時の物かは忘れてしまったが、各学期の終了時に担任の先生が保護者へ向けて書く、子供の学校での様子の欄に書かれていた文章だけは鮮明に覚えている。
「二つの意見に分かれて発表を行うディスカッションの授業では、一人だけの発表になったにも関わらず、しっかりと自分の意見を主張できていました」
「休み時間もお友達と活発に過ごしていましたが、協調性が足りないと見受けられる事もありました」
「協調性」というワードが何度も何度も目に入って来て、当時二十歳頃だった僕は頭を抱えた。協調性……コミュニケーション能力の次に、僕に足りてない物である。
別に僕は、皆が右って言うと左、左って言うと右、といった俗に言う天邪鬼、というわけでは無かった。逆を張る事に対して喜びを感じていたわけでも、快感を覚えていたわけでもない。ただ、「周りが皆こう言っているから」という理由で自分の考えを変えることが無かったのと、意味のない事はしたくないだけだった。
中学校に入り、いよいよそんな僕の在り方が、周りと衝突し始めた。中学校はもう、僕が自由にやっても周りがそれを無頓着に見逃してくれる場所ではなかったのだ。
通っていた中学校は、体育用ジャージのデザインがいいと評判だった。紺を基調にオレンジと黄色のラインがあしらわれた物で、付近の他中学の生徒達と会う機会があると、よくジャージが羨ましいと言われた物だった。
そんなジャージの、胸の部分にあるファスナーを壊すのが、全校的に流行っていた。通常の状態であれば、ファスナーはしっかりと取っ手の部分を持って動かさなければ開かないのだが、安全ピンやシャープペンの先で取っ手の接続部分をガリガリと削るように壊すと、取っ手を持たなくても、襟の部分を左右に引っ張るだけでスーッとファスナーが開くようになる。
これを一年生から三年生、男女問わず全校生徒の殆どがやっていた。そして当然のように僕はやっていなかった。理由は単純明白、特に意味を見出せなかったからである。
ファスナーを壊す事に何の意味があるのだろうか。例えば、同じくらいの年頃の男子生徒がよくやる制服の着崩し方として、腰パンがある。あれをかっこいいと思うかどうかは別として、腰パンは明確にその見た目が変わる。自分でやろうとは思わないが、あれをかっこいいと思うのであれば、別に勝手にやってればいいんじゃないかと思う。
だがファスナーは壊したところで見た目に変化は全くない。実際に手に取って触ってみるまで、壊れているかどうかすらわからないのだ。
別にしっかり取っ手を持ってファスナーを開ける事をそんなに手間だとも思わないし、勝ったばかりの新品のジャージを壊すというのもなんか嫌だ。じゃあファスナー壊す意味ってある?????
だから、僕は絶対にジャージのファスナーを壊さなかった。するとそれに気付いた何人かのクラスメイトが、こう話しかけてくるのだ。
「貸してみ?俺が壊してやるから」
どうやら僕が壊し方を知らない奴だと思っていたらしいのだが、そうじゃない。意味が無いからやっていないだけだ。
「皆やってんだから、お前だけやってないのおかしいじゃん」
知らない。意味があるんだったら、皆がやってようがやってなかろうが、僕もやる。無いからやらない。
こんな押し問答を定期的にした。無理やり力尽くで壊されそうになった事もあったし、実際壊された事もある。だが壊されたことで、僕の生活は何一つ変わらなかった。腰パンのように生活指導の先生に怒られることも無いし、僕のジャージは変わらぬただのジャージだった。だから、意味なんてないんだって。
加えて、そのジャージのファスナーは一番下まで開けて着る、というのがその中学校での、ナウい、オシャレな、イケイケの着方だった。当然僕はファスナーを閉めて着ていた。
これに関しては別に、開けるのもアリだと思う。明確に見た目が変わる物だし、普通にファッションとして考えた時に、前のボタンを開けて着るか閉じて着るかの差のような物である。だから別に、開けたい人は開けて着ればいいし、閉めたい人は閉めて着ればいいのだ。
大事なのはここで、開けても閉めてもどっちでもいいのだ。一人一人が自分の意志で開けるか閉めるかを選択する。それが健全な在り方だ。
だが「皆が開けて着ていた」ので、「皆」から僕は異端の存在として見られた。
「なんでファスナー閉めて着てるんだよ、気持ち悪い」
そんな事をよく言われた。
その頃、世間で人気のミュージシャン筆頭だったのがオレンジレンジだった。人気ドラマの主題歌を何曲も担当し、サッカーワールドカップのテーマ曲にまで採用、新曲を出す度にオリコン上位を席巻していた。
当然僕らのクラスでもオレンジレンジは大人気だった。自己紹介や何かのプロフィールで好きなアーティストを書く欄があると、オレンジレンジと答える人が圧倒的に多かったし、友達同士でCDを貸しあったりしている奴もよく居た。
だが僕は、オレンジレンジにまったくハマっていなかった。主題歌になっているドラマも何本か見ていた記憶があるし、それ以外でもテレビ番組のいたるところで曲が流れていたので、当然のように代表曲は殆ど知っていたのだが、特に夢中になるほど好きだとは思わなかったし、CDが欲しい等とも思わなかった。
別に嫌いだったわけではない。オレンジレンジは当時の僕の好みの範疇には無かったから、好きと言う理由が無かっただけだ。
ある日の休み時間、高野というクラスメイトが話しかけて来た。同じ野球部だった事もあり、何かと話す事も多い奴だったが、僕は高野があまり得意ではなかった。
おちゃらけた奴で、部活にも勉強にもそれ以外にも適当に取り組む不真面目生徒だったが、明るくコミュニケーション能力もあったため、交友関係は広いタイプ。
悪い奴ではなかったが、自分からはあまり近寄りたくなかった。なんとなく、違う世界の人間なんだと思っていた。
話しかけて来た高野の第一声は「オレンジレンジ知ってる?」だった。きっとその話をしたくて堪らなかったのだろう。「あまり知らない」と、僕は正直に答えた。「興味ないの?」「ない」短い会話が何往復か続く。
やがて高野はため息をつくと、大体次のような事を捲し立てて、僕の前から去って行った。
「オレンジレンジは最高なんだぞ、皆好きって言ってるよ、聞かないと人生を半分損してる」
くだらないと思った。自分の最高な物は俺が自分で見て決める。皆が好きかどうかなんて関係なく俺が決める。
振り返れば後悔ばかりの人生だが、あの時オレンジレンジを聴いとけば良かったと後悔した事は一度も無い。薄っぺらい人生だが、あの時オレンジレンジを聴かなかったことで半分損するほどまで薄っぺらい人生でも無い。
あの時、皆の大好きなオレンジレンジが好きだった奴ら、聞いてるか?あんなに好きだったんだから、当然今もオレンジレンジの新譜を買っているんだよな?精力的に各地のフェスに出演しているオレンジレンジを観に行ってるんだよな?そのはずだよな?人の価値観否定するほど好きだったんだから。
こんな事があったから、僕の中で高野はしょうもない奴という認識だった。勉強も僕の方ができたし、進学先も僕の方が良い高校に受かったはずだ。部活においては残念ながら僕がド下手だったために勝ってたとは言えないが、二人とも引退するまで万年控えだった。
成人式の後の同窓会で、高野と再会した。なんと高野は、大学に通いながらバンドでギターを弾いており、それも結構な腕前だという。もしかしたらプロから声がかかるかもしれないという所まで来ている、という話を人伝に聞いた。皆が好きだからオレンジレンジが好きだったあの高野が、よりによって音楽でそんな事になっているとは、と驚いた。
一次会の会場から二次会が開かれる居酒屋まで歩きながら話していると、高野がこんな事を言った。
「お前、昔より面白くなったよな」
僕はこんな風に高野に褒められた記憶が無かった。だからそれもちょっとびっくりした。
成長してるんだな、皆。そんな漠然と浮かんだ言葉が、ひどく鋭利な刃物のように、僕の心臓の辺りを何度も貫く。
先を歩く同級生の所に高野が駆け足で歩み寄り、肩を組んで話している。その姿を眺めながら僕は、今勝てている所は何もないな、と思った。
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