辺境すぎる海上の駅で降りる

容原静

ちちおやへ

呟くこともないフォロワーの新しい呟きを期待して何度も更新を繰り返すが誰も呟かない。フォロワーもまた僕と同じように誰かの呟きを期待して暇を潰しているのだろうか。

長旅となった。離婚し別離した父親が暮らしているらしい町はこの世の土地とは思えない場所に存在する。海の向こう、約束された町。

海の上を電車は走る。最初は満員だった特急も今や両手で足りるほどの人数だ。同乗者はあの町に暮らしている人間たちであろう。自分はよそ者である。ちびちびやっている彼らが盛り上がっている言葉をほんの少ししか理解できない。

『終点。終点。ここではないどこか。ここではないどこかでございます』

自分の耳に聞こえたアナウンス。スマホに差し込んだ切符を取り出して確認する。自分が購入した行き先ではない。確か、路線はそのまま真っ直ぐに続くはずだ。なぜに終点。

『終点ここではないどこか。ここではないどこかでございます。お忘れ物ありませんようご注意ください。この電車車庫に入ります。車庫に入ります。終点です。早く出てください』

仕方がないので私は荷物をひとまとめにして外に出た。どうやら私が最後の乗客だったようである。

駅のホームへと降りる。海上の駅はあまり人が訪れないのが廃れている。ワカメや鳥の糞やその他諸々の海のゴミが散乱している。

外は快晴。めちゃくちゃ暑い。陸からかなり離れた地域なのに、蝉の声が聞こえる。夏の風物詩のつもりであろうか。どういった層の観光客を狙っているのだ。

水平線には薄い霧に覆われて約束された町が見える。

さて、自分は一体どうすればいいのだろうか。まずは抗議をするべきだろう。切符通り、路線通りの運行をしないでいながら、何の釈明もない鉄道会社に。

駅員がいるらしき小屋がホームの端に建てられている。自分は重い荷物を抱えて小屋へと足を進めた。所々にあるベンチとパラソル。数少ない乗客たちは酒盛りを始めていた。釣りをする爺さんもいる。

『ここではないどこか駅長室』

という札が貼ってあるドアを叩く。返事はない。なんども叩く。返事はない。無人駅というのだろうか。ならば、先程までの電車に乗っているであろう車掌さんたちに早く抗議しなければ。

もう遅かった。電車は既に車庫へと向かったあとで、ぶくぶくと電車が通過した余韻が海面で揺れている。自分はどんどんと小さくなっていく小豆色の電車の背面を見続けた。

どうしようか。ここからどのようにして、父がいる土地へ向かうことが可能か。此処にいる人間と自分が会話を出来るとは思えない。しかし、それぐらいしかやれることはないだろう。自分は酒盛りをする男たちの輪へ向かった。

「あのー、すみません」

自分の呼びかけに男たちはキリッと注視した。男たちの骨格は独特で、魚と猪が混ざり合ったようだった。彼らは始めて自分が同じ場所に存在することに気づいたようだ。それぞれが目配せをして

「どんたー。オムラはナチスからすっぱるうたぁ」

と気の良さそうな男が話しかけてきた。さて、上手く聞き取れなかった。失礼のないようにしなければならない。自分は逡巡する。これは難しい。

「ぽるらぽるら。てっとうさんころせー」

「こらこら」

彼らの間で何だかの談合が進んでいる。背が冷たい。こういう空気は苦手だ。自分は咳をする。少し気まずい。

男たちの中で一番小さな男がトコトコと小屋へと向かっていった。男は小屋の裏へと消えていった。一体自分はどうなるのか。今日の晩ごはんにもされるのだろうか。そこまで残酷なことをさも当然のようにやるはずもない。自分は自然と妄想を育ませていた。

自分は尚も話しかけてくる男たちの言葉に曖昧に首を上下に振り続けた。苦笑いをした。言葉を理解できないというのは非常に苦労する。一体私はどう料理されてもおかしくないのだから。

小屋の扉が開いた。中から小さな男とそれよりも更に小さな人が現れた。子供であろうか。女の子だ。彼女は暑いにもかかわらず、鉄道会社の社員が来てそうな黒い制服をぶかぶかと着ている。まさか駅員というのではないだろうね。

女の子は自分の前にきた。怪訝な顔を浮かべている自分の身体をジロジロと眺めて、ぶかぶかの帽子を深く被り直して(最初は頭に引っかかっていた)ごほんと咳をした。

「えっと何か御用でしょうか」

小学生高学年程度の女の子にしては低くてコクのある声に自分は感心する。世の中、探せばいるんだなと。

「あのー。聞こえてます?」

「こんにちは」

女の子はいきなりの挨拶に怪訝な顔をし

「こんにちは」

とおうむ返し。自分の姿勢を上手く掴めていないみたいだ。

「いやぁ会話が出来そうで安心したよ。ほんやくこんにゃくでもあれば話が違うんだけれど。ところで君は一体何なんだい。その年でこんな辺境の土地で働いているわけではないだろう」

「私はこの駅の駅長です。柊といいます」

女の子、柊ちゃんは少しずつずれていく帽子を被り直す。鬱陶しそうに帽子のツバを見つめている。

しかしこの子が駅長とは辺境というのは恐ろしい論理が罷り通る。背中が冷える。

「あのー、何か御用でしょうか」

自分は柊駅長に切符を差し出した。駅長は切符を受け取り、ジロジロと見つめる。

「これがどうかしましたか」

「どうも何も僕はこの駅が終点とは聞いていないよ。あそこに行くにはどうしたらいいんだい」

自分は水平線の向こうの町を指差した。柊駅長はぼーと自分の指を眺めている。

「あのー。知らないんですか」

駅長は尚も自分の指を見つめながら呟く。

「この駅からあの場所までの海は特殊で、通過できるときとできないときがあるんですよ。お客さんは電光掲示板を見てこなかったんですね。可哀想に」

「できないって、じゃあいつになったらあそこへ行けるんだ」

「一週間後です」

一週間。そこまで待っていられるものか。

「残念なお知らせは続きます。この駅からあなたがきた場所へ戻る電車も一週間に一度。お生憎なことに来週なんですよね」

「じゃあ僕はこの駅で待ちぼうけということですか。なんて最低な話だ。救いようがない」

自分は辺りを見回す。寂れたホーム。木造建ての駅長室。それ以外には何にもない。海の孤島。

「あなたみたいな立場の方は時々現れます。大丈夫です。生活するには不自由しない環境ではあるのです。ご安心してください」

ため息を吐くしかない。誰が好きこのんでこんな土地に一週間も。自分は目的の場所が遠ざかっていくような気を覚えた。


自分は駅長の案内に従い、駅長室に入室した。

中は乱雑な空間で、整理整頓という言葉を知らない様子だった。プラモデル水筒プリンアラモード。世のあらゆるものが一斉に集結した感を覚える。

「あっと、これをつけなくちゃ」

ごそごそと洗濯の山を漁って居た柊駅長は仕事を忘れていたみたいだ。書類の山の横にあるレコードを流し始めた。ラヴェルのボレロ。まるでこのヘンテコな空間全てに生命の秘儀が詰まっているかのように主張する。私は苦笑した。

柊駅長は私の苦笑にご立腹のようだ。頰を膨らませている。謝らなければ後が怖い。子供は何をするのかわからないのだから。

「すみませんすみません」

「一体何を笑うことがあるのですか。ボレロはそんなに面白い音楽ですか」

柊駅長の周りはガラクタの山。彼女は怒りに肩を震わせている。

「柊駅長さん、他の駅員さんは何処にいらっしゃるんですか。まさかあなた一人でこの駅を切り盛りしているわけではないでしょうね」

柊駅長はぼーと自分の顔をみつめる。

「よく聞かれるんですよねそれ。あなたにとっては悲報でしょうが、残念ながらこの駅は私が唯一の駅員です。しかし安心してください。私はこの駅で何年もたった一人で運営してきたのですから」

柊駅長は胸を張る。まだ成長期を迎えていない身体に言及するのは意地が悪い。自分は目を逸らした。

「あのー。話聞いています?」

柊駅長は不審そうに自分をみつめる。これはいけないと自分はごほんと咳をした。

「凄いですね。ところで親御さんは何処にいるんですか。まさかここで一人で生活しているわけないでしょうね」

「あなたって本当に私の心を虐めますね。私のこと、小さいからって舐めていると駅長権限ってやつ、使いますよ。一週間駅のホームで野宿しても構いませんよ。少しはですね、私の心遣いってやつを意識していただきたいものですね」

柊駅長は一人で生活して駅長としての生活をこなしているようだ。一体両親と日本の教育、福祉機関は何をしているのだ。このような辺境に労働基準法を無視した存在がいること、ご存知ないのか。

痛っ。柊駅長は自分の足の付け根を思いっきり踏んだ。目が潤んでいる。

「あなた。人の話は人の目をみて話すこと。返事をすること。海に突き飛ばすぞこの間抜け」

「すまないすまない。怒らせるつもりはまったくなかった。僕はよく気というものが抜けるんだ。なにかをつかんでいるときに別のものに気が散ってものを離してしまうといえば僕のことでね。これは内緒の話。申し訳なかったです。すみません」

「いいですよ。流石に私も大の大人にそう何回も卑屈に謝れると恐縮してします。人生の先輩の情けない姿って蜜の味しますけれど、私も弱いってこと知ってますからこちらこそすみません」

柊駅長はぺこりと頭を下げた。頭の帽子はゴムがしてあるのか完全には落ちずに耳に半がけ状態でぶらんぶらんとしている。柊駅長は頭を下げながら帽子を頭に乗せた。流石に駅長さんのプライドをこれ以上傷つけるわけにはいかない。私は下手にでた。

「駅長さん、頭をあげて。そんな駅長さんが頭を下げていたら私の方が申し訳なくなります」

「それもそうですね」

柊駅長さんはすぐに頭をあげた。彼女はあっけらかんとした顔をしている。

「色々問答がありましたけれど、結局はあなたは一週間ここで暮らすのですから、少しは私の物言いを聞くことですよ。勝手を知っているのは私なのですから」

柊駅長は机の上からカステラを取り出した。

「これ、お腹空いてるでしょ」

自分はありがたく頂いた。

食事後、私がこれから一週間を過ごす部屋へと案内される。

この建物はなかなか複雑怪奇で外から見た感じでは想像できないほど入り組んでおり、大変広い。

「ここら辺は次元が少し入り組んでおりまして、本土とは少し感覚が違うです。あなたは一週間程度しか此処に滞在しませんから関係ないでしょうがね」

至る部屋になんらかの生物が生息している。人間もいればわけのわからない黒いものもいる。あまり触れない方がいいだろう。約束の町は本土の感覚で生きようとしても無駄なのだ。此処はそういう場所なのだ。

私が案内された部屋はまるで牢獄のように冷たく狭かった。トイレとベットが横に置かれている。これは酷くないか。

「すみません。今此処しかあいていないんですよ」

「行く先々で見た空室は駄目なんですか」

「人間の目でみると大丈夫そうに見えますけれど。どうなってもいいのなら暮らしても大丈夫ですよ。私は知りませんよ。はい」

そうして部屋の中にいる自分を置いて柊駅長はドアの外に出て、鍵を閉めた。

「じゃあ、一週間後また来ますので」

「いや、違うだろ」

これが仮にも客人に対する対応だろうか。自分は少し涙が出て来た。自分は何のためにこんな辺境で足踏みしなければならないのか。犯罪者のような対応を取られなければならないのか。人権は何処へいった。

「もしかして気分を悪くしましたか。ごめんなさい。私、人の心の機微に傷をつけがちなんです。なにしろ、人間とあまり関わらないものですから」

柊駅長は頭を下げた。帽子は毎度同じくぶらんぶらんと宙を垂れる。

そのように頭を下げられて、了承したとします。すると私は獄中で一週間過ごさなければならないのだ。此処の駅は魔境すぎる。自分の頰に汗が垂れる。果たして一週間自分は生き残ることができるのか

自分は抗議をした。猛烈にだ。柊駅長が人と会話をする機会が少ない。猛烈に人間の意志を伝えなければどのような結末を迎えることか。このような獄中生活は避けなければならない。

流石に自分の抗議が伝わったのか、柊駅長は非礼を詫びて場所もないことだし、野宿は酷なので本当に気がすすまないが駅長室で寝泊まりすることを許可してくれた。駅長室は柊駅長の寝泊まり場所でもある。なんの縁もなかった二人の限定的な同棲生活。胸が自然と高まってくる。ただし

「変なことしたら直ぐに私の友達呼びますからね」

だそうだ。柊駅長さんの友達。それは本当に想像したくない怪物なんでしょうね。はい。


柊駅長さんとの生活は無事に続いている。食事も風呂もマッサージ機も完備。此処は天国のように人が堕落して生きるために作られているみたいだ。そして相変わらずのボレロ。寝るときまで流れている。自分は止めることを注文したが

「これは私たちにとって必要な事柄なのです」

といって聞かない。仕方がない。自分はあくまで客に過ぎないのだから。

柊駅長さんはこの駅でたった一人の駅員であったが、まったく仕事をしていない。朝起きて昼遊んで夜寝る。まったくの子供であった。

そのことを追求するとぶっと頰を膨らませて

「ちゃんとホームが問題ないか確認しているよ」

と外へと出て行く。

自分たちは基本的に引きこもりだった。

約束された場所の原住民であるかつての同乗者たちはホームで毎日酒浸りである。彼らは屋根の下で暮らさないのかと柊駅長さんに聞くと

「あなたとは違うんです。そのまま放ってあげて」

とうちのおかんのように言う。そうならばと自分は存在を無視した。

柊駅長さんとは同じ空間を共にするうちに仲が良くなって来た。最初は互いに無口で、動きを警戒していたが、次第にくだらないことでも笑いあえ始めた。

「あなたはどうしてあの場所へ行くの」

皿に載った丸焦げのウインナーを怪訝な顔で眺めている柊駅長さんは当然の疑問をぶつけてきた。私は丸焦げのウインナーをゴミ箱に捨てた。

「僕は父親に用事があるのさ」

好物のウインナーを捨てられて柊駅長さんは涙を浮かべて自分を睨む。彼女は焦げたウインナーを食する危険性をこれぽっちも理解していないようだ。彼女に最も足りないものは教養だった。栄養ももちろん足りていない。

「黒焦げはガンになるぞ」

「私のウインナーウインナー」

その日はそれっきり口を聞いてもらえなかった。

翌朝、柊駅長さんにウインナーのソテーをわざわざ作ってあげるとすぐに機嫌をよくした。子供は単純だ。

「あなたのお父様って人間じゃないの」

食後、すっかりご機嫌の柊駅長さんはお口についたケチャップを首にかけたナフキンで拭いている。

「人間だが。普通の親父だった。程よく酒を飲んで、眠って仕事をして妻と疎遠になる。普通すぎたよ」

「なぜそんなお父様があの場所へ行くのよ。不思議だわ。人間の感覚じゃ立っているのもままならないでしょうに。そんな場所にあなたも行くの」

柊駅長さんは心配そうに自分の瞳を見つめる。それは限りなく純粋だった。自分はそんな目を生まれて初めて見た気がした。何故だか自分の瞳からも涙が出てきた。

「あなたどうして泣いているの」

「俺にも、分からない。人は時にして不自然な行動をとることがあるからこれもそれの一種だろう」

柊駅長さんは手元に置かれていたハンカチを掴み、自分の頰をやさしく拭いた。

「あなたって本当はとてつもなく純粋なのかもね」

思いがけない言葉を彼女から戴いて、自分の感覚がドワリと膝を抜かした。一体どうして言葉というのは時にして不思議なほど私たちを狂わせる。

「俺はまったく純粋じゃないさ。そんなことより、水くれないか」

柊駅長さんは甲斐甲斐しくコップを持ってミネラルウォーターを取りにいった。

自分は咳をした。ボレロは未だに流れ続けている。

「そんなに大切な用事なら、私止めないけれど」

「君に一体どうして止める権利があるというのだ」

「だって、私この駅の駅長だから」

自分は駅長から戴いた水をゴクリと飲んだ。まだ、喉が渇いている。

「すまない。おかわり戴けないか」


一週間が経過した。柊駅長さんは毎朝の日課であるホーム確認を行う。自分は彼女に付き添い、ホームの端に座り込み薄く見える約束の場所をみていた。昨日遅くまで読書をしていたためあくびが出てしまう。

「今日、あの場所から電車がやってくるよ」

柊駅長さんはあくびをしながら白っぽい霧の空を眺めていた。

「どうしてわかる」

「風と空と海を見ればわかるのよ。あとはこれ」

彼女は大きなあくびをしでかした。

「これが1番の兆候」

自分にはただ夜遅くまで自分が寝ていることを確認してから(もちろん自分は読書をしていた)一人で魔女っ子ごっこをしていた弊害が出ているにすぎないと思った。

朝飯を食ったあと自分は荷物をまとめ始めた。とは言ってもそこまで荷物を広げていたわけでないためすぐに片付けを済ませたが。

ボレロは今日も流れていた。

「どれくらいで電車は来るんだ」

自分はホームで約束の地を眺め続けている柊駅長さんのもとへ行く。彼女は久し振りに制服に着替えて真剣そうな目つきを自分へ向けた。

「時刻表なんて此処にはないわ。ただ季節が合うかどうか。それだけなの」

彼女はそう言って再び約束の地の方を見始めた。あまりに真剣なので邪魔をしないようにホームに置かれたベンチに座る。周りには嘗ての同乗者たちは豪快にいびきをかいている。

しかし季節が合うとはどういうことであろうか。あの約束の場所だけではなく、この駅もよっぽど不思議な世界であることを一週間もい続けていれば自然と自分は理解した。

自分は電車が来るまでやきもちとする気持ちが抑えきれない。一週間も待った。物事が進展しないこの場所で。自分には苦痛でしかなかった。柊駅長さんはかわいらしい女の子だったが、彼女を取り巻く環境はあまりにも闇闇しくて触れない方がいいのではないかと感じられる。本当に父はどうして異常な匂いしかない場所へと足を進めたのか。にわかには信じられない。

「電車です。電車が来ました」

柊駅長さんは上ずった声で自分に伝えた。自分は思わず立ち上がり約束の場所の方を凝視した。柊駅長さんは手に握ったフラッグを大きく振り上げた。汽笛の音が聞こえる。海面を覆う薄い霧の中から汽車が現れた。青くて黒い昔ながらの電車だ。

柊駅長さんの指示に従い、ゆっくりと電車はホームに止まる。嘗ての同乗者たちは荷物を持って、所定の位置に並び始めている。自分も彼らの後ろに並ぶ。

電車は扉を開けた。みんな乗っていく。柊駅長さんが近づいて来た。

「行ってしまうんですね」

彼女は寂しそうな声をあげた。

「行きますよ。父はこの先にいるのですから」

彼女は俯く。

「楽しかったです。あなたとの一週間。もう二度と会えないかと思うと、職務を全うできませんが、此処で引き止めたい気持ちがあります」

「何を言ってます。帰りもどうせ此処で待ちぼうけくらうんですから。まぁ気長に待っておいてくださいよ。では」

そうして自分は電車の中へと足を進めた。

扉は閉まる。電車は動き始める。彼を乗せた電車が少しずつ霧に隠されるのを彼女は一心に見続けていた。

「二度と帰って来られるはずないのに。馬鹿なお人」


自分が座席に座り一息ついたあと手持ち無沙汰のなった状態を我慢できなかった。ようやくにして目的の土地へ辿り着くと考えると感慨深くなる。

自分は鞄を漁り、一冊の本を取り出した。

「………」

自分を見る小さな子供がいる。彼は私の手に握られた小さな本を注視している。そんなに興味深そうに見られるとなんだかサービスしたくなって来た。

「気になるかい。これはね。音楽の本なんだ。私が子供の時父親が購入してくれた本でね。あまり歌うことが好きじゃなかった僕であったが、父親が歌うことが好きでね。僕よりも父がこの本の歌を沢山知っている。でもあの人歌詞がないと歌えないんだ。性分なんだろうね。そのくせこんな大切な本を忘れているからさ。まぁそんな感じ」

彼は尚も本を眺め続けていた。自分はにっこりとうなづき、本を開いて歌い始めた。歌はグリーングリーン。窓の外の薄白い空を眺めながら元気よく歌った。

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