あの夏の非常口で待ってる。

東雲 彼方

「あの日、また屋上で」

 青い春と名付けられた、若々しさの象徴とも言えるような言葉がある。


“青春”


 もし俺にその言葉が当てはまるような時期があったとすればそれは高校生で、輝かしい未来に手を伸ばそうとしつつ、マンネリ化した日常は退屈だと感じ、最終的にはこのまま停滞していていいのかという不安に駆られる――以下ループ。そんな日々を送っていた。言ってしまえば俺はどこにでもいるようなただのガキで、特に秀でた特技やら何やらがあるわけでもなく、物語の主人公のように非日常に囲まれているわけでもない。そうだな、例えるなら道端に生えているペンペン草くらいがお似合いだろうか。

 そんな俺にとっての唯一の非日常的な出来事は“あの夏”くらいで。

 トン、トン……と薄暗く湿っぽい非常階段を上っていく。その先にあるのは非常口の緑と錆び付いた――俺が行かなければ二度と開けられることなど無かった筈の――ドア。老朽化がかなり進んでいて「立ち入り禁止」の張り紙がある。しかし一々そんなものに囚われていては目的は達せられない。ドアノブに手をかけゆっくりと捻ると、キィ……と錆びた蝶番の上げる悲鳴が非常階段に響いた。

 ドアの先は一転、視界に飛び込んできた光のあまりの眩しさに目を細める。空の青とコンクリートの灰色とのコントラストが激しいというか、快晴であった。屋上に置かれた真っ白な給水タンクが太陽光を反射するから余計に眩しくて。そっちの方向はまず見ていられない。

「よう、久しぶりだな、堀江」

「久しぶり、堺くん」

 視線の先はフェンスの前に立ったセミロングの黒髪少女。薄手のスカートと白のYシャツ。夏服は下着が透けやすいらしく、なんだかいけないものを見ている心地がする。嫌いじゃないけど好きじゃない、みたいな。

「相変わらず煩悩に塗れたような顔してるんだね」

「悪いかよ。お前のシャツが透けてんのが悪い。カーディガンとか着とけよ」

 呆れ顔でそう返せば、堀江は必ず挑発してくる。知っていて、言った。彼女は細くしなやかな指を胸元に伸ばし、ボタンをひとつ、そしてまたひとつと開ける。

「暑苦しくって敵わない。猛暑も猛暑よ。にふざけんなよってね」

 今日の気温は32度。真夏らしい暑さだ。湿度が高く、汗は蒸発しない。肌がチリチリと焼けるような日差しから逃げるように俺は日陰に退避した。

「よりによって、なんでこんな日に“待ち合わせ”すんのさ」

「怨むならの自分を怨め、阿呆」

「五年前?」

 不思議そうに首をかしげる堀江の顔を見てハッとする。そう、彼女はまだ知らない。俺だけが知る事実を伝えねばならない。だが今はまだその時ではない。暑さで張り付いたTシャツに冷や汗も滲む。

「いや、何でもない。気にしないでくれ」

「そんな言い方されたら気になるって。……まぁいいけど」

 そうだ、堀江はこういう奴だった。気になる事があっても他人の顔色を窺って無理そうなら諦める。それが彼女なりの処世術だった――後にそれが彼女自身の首を絞めたのだが。

 ジー……。耳障りな叫びが頭から離れない。限られた時間ときを生きるために、死ぬ直前まで愛されたいと蝉は啼く。そんな彼等に約束された未来など無いことを、俺は知っている。勿論、それは俺達にとっても。

「なぁ、お前は進路希望調査って何書いた?」

 唐突に投げた言葉は少なくとも彼女の思考を先程の失言からは引き離すことに成功したようだ。目ん玉落ちてくるんじゃねぇかってくらい、元から大きな目は更に大きく開かれている。

「進路希望調査って、私達まだ高1じゃん」

「夏休みの宿題にあったぞ」

「え、うそ」

 勿論嘘である。こんなのデタラメだ。しかし嘘を吐かねばならない理由が俺にはあった。この真夏の幻想を、茹だるような暑さが生んだ陽炎を、終わらせねばならない。それが出来るのは俺だけだから。

「俺は高1の夏、お前と出会った。ここで自殺しようとしていた時にお前に止められたのが最初だったな」

「え、何? 暑さで頭もやられちゃったの、堺くん」

 こんな言い方をされれば彼女は当然困惑する。だが今はそんなこと構うものか。幻覚に惑わされるな。ただ真実だけを吐けばいい。

「仕方無く生きた俺は高2の夏、進路希望調査は埋められなかった。高3になって、適当に知ってる大学の名前列挙して模試受けて、そのまま私大に受かったよ。それで去年学校サボりすぎて留年して、今は大学二年生をもう一回やり直してるところ」

「は……何、言ってんの」

 口の端を引き攣らせた彼女は一歩、また一歩と後退る。けど、俺はもう逃がさない。じりじりと逃げる彼女に迫っていく。

「全部これは“事実”だ。でもこれはあくまでもだけ。じゃあお前は?」

 元々白い肌が更に透けるような白さへと変わっていく。顔は青白い。――まるでみたいに。気持ちを落ち着けるように精一杯、肺の中に入った空気を吐き出し、新鮮な空気を体内に取り込む。さぁ、この悪夢を終わらせろ。真夏の夢から目を覚ませ。ここに在っていいのは事実だけだ。

「俺が死のうとしていたあの夏、死んだのは俺じゃなくてお前だったんだよ、堀江。今日はその命日」

「や、やめてよ、何言ってんの」

 彼女の視線は泳ぎ続ける。段々と俺を直視出来なくなってきているみたいだ。

「『キミが死ぬくらいなら私が死んであげよっか?』って言って目の前でこの屋上から飛び降りた。お前の体はその後ぐちゃぐちゃになって、校庭の隅には血溜りが出来た。あの光景を忘れることはないだろうなぁ。あの時お前は『こんなクソみたいな世界に未練はない』だなんて言ってたけど、なんで今でもここに留まり続けてるんだろうな」

 世界から音が消える。あんなに喧しかった蝉の鳴き声も聞こえない。今俺たちがいるのは幻想の中か、それとも現実か。その区別が出来ない程に堀江の存在は曖昧だった。透けているようで、それでもそこにいて。見えるし、影もあるけれどそれはあまりに薄くて。何が真実なのか分からなくなりそうだった。

「わたし、死んだ……キミの目の前で?」

「そう、目の前で」

 彼女の呼吸音だけが聞こえる。段々と過呼吸のようになっていって、息を吸って吐くまでの時間が短くなる。

「うそ」

「俺は嘘は吐かない。というか考えたら分かるだろ、校則で長期休暇だろうと私服での登校は認められていない筈なのに俺は私服で。なんならそこを歩いてる女子とお前の制服は違うだろ」

 高校の制服は俺たちが卒業した次の年にデザインが変わった。女子は紺の無地から黒地に青と白のチェックの入ったスカートに。堀江の着ている制服はまだ紺のままだった。

「そっか……私、死んだのか」

 何かスッキリしたような顔で彼女は空を仰ぐ。きっと聡明な彼女のことだから、とっくにこの違和感にも気付いていたのだろう。ただ気付かぬフリをして。

「何処か歯車が狂ったような、何かが欠けたような気はしていたけれど、こういうことだったのね。納得。未練はもしかしたらもう少しだけ堺くんと話していたかったとかそういう事かもしれないね」

 そう言って苦笑する彼女の目尻には涙が滲む。その姿がやけに眩しかった。影も容貌かたちも薄くなって、次第に背景と同化していく目の前の少女。美しく気高く儚いその存在は真夏の陽炎が生み出した幻想に過ぎない。本来あってはならないモノ。

「もう気は済んだか」

「うん。もう大丈夫。堺くん、真実を伝えてくれてありがとう」

 一筋、目から光が溢れる。泣かせてしまったという罪悪感と、これで救われるという安心感とが混在してどう表現したらいいのか分からない感情が俺の体を埋め尽くす。

「じゃあ、な」

「ありがとう、さようなら」

 その一言と共に彼女は完全に背景に溶け、消えた。その瞬間世界に音が戻ってくる。喧しい蝉の声も、グラウンドを走る野球部の少年達の叫びも、本番間近で必死な吹奏楽部の音色も、全て自分の耳に飛び込んできた。

 これでやっと、俺たちは開放される。真夏の魔物が遺した幻想から、やっと――。


「じゃあな、堀江。サヨナラ、俺の青春」


 もうこの屋上に聡明だった黒髪の少女はいない。同時に俺の役目も全て果たした。何事も無かったかのように踵を返し、ドアノブに手を掛ける。また錆び付いた蝶番の軋む音が響き、そしてバタン、と勢い良くドアは閉ざされた。

 びゅうと突風が吹いて青葉が舞う。ジリジリと焼き付けるような日差しの中、屋上には白百合の花束だけが残されていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あの夏の非常口で待ってる。 東雲 彼方 @Kanata-S317

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ