月の無い宇宙へ

丸井零

序文

第一版序文

 これはある二人の宇宙生命体の物語だ。

 これは愛の物語だ。そして幸せを探す物語だ。

 彼*1たちは自らを「人間」と呼び、その故郷を「地球」と呼んだ。地球から恵みを受け取り、八百*2もの人間と共にその豊かな生活を送っていた。しかし愛は時として不幸を呼ぶ。どうやらこれは宇宙共通の事柄らしい。

 彼女たちの暮らす地球はゆりかごとしての使命を終えた。それは墓場となり、人間たちを飲み込んだ。彼女たちは逃れた。運良く逃れることができた。宇宙を旅する船をつくり、新たなゆりかごを探し求めた。しかし過酷な環境の中で、希望の見えない病棟の中で、人間たちの間に狂気が蔓延した。ある者はナイフを、ある者は鉄パイプを手にとり、互いに命を刈り取った。

 幼かった彼女たちは、狂気の影響を受けなかったらしい。狂気の宴会が収まるまで、船の奥底でじっとしていた。宴は終わった。

それは同時に彼女たち、あるいは人間最後のグランドツア*3の始まりでもあった。

この著書は、そんな彼女たちの手記、情報記憶媒体の分析結果、宇宙船内の様子、など客観的な情報から忠実に作成されたドキュメンタリーである。

 もちろん出版にあたって、多少の順番の操作や内容の修正などは行っているが、それは彼女たちの遺志を踏みにじるものでは決してないと言えよう。


*1:彼女

我々の身体は、生殖行為を行った後で子を体内に宿す側と栄養を与える側に分かれる。しかし彼女たち人間の身体は、生まれたときから子を宿す側が決まっているようだ。なので性別の概念は我々と大きく異なっている。

 本書では簡単のため、子を体内に宿した後の個体に我々が使っている「彼女」や「彼女たち」「女」などの呼称をこの物語の二人の人間に適用する。


*2:八百万

地球にあった「日本」という地域で使われていた言葉で、きわめて数が多いことを意味する。


*3:グランドツアー

地球にあった「イギリス」という地域で行われていた旅行。裕福な青年たちが学業を修めた後に国外を大規模に旅することを言う。



#第二版序文

 この本で最も重要なことは、これがある宇宙生命体の物語であり、愛の物語であり、そのテーマは宇宙普遍のものだということである。

 この本を読んでいるあなたは今、死へ向かって歩いている。

 あなたは昨日、誰に会っただろうか? その人とはあと何日、一緒にいられるだろうか?

 あなたは生きることが好きか、得意か、楽しいと感じるか?あるいは嫌いか、苦手か、苦しいと感じるか?

 あなたが生きた結果、この世界にどんな影響を与えるだろうか? あなたが生きる意味とはなにか?

 これらの問いを彼女たちの生き方から読みとることができた。手帳から、情報記憶媒体から、船内の様子から、問いの答えを少しずつ拾い集めた。それは鉱山や油田を探すように骨が折れる大事業であった。しかしそれが見つかった時の喜びを想像すると、私はこの事業を打ち捨ててしまうことなど決して出来なかった。


 この本の著者として、もっと正確には編者として、この事業は成功したと断言できる。彼女たちが辿った行程は、酷く入り組み、曲がりくねっている。この本の読者は、時折道に迷ってしまうこともあるかもしれない。しかし諦めないでほしい。足下ばかり見ていないで、方角を教えてくれる夜空を見上げながらしっかりと彼女たちの背中を追いかけて行ってほしい。


 地球の人間たちは、「北極*1」という名前の星をいつも目印にしていたらしい。踏んだことのない土地を自らの足で踏みしめるために、人間たちはいつも星空を見上げていたのだ。

 この本が世界中の人々の北極星として輝くことを、私は願う。


*1:北極星

地球の極方向に位置する天体で、常に同じ方角に観測することができる。ポラリスとも呼ばれていた。

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