後編
意識が急激に覚醒していく。
ガバッ、と体を勢いよく起こすと、そこはついさっきいた小屋の中だった。
手汗がじっとりと床をつたう。気付くと、手汗だけでなく背中も汗で濡れていた。
「……」
まずは現状を把握しようと、ゆっくりと立ち上がる。夏バテの再発なのか、体が余計に重く感じた。
俺の名前は? 枝野東吾だ。
僕の年齢は? 17歳。
僕の性別は? 男性。だと思う。
今日の日付は? 8月6日。
何が起こった? 簡単に言うと幽体離脱? 分からん。幽体離脱と言うよりは、どちらかというとテレポーテーションか、あるいはテレパシー的な感じだったが。
俺の好きな食べ物は? とんかつ。
……!?
たった今、違和感の正体に気が付いた。夢なのかは分からないが、先程の女性が、俺はお寿司が好きだと言っていたのだ。
つまり、あり得る可能性は2つ。
ひとつ目は、俺がお寿司が好きな違う人の意識に入り込んだという説。仕組みは全く見当がつかないが、そう考えればひとまず感じた違和感は解消される。
ふたつ目は、僕自身が病室に飛ばされたという説。こっちの場合、ただでさえ不可解な事象が発生したのに会話の辻褄も合わなくなるという、しっちゃかめっちゃかな理論が生まれてしまう。なるべくなら最初の説である事を願いたいが、どっちにしろ小屋が超常的な力を孕んでいる事に気付き、軽い目眩に襲われる。
そもそも、何でこのような事態になったのかすら不明だ。小屋の超常現象だという前提で考えていたが、もしかしたら小屋が原因なのでは無く、僕に眠る潜在的な超能力の可能性…まあ、無くはないが限りなくゼロに近いな。
とりあえず難しい事を考えるのはやめて、一旦家に帰宅する事にした。小屋の中でウンウン唸っていても解決の糸口は見つかりそうになかったからだ。
それに、僕のじいちゃん。いつもは不気味なくらい無口なじいちゃんが、なぜか今回は解決のカギを握っているような気がした。
「ただいま」
ガタガタになって現役引退間際を迎えている玄関を開けて、僕は家の中に入った。じいちゃんとばあちゃんのどちらの靴も置いてあるところを見るに、まだ出かけてはいないようだ。
「おかえり。早かったね」
ばあちゃんが台所から顔を出す。まだ料理中なのだろうか。
「そんなに早かったか?」
疑問に思って、廊下を抜けて台所に入った。見ると、じいちゃんが丁度食器を洗っているところだった。
「早かったわよ。10分ぐらいかしら」
ばあちゃんが顔もあげずにそう答える。なるほど、料理中では無くじいちゃんと一緒に食器洗いの最中だったらしい。
「そんなにか。いや、気づかなかったな」
とりあえずそう答えておいて、僕は静かに2階に上がっていった。自分の部屋に入り、ドアを閉めてベッドに寝転がる。
どうやら、小屋の中の別空間にいる時は、こちら側の時間は止まっているようだ。ばあちゃんが10分しか経っていないと言っていた事から、別の時間軸にでも運ばれたのだろうか。
「一体、なにが起きてるんだ……」
とてもこの世の事象とは思えない事ばかりだ。
違う人の意識、時間軸の概念、それにテレポーテーション。中1の学生が大学の数学の授業に放り込まれたら、こんな感情を持つんだろうな。
などと無駄に詳しいたとえが頭の中に浮かび上がってくる。雑念を振り払い、もう一度この不可解な現象について考えを巡らせよう。
あ、そうだ。昔、タイムトラベルものの映画で観た事があるぞ。確か、自分の時間軸を確認するには第三者に尋ねてみればいいのだ。今日は何年何月何日ですか、って。かなり気まずい空気が流れるだろうが、背に腹は代えられない。多少は我慢しよう。
「はいっていい?」
こんこん、というノックとともにばあちゃんの声が聞こえた。お、丁度いい時にきた。ばあちゃんに今日の年月を訊いてみよう。
「いいよ」
僕は、ばあちゃんに軽く返事をする。その後、ばあちゃんが扉を開けて部屋に入って来た。
「何か用?」
「いや、東吾が何か難しい顔をしていたから、気になって来てみたの。何か困ってる?」
さすがばあちゃん。年の功は侮れない。
「うん、実はさ。今日の日付をド忘れしちゃったんだよね。何日だっけ」
僕は、努めて自然にふるまう。うん、完璧。話題の提示もそうだし、ド忘れという単語による不可抗力さもさりげなく伝えていて、満点がもらえるだろう。自然と、僕は笑顔になる。
「……おかしな子ね。それくらい、覚えておきなさいよ」
前言撤回。どうやらばあちゃんには勝てなかったらしく、おまけに変な子という烙印を押されてしまった。まあ、どうせ家庭内だけだし、なんら害のある事でもない。
「今日は8月6日。1983年よ」
ばあちゃんがそう口にした。僕の浮かべていた笑顔が凍りつく。
木々を駆け抜け、僕は必死で走る。既に息が切れそうになっているが、今はそんな状況ではなかった。ペキペキと地面に散らばった枝を踏みつけながら、背後から迫る声から逃走を図る。
「ちょっと、東吾!待ちなさい!」
ばあちゃんが叫んでいるが、今は気にしていられない。うろ覚えの道を辿りながら、あの小屋に向かって全力疾走。
なぜばあちゃんから逃げようとしているのかって?それは、僕が気付いたから。
僕は、父さんだ。
俺は、息子だ。
父さんの記憶が僕の中にあった。枝野東吾というのは俺の名前だし、僕の本名は枝野健吾だ。あーもう、いちいち父さんの記憶が乱入してきて考えづらい。ちょっと父さん黙ってて。
ともかく、どうやら僕の知らない間に父さんの記憶が混ざっていたらしい。一人称がバラバラなのもそのせいだろう。好きなものが違うのも当然だし。
厳密に言うと、僕の意識が父さんの体に入り込んだ、という方が正確だ。ばあちゃんが口にした年月日は、父さんが失踪した日。つまり、僕は今、父さんの体を借りて失踪しようとしている。あの小屋を使って。タイムトラベル中に父さんの体が消えているかどうかは分からないが、賭けるしかないだろう。
消えていたら僕は脱出成功。父さんの体も消えて、歴史は元どおりに動き出す。
残っていたら、脱出失敗。歴史は分岐点に立たされ、僕の知らない道を歩み始める。その場合、恐らく僕は消える。
消える?それがどうした。ずっと、現実はいたずら好きだと思っていた。願ったり叶ったりだ。文字通り天国か地獄かの経験なんて、人間そうそうしないだろう。
そんな楽天的な考えで僕は動いていた。
追いかけられているとは言っても、相手は所詮老人。見習い神主とはいえ青春真っ盛りの僕と比べれば、体力の差は歴然だ。現に、大きかったおばあちゃんの声がかなり小さくなっていた。
少し気持ちを落ち着かせて走っていると、またあの小屋が見えてきた。最初に見た時はおんぼろだと感じたが、今はとても重厚な建物に見えた。こいつが歴史を左右するのか……。今更ながら少し不安を覚える。
ブンブンと首を振って雑念を振り払い、歩みの速度を落とす。
ふう。最早ばあちゃんの声は全く聞こえていなかった。意を決して、小屋のドアを開ける。
以前と変わらぬ、物置小屋のような内装。そういえばタイムトラベルの条件を全く知らないことに気がついた。あの時は確かドアを閉めたっけ、と考え小屋の中に入る。木戸を閉めて―。
「……」
扉の後ろにじいちゃんがじっと立っていた。
「なっ!?」
驚きのあまり足を滑らせる。背中に鈍い衝撃が走り、窓から青空がうっすら目に入る。痛みに悶絶していると、目の前にじいちゃんの顔が現れた。
「あ、じいちゃん……」
いつも黙っているじいちゃんに見据えられて、身体が金縛りにあったみたいに硬直する。
「……東吾……」
じいちゃんが、父さんの名前を呼ぶ。どうでもいいが、一回も鏡で自分の姿を見ていなかった。朝、髪を直していたら……。
「お、おやじ」
父さんがじいちゃんのことをどう読んでいたのかわからないので、とりあえずオーソドックスな呼び名を選択してみる。
「お前の居場所は、ここではない。早く、戻るんだ」
いやそれは分かっているって。だから早くタイムトラベルをして元の時代に戻ろうと―。
「……おやじ、なんでそんなこと、知っているんだ?」
ふとそのことに気づき、じいちゃんに質問してみる。じいちゃんの瞳が僕の瞳とぶつかり合い、そして離れた。
「わしは知らない」
いや、そんなことを言われても、知らないはずが--。
不意に、じいちゃんの右手が僕の視界を覆った。
「戻るんだ」
「戻ってきなさい!」
そんな声が聞こえた気がしたが、誰が何を言ったのか、僕に確認する術は無かった。身体から力が抜けた感覚が僕を襲い、視界がまた暗闇に包まれる。
一瞬だけ、白い糸が見えたような気がした。
「健吾くん、覚醒しました!」
聞き覚えのある声が脳内で響いた。どうやら僕は帰ってきたようだ。瞼に力を入れ、視覚の情報を得ようとする。
うっすらと、白い糸が見えてきた。
やがてそれは拡大されていき、平べったい純白となる。
そこに、2人の女性の姿が割り込んできた。
ひとりは白い帽子を被った若い女性。上半身も白い服で包まれていることから、何らかの仕事をしている人だろうと結論づける。
もうひとりは対照的に、黒いブラウスを纏った静謐な女性。こっちは至福のようだが、どこかで見た気がする。
「ああ、良かった! 健吾、起きたのね!」
黒い方の女性が涙を浮かべていきなり抱き締めてくる。ほっそりとした腕が首に絡まり、ほのかに温かい感じが身を包んだ。
「枝野健吾さん、覚醒しました!」
もうひとりの女性が視界から外れ、どこかに叫んでいる音がする。なるほど、どうやらここは病院らしい。パタパタ、と歩く音が遠ざかっていく。間もなく僕と女性だけになった。
あなたは誰、と言うために口を開けようとしたが、声が出なかった。びっくりして口を閉じる。
「……健吾、まだ無理しないでね。あんなことがあった後だから、後遺症があるかもしれない」
あんなこと? どんなことだろう。病院に寝かされているということは決して良いことではないはずだ。
「災難ね、お父さんの遺伝子が引き継がれちゃって」
急に女性の声が憐れみを含んだトーンになる。父さんの遺伝子?
「重い乖離状態にあったみたいだから覚えていないかもしれないけど、健吾、1年前に遺伝性統合失調症を引き起こしたじゃない。そのせいで自分から車にぶつかりに行って」
マジかよ。
僕の身体能力が今どうなっているのか見当もつかないが、五感のうち視覚、聴覚、触覚しか動いていないのはかなりまずいのではないだろうか。交通事故は様々な後遺症が残るというし、案外本当のことを言っているのかもしれない。
「おばあちゃんはヒステリーを起こしてあの日から口をきかないし、じいちゃんはずっと小屋にこもりっきりで、家族が滅茶苦茶よ」
女性の声が段々と険しさを増していった。家族という言葉から察するに、僕の母親だろうか。一目も見たことないから分からない。
それ以前に、僕の両親は交通事故で死んだのではないのか。しかも、じいちゃんがこもっているという小屋がとても気になる。
疑問が渦巻く脳内を一旦シャットアウトすると、目の前では先程涙ぐんでいた女性が、今はすっかり苛立ちの混じった顔になっていた。百面相かよ。
「お母さま、そろそろ患者様から離れて……」
不意に先程の女性の声が聞こえてきた。ナースさんなのだろうか、とりあえずその道のプロが来てくれてホッと安心した。
「……!? お母さま、ナイフを下ろしてください!」
オーケー、どうやらこれは夢のようだ。息子と感動の再開なのにナイフを掲げるなんて、何事だ。
そのナイフが視界にゆっくりと入ってきた。
「……健吾さえいなければ、私の人生も狂わなかったのに!」
鼻息の荒い母さんがどうやら暴走しているようだ。お寿司屋さんは何処へやら、僕は覚醒してすぐ殺されるらしい。
まあ、いいか。
どうせ僕の糸が切れるのなんて一瞬だ。僕のような細い糸なんて、この世から淘汰されて当然なのかもしれない。弱肉強食が摂理なら、僕は運命を全うして、死ぬべくして死んでいくことになる。それなら、母さんの願望ごと叶えてあげよう。
そんなことをぼーっと考えていた。ナイフが降りてくるのが、出来の悪いB級映画のスローモーションみたいだった。
色々疑問は残ったけど、母さん。
また新たな糸束で逢おう。
ナイフがぐんぐん近づいてきて、遂に視界が真っ暗になる。
「東吾、朝ご飯よ~」
聞き覚えのある声が耳に入る。
これは……ばあちゃん?
いやいやそんなはずは、と心の中で考えるが、無情にも両目がぱっちりと開く。
築60年のおんぼろ屋根が目に飛び込んできた。
全く、現実というものはトコトンいたずら好きらしい。しかも今度は、『夢』という摩訶不思議なモノまでおまけでついてきた。さてさて、僕の本当の現実はどっちなんだろうか。
何でこんなに早く適応できるのかって? そりゃあ、もう慣れっこだからさ。
「……あ」
今の言葉で、思い出した。一番重要なもの。
僕の原点。
僕の思考の始発点。
本当の現実は。
あの小屋だ。
2008年8月6日 おとーふ @Toufu_1073
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