2008年8月6日
おとーふ
前編
僕は、ある田舎の神社に住む見習い神主。現職のじいちゃんとそれをサポートするばあちゃんの三人で暮らしている。両親は僕が幼い頃に高速道路で玉突き事故にあって死んだらしく、僕は両親の事をはっきりとは覚えていない。じいちゃんが言うには、母の方がしっかり者で、父が独り言の多いピントのずれた人だったそうだ。そんなでこぼこコンビがどのように整合性を保ってきたのかはわからないが、僕はひそかにこう思っている。二人が対極に位置し過ぎて、逆に相性が良かったんじゃないかな、と。
本来なら神主の職に就くはずの父は家を飛び出し、ひとり上京して美術の大学に入ったらしい。父の自由奔放な性格がここでも如実に表れている訳だが、その大学で母と出会ったものだから人生というものは分からない。
その後自分の絵画を個展に出してそこそこ儲かったらしく、逆にスポンサーからのプレッシャーに耐え切れず画家をすぐにやめてしまった。そこからは母が働いているかたわら自堕落な生活を送っていた、とじいちゃんが教えてくれた。
そんな反面教師を親に持ったせいかは自分でも分からないが、僕は真面目に家業を継ぐために勉学に励むことにしている。優等生と呼べる程の学力は学校によって差が出るのだが、その中でも僕は全国的に見ても上位に食い込めるくらいの実力を隠し持っていたらしい。自分でも気づかない自らの事なんてこの世にはたくさんあるのだ、という事をこの時学んだ。
あいにくこの辺鄙な町には高校が無いため、僕はわざわざ朝夕一本ずつしかない市営バスを使って高校に通っている。最寄りの友達の家は車で三十分、町にあるのはスナックとバーという、おおよそ思春期の男の子には似合わない町だ。
もちろんそんなオトナの社交場に足を踏み入れるような事はしない。俺の大好きなトンカツ屋さんが高校のすぐ近くにあるので、時々そこで外食をしている。通学範囲からも外れているため、俗に言う「孤高の優等生」という役柄を頂いている。不名誉極まりないが、嘆いても現実は変わらないものだ。あまり気にしなければ、それほど害にもならない。
現実は頑固なのだ。人それぞれの人生はあるものの、その全ては複雑に絡まり合っている。ひとつの糸が足掻いたところで、束の形は変わらない。僕が直面している現実を訴えても、周りの糸は素知らぬ顔でぶら下がる。
また、現実はいたずら好きでもある。幸福な人を絶望のどん底に突き落としたり、借金まみれの者を一躍有名人に抜擢したり。それも全て、絡み合う糸のせいだ。糸の根っこを鋏でプツンと切るだけでその糸は束から滑り落ちる。権力を持つ太い糸が動けば、細い糸でも自由に動けるようになる。
そして、その糸の束は必ずしもひとつとは限らない。
「朝ご飯よ~」
布団でごろごろと小説を読んでいたら、一階からばあちゃんが呼ぶ声が聞こえた。
「は~い。今いくよ」
僕は読んでいた本を乱雑に脇の机に投げた。築60年の趣ある屋根を見ながら、布団から起き上がる。散乱した参考書とノート類にあたり、バタンという音を立てた。
いつもならばシャキッと目を覚ますために洗面所に直行するのだが、今日は夏休み。慌てて準備しなくていい事に感謝し、ぼさぼさの頭をくしゃくしゃしながら、扉へと歩く。髪を直すために毎日鏡に向かうのは、性格的に合っていない。
「う~、だるい。なんか体が重いぞ……」
夏バテだろうか、全体的に倦怠感が漂っていた。手を開閉してみるが、少し感覚とずれているように感じた。
「ま、そのうち治るか」
気を取り直し、部屋を出てそのまま廊下を突っ切る。キッチンに出ると、じいちゃんとばあちゃんがもう既に食卓についていた。
「おはよう。お、今日の朝ご飯はさばの塩焼きか」
椅子を引いて座ると、いかにも日本家庭らしい白米、味噌汁、そしてさばが用意されていた。
「そうよ。夏だから胆力つけないとね」
ばあちゃんが言った。
「お、丁度いい。ちょっと夏バテ気味だったんだ」
「良かった」
会話はそこで途切れた。と言っても、仲が悪い訳でも無い。じいちゃんはいつも無口だし、黙々と食べるのが習慣となっているだけだ。僕は静かに箸を動かし、朝ご飯を平らげる。
「ごちそうさま。ちょっと、散歩行ってくる」
「はい、おいしそうに食べてたね。散歩、行ってらっしゃい」
食器を片づけると、ばあちゃんがにこにこと言った。対照的に、じいちゃんはこちらを睨みつけるような目で見て来る。
反応をしても返事はどうせ帰ってこないので、僕は黙って玄関へ向かった。
「……ごちそうさま」
背後でかすかにじいちゃんの声が聞こえた。
家の外に出ると、清々しい快晴だった。雲ひとつない、という表現はまさにこういう際に使うのだろう。そう思える程空が青かった。風も全く無い。
気温はというと、やはり八月上旬の湿っぽい暑さだった。まとわりつくような嫌な感覚を察知し、散歩は軽めに留めておこうと決める。
蝉の鳴き声を聞きながら、僕はじいちゃんが神主を務める神社の境内を目指して歩いて行った。じいちゃんの持つ土地は広大で、住んでいても行った事の無い建物がぽつんと建っている時がある。大抵の場合、それらは先祖代々続く倉庫だ。
時々通る舗装された道を通るのも面白くないので、僕は左脇にどっしりと構えている名も無き山を通っていく事にした。と言っても国土交通省の安全基準云々のせいで、獣道の脇に夜だけ点灯するあかりが立っているので、あまり冒険している気にはならない。せいぜい蝉の鳴き声がより近くで聞こえる事ぐらいだ。
しばらく踏み固められた道を歩いていると、僕は見慣れない広場に出た。鬱蒼とした森の中に、不自然にそこだけが綺麗に広げられている。
中央には、古ぼけた木造の小屋がたっていた。薄汚れた木の板で辛うじてその形を保っているように見える。窓のような類も無く、あるのはノブのついた扉だけだった。
僕は、特に気にする事も無く前を通り過ぎようとした。どうせ、またよくある先祖の作った倉庫だろう、そう考えたのだ。
「……起きて……なさそう……」
半ば通り過ぎようとしたその時、女の声が小屋の中から聞こえてきた。パタリと足を止める。もう声は聞こえなくなっていたが、怪訝に思って足を逆向きに運ぶ。
「誰かいるのか?」
少し声を張り上げて問うてみたが、何も返答はこなかった。
しかし、気のせいかと思って離れようとすると、やはり同じ声が聞こえてくる。
「なんだ……?」
少し興味を持った僕は、半ば本能的に小屋の扉を開けた。
「……いたって普通の小屋だな」
少々緊張して扉を押し開いてみたものの、中身はと言えばごく普通の小屋だった。古びた農作業の道具がいくつか壁に立てかけてあり、床には腐った葉や土が汚らしく広がっていた。
「天井か?」
もしかしたら上から何かぶら下がっているのかも、と思い意を決して足を踏み入れるが、特に目立ったものは無かった。電気のような類もなく、明らかに人の気配は無い。
とその時、不意に扉が勢いよく閉まった。バタン、という音と同時に辺りが少し振動で震える。
「……ん、風かな」
僕はいたって普通に小屋を出ようとするが、はたと立ち止まる。
「……今日、風吹いていたっけ?」
僕の記憶が正しければ、今日は雲ひとつない青空だったはずだ。そしてもちろん、風も一切吹かない。
そこまで考えがたどり着いて、初めて背筋を悪寒が走る。
「気味が悪い。さっさと帰ろ」
そう思い、足早に扉に手をかける。
しかし、それは最後まで続かなかった。
突然、体を強い眠気が襲った。思考するのが辛くなり、膝を落とす。鼻がムズムズするような感覚が一瞬よぎった後、頭の重さを支えていた肩甲挙筋が弛緩するのを感じる。
ゴンッ、という音を聞かないまま、僕は暗闇に飲み込まれた。
ああ、これは波乱の予感しかしない。
「ん〜、健吾くんは今日も起きなそうですね」
女性が話している声が聞こえる。
「はい、分かりました。お世話、ありがとうございます」
また声が聞こえた。今度は違う女性のそれだ。どこか懐かしい感じがするのは気のせいだろうか。落ち着いている様子だが、悲しみも混じっている。
そこまで思って、僕は口を動かそうとした。何故か目が開けられないが、それなら口を使って意思疎通すればいい。
声は出なかった。
「これって、健吾は私の声、聞こえているんですか?」
また声がした。喋りたいのに喋れないもどかしさを感じながらも、僕は流れに身をまかせる。できない事を無理にやろうとしても無駄だ。経験している。
「そうですね、意識はないようですが聞こえているとは思います」
意識はない?ああ、そうか。だから喋ったり目を開けたりできないのか。変なものだ。こうやって思考はできているのに。
「じゃあ、健吾。起きたら大好きなお寿司屋さん、いこうね」
そこまで聞いたところで、急に眠気がまた満ちてきた。
先程の体験があるので、今回は逆らわずに、素直に心を眠らせる。だから吸収が早いとか、優等生とか言われるんかな。僕は、人生で必要なのは素直さだと結論づける。
って、お寿司屋さん?
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