何時か何かが何処かで動く
「可愛い!!」
試着室のカーテンを開いて姿を見せたユキには、その単語が強烈に似合っていた。もはや可愛いの権化、チャーミングの化身、紛うことなき可憐の体現。視界に写る人型の何かを脳裏に焼き付けるためにじっくりと眺めまわす。いっそこのまま剥製にしてお家に飾ろうか。
まあ、冗談だけど。
どこからどこまでかは明言しないが。
「そう?……これ私に似合ってるかな?」
ユキは私の煽てがあまり心に響いていないのか、鏡を見ながら首を傾げていた。言われて改めて見直すとまあそこそこの可愛さだ。何着けても第一声は可愛いにしようって決めてたからな。深く考えないで言ったのは事実だ。
「そこそこには似合ってると思うよ」
トレンチコートの襟もとをバサバサと動かすユキに言う。ファッションのことは普通以上に詳しくないが、ベージュのコートはよく似合っているように見えた。
「うーん……別にいらないかなあ」
ユキは私の助言にはほとんど耳を傾けず、結局一人で結論を出してしまった。試着室のカーテンがピシャリと閉じられ、視界はピンクに染められる。賢明な判断だとは思うが、いささか失礼な態度じゃないか。
待ち時間はぼーっとするのに限る。本を読んでいてもいいのだが、流石に時間が短すぎる。
しかし、読書か。別に昔は好きでもなかったんだけどな。活字に親しむのは、大人になった証なのだろうか。それとも、自分からは行動を起こせない子供の象徴なのだろうか。答えは分からないけど、別にどっちでもいい。
今は、待ち人は必ず来てくれる。
「お待たせ、そっちは服見なくていいの?」
ハンガーと共に試着室から出てきたユキが訪ねてくる。結局買わないらしい。
「私?別にいいよ。あんまり興味ないし、結局のところ消耗品だからね。服にお金使うぐらいなら本買う」
別にポリシーではないが、やっぱり人生において無駄遣いは好きじゃない。お金も、時間も、無尽蔵に湧き出てくるわけではないのだ。終わりと限りがあるのなら、それに相応しい使い方をしたい。
「ふーん、そっか。勿体ないねえ」
私の答えを聞いたユキは何故か少し残念そうに言った。その声音が気がかりで、言葉を返す。
「勿体ないって、何が?」
むしろエコでは。もったいないばあさんもビックリの信条だと思うけどな。何せそもそも使わないのだから。
ほぼ反射的に口からでた私の疑問に、ユキはこともなげに返す。それが爆弾だという自覚があるのかさえも不明瞭に、あまりにも自然に、何てことないテンションで言葉を紡ぐ。
「いや、ゆうちゃん素材良いし。冬コーデ似合うのたくさんあると思ったから」
心が掴まれた、気がした。心臓がギュッと締め付けられて呼吸困難。気道の確保さえも容易に出来ず、数秒息が詰まる。
まったく、コイツはこういうことをサラッと言ってのけるのだ。電波女恐るべしと言ったところか。今は電波の代わりに私の体温を上昇させる波長を送りつけているらしいけど、私の観点からはその本質に差はない。
「……そんなことない」
それだけ返すのが精一杯だった。こっちは手を握ろうとするだけで必死なのに、このパワーバランスは不公平じゃないだろうか。私が不利すぎるぞ、このラブゲーム。
「まあ別にいいけどさ。勿体ないっていうなら、「若さ」なんてあっという間に腐っちゃう手札だと思うけどね」
駄目押しのように、ユキが告げる。何故か妙に突き放したような態度だった。だからこそ、色々と考えてしまう。可能性とか希望的観測とか、そういう諸々を、一生懸命に。
考えながら俯くと、タイルに写った自分の顔と目が合う。その眼球の先に、過去の自分を見る。まだユキと付き合う前、こういう関係を構築する以前の物語。
あの時と、今は違う。
人生に死以外の断絶はない。だけど滔々と続く長い時間を過ごす内に、人は変わる。歪むか捻じれるか、あるいは伸びきるかは人それぞれだろうけど、そこには明確な変化がある。万物流転の法則だ。誤用だけど、今はそんなこと重要じゃない。
要するに、私も時には変わるのだ。変化して、変容して、変質して、変身する。
だから私は、口を開く。堂々と、胸を張って、心に勇気と決意を秘めて、声を出す。
「………私も、ちょっとは服見ようかな…」
「別にいいんじゃない?私は一向に構わない」
映画館に着いて、そう言えば何の映画を見るのだろうと思って尋ねたら、まさかのアニメ映画だった。疑似デートだし、てっきり流行りの恋愛洋画でも見ると思っていたので、タイトルを言われた瞬間「えっ?」と思わず言ってしまった。そのせいで雪香が不安そうな眼差しをしたので、特に問題ないことを主張したと、そういう流れだ。
映画館の空気は美味しい。精神的にではなく、味覚的に。キャラメルポップコーンの甘い香りが充満して、入った瞬間否が応にでもワクワクさせられる。高揚が、動揺を塗り替える。まあ元々大して動揺してないって言うのもあると思うけど。
真ん中よりやや後列の場所のチケットを確保し、上映時間まで少し時間があったので備え付けのソファに腰をかける。やや硬めの感触を覚えつつ、息を吐いた。
ちなみに手はもう離している。理由は単純恥ずかしいから。誰に見られてるいか分からないし、変に手汗とか意識するのは苦手だ。
「私、ちょっとトイレ行ってくるね」
パンフレットを収集していた雪香がこっちに来て一声かけたので、右手を上げることでそれに応じた。去り行く背中を見つめた後、視線は上げた右手に移る。にぎにぎして、わずかに手に残る感触を思い返す。
柔らかかった、のだろうか。必要以上にその質感を意識したのは事実だ。同性の身体に触れて、私の心は機微を見せた。異常か正常か、普通か特殊か、境界は曖昧で、真相は闇の中。いや、そもそもとしてこういう考え方がズレてるのかもしれないけど。
答えの出ない問いを考えるのは疲れるので、一度思考を放棄するために上を仰ぎ見る。照りつけるのは太陽の光ではなく照明の明かりだが、眩しい事実に変わりはない。目を細め、その光撃から眼球を庇った。放つ眩さを直視するのは丸腰の人間には困難なのだ。地面を見ている方が気楽だ。
履いたスニーカーの先を見つめながら本を読むかどうか迷ったけど、どうせ大した時間はかからないだろうと思い直した。隣に誰かがいるのなら、わざわざ他の世界に移住する必要はない。読書は、私にとって孤独を埋める道具だ。手段であって、目的ではない。
色々しても手持無沙汰になったので、結局私もパンフレットを見ることにした。映画はレンタル派だが、面白そうな作品があるのなら見に来るのもやぶさかではない。近場に映画を見られる場所があるのなら有効活用して然るべきだろう。
色とりどりのパンフレットを手に取り物色する。適当に目についたもののあらすじを読んで、気になるものだけを左手に重ねていく。山は低く、積み上がらない。はて、私はこんなに選り好みが激しい人間だっただろうか。
「何してるの?」
いつの間にか雪香が隣に立っていた。肩から覗き込むようにして、私の手元を覗き込んでくる。その目が一番上に置かれていたアメコミ作品のパンフレットを捉えた。
「へえ、優子はこういうのが好きなんだ」
「うーん、別にジャンルにこだわりはないけどな。アメコミの中にも面白いと思えなかった作品はいくつかあるし」
実際アメコミ作品ってモノによっては設定が突拍子もなかったり、終わり方が微妙だったりするからなあ。日本に輸入されてる時点である程度の面白さが担保されてるから見るのは洋画がメインだけど。
「ふーん。……優子ってもしかしなくて映画好き?」
「別に。監督とか俳優とかは詳しくないし、見るのだってメジャーな作品だけ」
「それって映画好きとは違うの?」
「よく分かんないけど、違うんじゃない。少なくとも、私より映画好きな人は五万といるだろうし」
多分趣味と娯楽の違いだ。かけた時間と持つ知識、抱く熱意に差がある気がする。
優劣はなくても、境界は存在する。違いがあるというのはそういうことだ。
「そっか。今度はこの映画を見に来るつもりだったから、詳しいなら少し聞こうと思ってたんだけど」
そう言って、雪香がパンフレットを指差す。それは流行りの恋愛映画で、私が今日見ると思ってた作品だ。本命は本番まで取っておくということだろうか。まあそれがいいと思うけど。雪香は悪意なくネタバレしそうだし。
「あっ、もう入れる時間だね。行こうかっ」
壁時計に目を向けた雪香の言葉に反応して時間を確認すると、確かにいい時間になっていた。歩き出す雪香の背中を追うように、私も足を動かした。
少しだけ重い足取りの理由を考えながら、口から一言だけ、愚痴めいたものを漏らして。
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