第8話 中川(4)
(まあ、名前は似たような名前がありがてぇよな。呼び間違えてもバレねえし)
中川は、かつて真っ最中に名前を呼び間違えたことを思い出しながら、目の前の小さな女を見下ろした。
「倉庫の方にお勤めなんすでね〜。あ、またそちらにも伺わせてもうてもいいですか〜?」
中川は特上の笑顔を見せながら、関西弁で話しかけた。
中川は大阪の出身だ。大阪と言っても、生まれたのは京都との府境で京都の文化圏だった。大阪の中心部や南の方の大阪弁の勢いに、中川も憧れたことがある。両親の離婚により和歌山に近い南の方に転居した高校時代には、周りに合わせて勢いのよい口調で話していた。しかし、中川はその勢いを自分のものにすることはできなかった。どちらかといえば、京都よりのゆるやかな物言いに落ち着き、京都弁ほどには柔らかくないところが人の懐にもぐりこむのに役立っていると中川は思っていた。人懐こさが嫌味にならない方言だと思っており、強いてそれを失わないように努めていた。中川の笑顔と、低くないソフトボイスと相まって、拒絶すらも甘く聞こえる言い方が関西弁なら出来たのだった。
「あ……」
小さな女は、中川の顔を見上げた後、顔を真っ赤にしたまま下を向いて、エレベーターを待つだけだった。
(はあ?処女かよ?なんや、その反応。何か言えや、いちいちイラつく女やで)
処女なわけねーわな、旦那いるって話やからな、と尻のあたりに視線をやりながら中川は思い直した。
エレベーターの扉が開き、中川は満面の笑顔を顔に張り付けたまま、開ボタンを押したままノリコを先に通した。中川は仕事柄、無意識にした振る舞いだったが、ノリコは体をちぢこめてますます頰を染めて、乗り込んだ。中川はそれを目の端で捉えた。
「おおきにー!失礼しまーす!」
中川はエレベーターの扉が完全に閉まり、坂田印刷の2階事務室の全員の視線が断たれるまで頭を下げ続けた。
「ふ」
中川はふと、同乗者の存在を忘れて息をついてネクタイに手をかけた。無意識に緩めようとしたのである。
「−−−」
自分の後ろに小さな女が乗っていることを突然思い出して、中川は取り繕うことも忘れて、思わずそちらを振り返った。
ノリコと出会い頭に目があった。目があった瞬間に、ノリコが準備していたようにはにかむように薄っすら微笑みながら俯いた。中川が何も言えずにいると、ノリコはちらりと目をあげて、中川の顔を見た。そしてすばやく、また顔を伏せて耳まで赤くして、胸元のファイルを抱きしめる。肉付きのよい腕が、制服のブラウスの袖口のボタンを吹き飛ばしそうなことに、中川は気を取られた。
「んふふ……」
笑い声のような音がノリコの口から聞こえた気が、中川はした。ノリコの目がまた、中川を素早く観察するように見上げてくる。わずか1階分を上下するだけのエレベーターの動きが、溶けた飴が絡みついたように遅く感じた。
チン!
エレベーターの扉が開く。1階についたのだ。
「あ、どうぞ……お先に……」
中川は暑いのか寒いのか分からない汗をかきながら、無意識に開ボタンを押して、ノリコに先に出るように促した。
(この女は、いける。保険を売りつけてやる。それもめっちゃ高いやつ)
中川が確信したのは、そのときだった。ノリコはエレベーターから数歩出てから、振り返って笑ったのだ。小首をかしげて、せいいっぱいの媚態のように、中川には思えた。
ノリコ(仮名)の選択 日向 諒 @kazenichiruhanatatibanawo
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