第40話 今生に屠らるる愛児たちのこと
土の中は湿っていて、生き物のようで、気持ちが悪かった。
夜明け前までに塩原をすっかり埋めてしまうこと。今、真が考えていることはそれだけだった。リンカの別荘は小さな裏山を背負うようにして建っていて、山の中に埋めるか、庭の中に埋めるかで一行はしばらく揉めた。
「悪趣味極まりなくない?」
汗を拭いながら綾乃が呟くので、真はただ頷いた。日当たりの良い、レンガで四角く囲まれた土の中に埋めようと提案したのは、他でもないリンカだ。
「元花壇に元人間を埋めるってねぇ」
所有者に恨みでもあるの? と綾乃は鋭いような鈍いようなことを言う。そうですね、と真は否定も肯定もしないでおいた。
「けど、ここじゃなきゃ、こんなに掘れないですよ」
元々掘り返されている場所でこれだけ大変なのだ。平地で、人一人埋めるための穴を夜明けまでに掘るなんて御伽噺だ。
「それより、綾乃さんそろそろ交代したらどうですか?」
量販店で買ったスコップは二つしかないので、交代で掘り進めることにしたが、さきほどからずっと綾乃が掘っている。
「つってもね」
と、綾乃は後ろを振り返った。
リンカとニコは持ってきた簡易テントの中で眠っている。その前で、ユリアは寝袋をざぶとんにして、あぐらをかいて瓶ビールとジンジャーエールを口の中で混ぜて飲んでいた。きゅぽん、と音がしてその影がゆらりと立ち上がる。
「いいよ。代わってあげる」
「酔っ払いには無理でしょ」
そう言う綾乃を、ユリアは仁王立ちになって見下ろした。
「杏ちゃん忘れたの? 私、元バスケ部だよ?」
「穴掘らないでしょバスケ部」
砂浜を走った、と訳の分からないことを言ってユリアは綾乃からスコップを取り上げた。フリルの付いた洋服にすこし泥が跳ねている。綾乃はため息を吐いたが、大人しく引き下がった。寝袋に横になる綾乃を見て、ユリアはへらへら笑い真に言った。
「杏ちゃんはねー、たぶんおじいちゃんがオオカミとかだから、どこでもすぐ寝れるんだよ。すごいよねぇ。獣だよねぇ」
滑舌が悪い。
「酔ってますか?」
「酔ってないよー」
ざくざくと豪快にユリアは穴を掘り始めた。微かに、鼻歌が聞こえている。
ユリアはよく歌う。最初に会った時にも歌っていた。それも流行の歌ではなく、子供が歌うような、明るく朗らかで大きな希望の歌ばかりを歌うのだ。
「殺したいな」
真は顔を上げた。歌が止んでいる。
ユリアは、穴を掘り続けていた。
「一度殺すと、もっと殺したくなる」
なんと答えればよいのか分からず真は黙っていた。しかしユリアは、シフトの話をするときと同じ気軽さで真に言った。
「ねえ、もしかして最初に塩原殴ったのって真くん?」
「そうです」
あまりに軽く聞いてくるので、同じくらい軽く、自然に答えてしまった。
だよね、とユリアは笑う。
「なんかそんな感じした。うん。でも殺したのは私だから、私が刺したんだから、私の手柄だからね」
手柄、と真が繰り返すと、手柄手柄、とユリアは繰り返した。
気が付くと塩原は血を流していた。綾乃は自分が刺したと言ったが、それは明らかに嘘だった。ならば、ユリアかニコか、どちらかが刺したのだ。
けれど今まで、誰もそれについて話をしようとしなかった。以前の真ならば意味が分からないと思っただろう。目の前の問題を口にせず、夢の話ばかりする彼女たちのことを、ほんの少し前まで真は理解できなかったのだ。けれど今では、核心に触れないということが唯一の方法だと思っている。
それに個人的に、どうしてもその答えは曖昧にしておきたかった。もし自分の予想が当たっていたとしたら、それについてどう考えればよいのか分からない。
けれどユリアは、とても簡単にそれを言葉にした。
「じゃあ、ニコだけなにもしてないんだ」
スコップはもうほとんど沈んでいかなかった。足で踏みつける力がない。
そりゃそうか、とユリアは呟いた。実際それはごく当たり前のことだった。ニコは――彼女は人を傷付けられないのだ。彼女を知っている人間ならばそんなことはすぐに分かる。人間は、誰も傷つけずに生きようとすれば精神の均衡を壊すように作られているに違いない。だからニコは、いつも自分を傷付けているのだ。しかし今、そのことが彼女を苦しめているのではないだろうか。
浴室の中で一人、塩原の遺体と向き合いながら、彼女は一体何を思っだのだろう。
ざり、と背後で土の零れる音がした。
「っていうか、真くんって、ニコのこと好きなの?」
声の後にライターの音がして、真は顔を上げた。ユリアは煙草を咥え、穴の上に片足を引っかけている。言葉に脈絡がなく、呂律も回っていない。
「ずいぶん酔ってますね」
「うん。酔ってるよ」
彼女の白いフリルはもう泥まみれだった。懐中電灯の微かな光の中で、口からもはもはと煙を吐き出して、ユリアはまたビールとジンジャーエールを交互に口に入れ、飲みほした。
「私はね、酔ってる時だけ正気で自由なの。分かる?」
と、中身のなくなったらしい瓶を外に放り投げた。重い瓶が土に落ちて、妙な音を立てる。煙が光の中で光っているように見えた。
けれどもし、彼女が酔っているときだけ正気で自由なら、真はほとんど正気でも自由でもないユリアしか知らないということになる。
「酔っていない時はどんな状態なんですか」
「拘束状態」
すぐにユリアは答え、鼻で笑ってみせた。
「飲んでない時は抑え込まれてるの」
「なにをですか?」
「怒り」
全く感情のこもっていない声で、ユリアは煙と一緒に言葉を吐いた。
「怒りだね。私それしか持ってないもん。私が生きているのは怒ってるから。笑ってるのも怒ってるから。喜んでるのも、悲しんでるのも、慈しんでいるのも、全部怒ってるから。ただそれだけ。だから本当は誰のことも好きじゃないし、好きにならない。毎分毎秒、全人類ぶっ殺したいと思ってる。そういう怒り」
「が、拘束されてるんですか?」
「うん。今はやや解き放たれてる」
子供のように、ユリアはへらりと笑った。初めて見る表情だ。
真は、そのことをどう処理してよいのか分からなかった。全人類の中に自分たちは入っているのか、などという幼稚な質問が出来る雰囲気ではなかった。もっとも、ユリアがその声音や行動のように、柔らかく緩い朗らかな人間でないということは、あそこで働いている人間ならばみんな理解しているだろう。
ユリアは今度はよく見たことのある笑い方をした。
「でも、ちゃんと皆には申し訳ないと思ってるよ。本当は私一人で殺しちゃうべきだったのに、巻き込んじゃったし」
いや、と急いで真は呟いた。それは真の言い分だ。
「そもそも俺が余計なことされなければ――しなければこうはならなかったんです。だから、ユリアさんじゃなくて俺のせいですよ」
「あはは」
また真の知らない声だけの笑いが返ってくる。煙草の匂いが鼻先に香った。草を燻した煙からどうしてこんなに甘い匂いがするのだろう。
ユリアは、穴の縁を足裏で踏みつけ、乱暴に押し広げながら言った。
「こんな風にされたのは私たちのせいじゃない」
穴の内側に、ぼろぼろと砂が零れてくる。
土は、一部が固まり、一部が崩れているようだった。
「全部、何もかも私たちのせいじゃない。私の遺伝子で、私の環境で、私の発育で、こうならない人間なんてどこにもいない。私のせいなんだとしたら、それは私を産んだ人間たちのせいだ。だから私はそいつらを殺したいんだ。私が私なのは私のせいだと言うそいつらを全員ぶっ殺して、殺し尽くして――それで誰もいなくなったら、私はやっと私であることを喜べる。私でいられる」
ユリアの口角は上がっていた。皆殺しの夢を見たのかもしれない。けれどすぐ、彼女の顔から表情が消えた。
「でも、そういうこと言うと、クソみたいな訳わかんない奴らが説教してくるでしょ。人のせいにするなとか、同じ環境でもちゃんと生きてる人はいるとか、クソほどの想像力もないクズどもがわらわらわらわら。端から端までくびり殺したくなる。っていうか本当に殺しちゃうから、だからちゃんと拘束してたの。でも結局殺しちゃった。もったいないよねー。本当にもったいない。塩原も5回くらい殺したいけど、他に10回くらい殺したいやつ三億人くらいいるのに。ああ、真くんも煙草吸う?」
脈絡なく煙草が差し出されて、真が素直にそれを受け取った。咥えると、ユリアはいたずらっぽく笑った。彼女たちは、いつでもやはり、笑うのだ。
「ね、真くん。私死ぬ前に一度、煙草同士で火つけるやつやってみたいんだけど、やってもいい?」
もうかなり短くなった煙草をユリアは見せびらかした。
「死ぬんですか?」
「死ぬでしょ。社会的に」
「物理的に死なないなら、いいですよ」
ユリアが顔を寄せてくる。煙草の先端をつけて強く吸うと、その火がじりじりと真の元へ移ってくる。ぼうっと赤くなって、しばらくすると、完全に分離した。煙が行き渡って、真の頭の中で滞留していた言葉が、とろとろと、ゆっくり流れ始める。
「頭がよくなりました」
でしょ? とユリアは得意げな顔をした。
「酒で正気に戻って、煙草で神に近づくんだよ」
「急にスピリチュアルですね」
「酔ってるからねー」
一服して、二人はまた人を埋める穴掘りを始めた。
土の音は軽やかで、聞こえてくる鼻歌は喜びに満ち満ちていた。けれどその途中、ユリアは一度歌を止め、小さな声で呟いた。
「一人だけでも殺せてよかった」
言葉の過激さに比べて、それは優しく慈しむような声音だった。過去の自分を温めるような、死んでしまった子供を抱きかかえるような。空しく寂しい、けれど、どうしようもなく高潔な声だった。
真はただ、黙って穴を掘り続けた。
掘って掘って、掘り続けた。
そうして夜の底に微かな光が生まれ始めたころ、人間を埋めるための穴は完成した。充分とまでは言わないが、及第点だ。伸びをすると、全身に倦怠感が回って来て、なんだかそれは幸福と似ている感覚のような気がした。
しかし、ユリアの声を聞いて、すべての感覚は消えてしまった。
「ニコ?」
そう呟いて、彼女はあたりを見回してた。テントの中には人影が一つしかない。金色の髪が見える。リンカだ。ニコがいない。ユリアは穴から上がるとまず、寝袋にくるまった綾乃を足蹴にした。
「ちょっと起きてよ、獣!」
「は、なに」
「ニコがいない!」
「うるさいなぁ。トイレじゃないの」
その可能性はもちろんあるだろう。散歩をしているとか、星を見ているとか、兎が出て追いかけたとか、些細なことである可能性は充分にある。けれど、そうは思えなかった。そうじゃないに決まっている。
真は急いで穴の上に登った。
「俺、探してきます。すみませんが、あと頼んでもいいですか」
ユリアは真を見て、強く頷いた。正気の顔で、はっきりとした声で。
お願い、と彼女は言った。
「ニコを助けて」
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