第41話 終生に思い遣る朝のこと

 夜が完全に明けるまで、あと少ししかない。

 別荘の中にニコはいなかった。庭の入口にもいない。山に入ったのか、それとも山を降りて市街地へ向かったのか。頭を働かそうとすればするほど、焦って思考が絡まった。ニコの好み、行動、したいこと、したくないこと。何もかも、もはや真には想像が付かなかった。

 何も分からない。何も知らない。

「どこか」

 風が耳の横を通る。ごうごうと、唸っているような音が――。

「海」

 さっき、リンカが別荘から見える海の話をしていた。この辺りの海は青いのだと。ニコはその言葉を繰り返していた。青い海、とただ繰り返した。

 彼女はあの町からほとんど出たことがないのだ。

 あの町の海は黒い。

 真は裏山を上って少し東へ進んだ。途中で木々が途切れ、場が開けてくる。この辺りから海が見下ろせるのだとリンカは言っていた。辺りはほの明るくなり始めていて、けれど今、そこには霧が掛かっていた。

 白い空気の中で、彼女はぼうっとただ立っていた。

 何かを強く握りしめている。

 瞬間的に、真の体からさっと血が引いた。霧のずっとずっと向こうの方から、なにか、音がしている。ニコの手元の画面は光っている。

「ニコさん」

 霧は植物の呼気のように生ぬるく、同時に空寒かった。

「犬が死んだの」

 ニコは振り返らず、自分の足元だけを眺めて呟いた。

「お母さんがいらないっていうから注射もしていなくて、だからお腹が膨れてしまって、だんだん起きられなくなって。でも、ハムをあげたら尻尾を振ってくれて、喜んでくれて、それで、私の指を舐めた――」

 そっと後ずさりをして、ニコはもういない犬の死体から離れようとした。そうして、ぱっと真を振り返った。

「どうして真くんは嘘を吐くの?」

 その声には、光彩も明度も、純度も質感も重量も何もなく、ただ意味だけがあった。淡々と、意味だけを呟いていた。

「私が嘘を吐くから怒っているの?」

 真は咄嗟に首を降った。けれど、全く声が出ていかなかった。

 白い霧はすべての形を隠していて、それなのに彼女の姿形だけがはっきりとしている。そのことが、真には恐ろしかった。彼女は立て続けに言った。

「じゃあ笑ってる? 私が馬鹿だからおかしいと思ってる?」

 足が土の中に沈んでいくような気がした。すべての物は、人間の見ていない所では夜になると霧に還るのかもしれない。そうして朝になったら、ずるずると形を取り戻すのだ。でも、まだ朝になってはいない。朝は嫌だ。

 遠くに聞こえるサイレンの音が、だんだんとはっきりしてきて、やっとのことで真は口を開いた。

「どうしてそんなことを言うの?」

 その声はだらしなく水を含んでいて、泣く前の子供みたいだった。ニコは、不思議そうな顔で真を見て言った。

「だって、私は真くんを助けられなかったし、塩原さんを殴れなかったし、刺して殺すことも出来なかったし」

 理知的な馬のように、彼女の瞳には揺るぎがなかった。

「私だけ何もしてない。私だけ何も出来ない。いつもそうなの。私だけいつも普通じゃない。でも、それをみんなが笑ったり、馬鹿にしたりするのは、当たり前のことだと思う。だって外から見ていたら、私という人間はとても可笑しなことだから」

 それは、遠く離れた場所から、無関心に自分の人生を眺めている喋り方だった。真は、その声をよく知っている。すぐそばで、いつも聞いていたから知っている。

 それはかつての自分の声だ。

「私は、自分がどうしてこうなっているのか分からない。嘘を吐いてしまう理由が分からない。上手く息が出来ない理由も分からないし、泣いてしまう理由も、笑っている理由も、普通の家で、普通の体で、普通の生活をして、どうして普通になれなかったのかが分からない。だから――笑われたり馬鹿にされたり、殴られたりしていると、とても安心する」

 と彼女は真の目を見た。

「もっともっと、おそろしいことが起こればいいのにと思ってた」

 その厄災は、かつて真が思い描いていたものと全く同じだろう。

「でもだめなの。私には何も起こらない。何も起こすことが出来ない。もういやなの。何も感じたくないし、何も思いたくないし、何も見たくない、聞きたくない」

 真はそれ以上を聞きたくなくて、懸命に首を振った。けれど彼女は続けた。はっきりと、重さだけのある声で。

「消えていなくなりたい」

 朝の光が見えた。

 すべての物が形を持ち始めている。

 真は、昔から朝が嫌いだった。暗ければ、優れているものと劣っているものとの差は少しだけ埋まる。けれど光の中では、美しいものはより美しく、醜いものはより醜く見えるのだ。朝は、自分の体の醜さが際立つ気がして嫌だった。

 サイレンの音は、着実にこちらへ近づいてきている。あれは彼女の希望なのだろうか。消えてなくないりたい彼女の希望。完全に駄目になってしまいたい彼女の。

 真は深く息を吸った。

 朝の気配を孕んだ空気が入って来て、体の形がはっきりとしてくる。醜い体。人と違う体。誰とも同じになれない体。

「ニコさん。俺ね、本当はちゃんとした女じゃないんだ」

 真は笑おうとしたが、それが出来ているかはわからなかった。

「いや――本当はちゃんと女なんだって、医者も家族も言うんだけど、でも、本当って何だろうって感じで。染色体はXYだし、精巣もあって、まぁ今はもうないんだけど、でも昔はあって、膣だって作り物だし、子宮もないし、薬飲まないと胸も膨らまないし。それってもう、男って言ったほうが良いんじゃないかなって、普通に、ずっと思ってて」

 自分が女であるという根拠が、体のどこを探しても見つからなかった。ならばもういっそ、男として生きるべきなのではないかと、何度も何度も考えた。

「でも、女なんだよ」

 声が震えた。

 真は、今までそのことを一度も口に出して言えたことがなかった。

「ちゃんと女だって、思ってた。思ってたけど、みんなに女だ女だって言い聞かせられると違和感があって。だって俺は、人形で遊びたいとか思わなかったし、スカートも履きたくなかったし、群れて行動するのも苦手だし、花を、綺麗だと思えないし」

 はな、とごくごく小さな声で、ニコは繰り返した。

「うん。花」

 真は最上の庭のことを思い出していた。あそこにはいつも、色の付いたものがあったのだ。なにか、美しいとされているものたちが、たくさん。

「今はちゃんと分かってる。人形が好きとかスカートを履きたいとか、花が好きとか、そういうのは、別に女の人のものだけじゃないって。女の人に多いとしても――それだって本当かどうか分からないけど――でもそれは、女であることじゃなくて、その人がその人であるっていうことの特徴に過ぎないんだって。今なら分かる。分かるけど」

 花の美しいさが分からなかったあのとき、何かが死んだのだ。

 もう二度と取り戻せない、大切なものが死んでしまった。

「俺が、回りの女の子たちの言ってることとか、やってることとか、全然理解できないのは、全部俺が何者でもなく生まれてきたせいだって、ずっと思ってて。だから、自分が思ってることも、感じてることも、みんな間違っているような気がして、信じられなくて」

 本当は、ある瞬間には、最上の家の庭を美しいと思っていたのかもしれない。金木犀の匂いを好きだと思っていたのかもしれない。壊れものを持つように、頼りなく、けれど確かに自分の手を引く大叔母のことを、愛していたのかもしれない。

 けれど、もう、それが分からない。

「気が付いたら、花だけじゃなくて、何も綺麗だと思わなくなってた。良いとか、悪いとかも、何も思わなくて。何をしても、されても、何も感じなくなった。生きているのも、死んでしまうのも、どっちでもいいくらい何にも――何も感じられなくて」

 毎日消えたいと思っていた。

 誰からも存在を忘れられたいと願っていた。でもそれが出来ないから、いつでも恐ろしい厄災のことを考えていたのだ。自分一人の身の上に起きる、恐ろしい出来事を夢見ていた。

 しかしあの時、真に訪れたのは厄災ではなかった。

「でも俺は、ニコさんの絵を好きだと思ったよ」

 彼女の描く絵。世界がほとんど壊れていて、綺麗なものは醜く、醜いものは綺麗で、すべてが淋しく、それでも生きている絵。

 真はそれを、自分の世界だと思ったのだ。

「俺が思い描こうとした世界が形になって、誰にも分かってもらえない自分を、分かるような形にしてもらえてみたいで嬉しかった。理解してもらえたみたいで――救われた」

 かつて真の中で死んでしまった何かを、ニコが蘇らせてくれたのだ。

「だから俺も、ニコさんに何かしてあげたかった」

 ニコがどうして自分の肉親を病気にしたり悪者にしたりする嘘をつくのか、真にはどうやっても理解できなかった。けれどあの時――彼女が倒れた塩原を見下ろして、自分がやったのだと言った時、やっと分かったような気がした。

 彼女は、夢を見ているのだ。

 そうなりたいと願い、夢を見ている。

 象使いになる夢と同じように、楽団を作る夢と同じように、悪の秘密結社の夢と同じように。劣悪な環境に生まれ、愛犬が空しく死に、塩原という男を自分が殺す、夢を見ている。

 そういう世界でなければ、彼女は自分が生きていることを許せないのだ。彼女たちが夢を見るのは、現実をどうすることもできないと知っているからだ。

 だから――。

「俺はニコさんのつく嘘を本当にしてあげたかった」

 今考えても、自分のやっていることは下らなく、まったく現実的でない。けれど、そんなことは関係ないのだ。夢とか現実とか、本当とか嘘とか、そんなことは。

「ニコさんがそうなりたいんなら、今までのことは無理でも、これからのことなら、俺、どうにか出来るよ。塩原を殺したのはニコさんだって、何度だって言うし、やりたいこととか、出来なかったこととか、俺が協力出来ることならなんだってする」

 全部はじめてだったのだ。

 正面から守ると言ってもらったのも、優しく居場所を作ってもらったのも、女子同士の会話の中に入れてもらったのも。はじめてだった。当たり前だ。真自身が今までそれを避けてきたのだから。

 自分が人と違うということを知られるのが怖くて、何もかも避けてきた。理解されないのが怖くて、理解することをやめた。

「俺はニコさんを分かりたかったし、分かってもらいたかった。そう思えてはじめて、みんなと同じ人間になれた気がした。生きていてもいいって、許してくれたのはニコさんだから、だから――」

 その時、真は突然に舌の上の違和感を思い出した。

「私から、ニコさんを取り上げないで」

 涙が零れた。

 その瞬間、ニコが声を上げた。言葉なのか何なのか分からない大きな声を上げ、彼女は子供のようにしゃくり上げながら泣きはじめた。いつもの、静かに痙攣しているような泣き方ではなく、声を上げて、大きく泣いた。

 朝日が見える。

 ニコの頬はぐしゃぐしゃに濡れ、髪の一束が張り付き、目尻には大きく皺が寄って、とても美しいとは言えなかった。

 光の中で、醜いものはより醜く、美しいものはより美しく見える。

 真はニコの手を握った。

「ニコさん。あと少しでいいから、っていうか、どうせもうすぐ終わりだから、それまでもう少し、一緒にいてよ」

 すると、彼女はその手を強く握り込み、やっと聞き取れる言葉を吐いた。

「やだぁ、ずっといる。いっしょに、いきたい」

 霧が晴れて、緑の匂いが強くなる。

 真はニコの手を潰してしまわないように、離さないように注意しながら、サイレンが響き渡る木々の間を走った。霧の晴れた山の中は、何もかもがきらきらと光って眩しく、鮮烈だった。

 朝が来たのだ。

 何もかもが形を取り戻す朝が、真の元にもやっと来た。

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