第38話 半生に獣の横切ること

 遠い町まで来た。

 店の汚れを照らす電気の光の下で、真は急にそんなことを思った。ニコは倒れた塩原を眺めてじっとしている。遠い。ここはとても遠い町だ。

 けれど、どうしてここが遠いだなんて思うのだろう。戻る場所なんてないのに。 

「わたしがやった」

 無感動にニコはそう口にした。

 それは呪いの言葉のようであり、戯言のようであり、しかし、真には宣誓のように聞こえたのだった。体に感覚が戻ってくる。下腹部が熱い。太ももに血が流れている。

 塩原は倒れている。

「はい」

 真はゆっくり答えた。

「ニコさんがやったんです」

 彼女は、ただ不思議そうな顔をしていた。


 ✾


 気がつくと、なぜか塩原は顔にストッキングを被っていた。

 衣服は全て剥ぎ取られ、肌は青白く、体中に刺し傷があり、ポリバケツに詰め込まれていた。なぜ。

 どうしてこんなことになっているのか、真には理解出来なかった。どうして彼女たちはこんなことをしているのだろう。どうして誰もが、まるで自分のことのように処理しようとしているのだろう。

 これは真の問題なのに。

 ポリバケツにはぞんざいに蓋が取り付けられ、粘着力の弱った古いガムテープで封じられ、ユリアの車の荷台に押し込まれた。

「よし、じゃあ行こうかー」

 外はいつも通りの町の匂いがしていた。街路樹が数本あるだけなのに、このあたりは草木の匂いがするのだ。人間の体液を吸った土から生えた緑の匂いが、湿気た空気の中で間延びしているような。

 ユリアの車は5人乗りなので、全員乗って乗れないことはなかったが、ポリバケツが転がって死体が外に出たら気持ち悪いから、という情緒面の問題で車内と荷台とで分かれて乗車することになった。

 荷台の大きな車なので、バーベキューの道具や各人の荷物を置いてもなお、人の入る隙間はある。けれど、ブルーシートが掛かっているとはいえ、中を改められたらどうするのだろうと真は思った。

 かさばるから、というユリアの一声で綾乃は運転席へ、真は助手席に乗ることになった。あとの三人はさっさと荷台へ乗ってしまった。

 後部座席の奥は硝子窓になっていて、ブルーシートが半分かかった荷台が見えた。

「見える?」

 綾乃がエンジンを掛けながら言った。

「全然見えないです」

 微かな明かりの気配だけがしている。見えたら困るか、と簡単に言って、綾乃はハンドルをゆっくり切った。

「ええと、じゃあ出発します。どうぞ」

 真は通話中、と表示された手元の画面に言われた通りに呟いた。スピーカーにした電話口からさざ波のような笑い声が聞こえて、すぐにリンカのはしゃいだ声が返ってくる。

『おっけーです。どーぞ!』

「電話でどうぞいらなくない?」

 綾乃の言葉に、全くその通りだと真は思った。けれど、スピーカーからはぞくぞくと抗議めいた声が届いた。

『杏ちゃんロマンなーい! どーぞ』

『冷静なこと言っといて最初に死ぬタイプっすね! どーぞ』

『あとでアイス食べたいです! どーぞ!』

 どうぞ、と言うのに全くこちらに発言権が回って来ない。荷台組は随分楽しそうだ。

「充電もったいないから切るよ」

 綾乃が呆れた声で言ったが返事はなかった。はぁ、と軽いが深いため息を吐いて、綾乃は言い直した。

「充電が勿体ないので切ります。どうぞ」

『了解。安全運転でどうぞー』

 ユリアの声がして、向こう側から電話が切れた。ぷちり、とほんの微かな断絶の音がする。車はゆっくり進み、車道に出た。知っている道なのに、真は初めて見たような気持ちになった。

 何もかも、よく分からなかった。



 駅前を過ぎると、明かりも人影はなくなり、車とすれ違うこともほとんどなくなった。

「田舎だなぁ」

 急に綾乃はそうぼやいた。この辺りの人間はみんなそう言うのだ。

「俺は未だに都会だなぁと思いますよ」

「そう? 真くんって、こっち出てきてどれくらいなんだっけ?」

「たぶん――5年とか6年とか、それくらいですかね。数えてないですけど」

 自分の答えに、あまりに実感がなさ過ぎて驚いた。もはや出てきた、という感覚がない。故郷、という言葉に違和感を覚えるほど、生まれた場所への感慨がなかった。嫌だったとか、苦しかったとか、辛かったとか、それすらも感じない。

 ただ遠いとだけ思う。

「田んぼと電柱以外には何もない場所でしたね。人間はいましたが」

「そりゃそうでしょ」

 と、軽く綾乃は請け合った。

「人間がいなきゃ田んぼも電柱も出来ないよ」

 真は、その言葉に強い感銘を受けた。真の中では全ての景色は人間とかけ離れて存在していたのだ。目が悪くなりそうなほど広大な水田も、その向こうに聳える山の麓の鳥居も、最上の家の長い生け垣も、玄関口の十二支の置物も、整列された無数の靴も。どれもただの景色だと思っていた。

 それらがすべて、人間の作ったものだなんて。

 あそこにも人間がいたのか。

「綾乃さんは、天才ですね」

「は?」

 かなり雑な声を綾乃は上げた。とても珍しい。彼女は真に対していつも紳士的だった。適切な距離をとり、適切な対応をする。

「それは冗談? それとも馬鹿にしてる?」

 困惑した様子で綾乃は聞いてきた。

「どうして馬鹿にしていると思うんですか?」

「いやだって――天才じゃないし。っていうか頭悪いし」

 確かに、綾乃はよくそんなことを言っている。高卒だから教養がないとか、本を読んだことがないからいけないんだとか。

「綾乃さんは、頭悪くないですよ。むしろ、かなり良い方じゃないですか。なんていうか、物事の選り分けの仕方が綺麗ですよね」

 まぁ、俺も高卒なんで、と言ったが返事がなかった。

 少しの間があった。

「真くんって思ったより変だよね」

 その間が何を孕んでいたのか、直感的に分かった。今、自分たちは同じことを思い浮かべている。塩原の死体のことを――現在の状況について考えている。

 恐らく、互いに互いがこのことに関わっているのを変だと思っている。

「綾乃さんは、自分がどうしてこんなことをしているのか、分かりますか?」

「全然分からない」

 即座に言い切られて、息を飲むタイミングがずれる。へ、と喉の奥から変な声が出た。綾乃は笑った。

「すっごい間抜けな声」

 綾乃の笑い方は闊達だ。空気が広がっていくような気がする。

「ごめんなさい。あまりに言い切るのでびっくりしました」

「むしろ真くんは分かってんの?」

「分からないです」

 もちろん、こねくり回せば原因や理由になるのだろう何かは存在するのだろう。けれど今はまだそれを形にすることが出来ない。

「ただ、申し訳なくは思っています」

 この大通りには、ときどきファミレスやコンビニの明かりが見えて、やはり都会だと真は思う。けれどこの明かりは、もはや自分たちのためのものではないのだ。

「真くんが申し訳なく思う道理はないと思うけど」

 綾乃は訝しげにそんなことを言った。

 彼女は真が塩原を殴ったとは思っていないらしい。ただ、真が殴ったと言ったところで、意見は変わらないのかもしれない。

「だって考えたらさ」

 と、綾乃の口ぶりは、真に語りかけているというより、自らを振り返るようなものだった。

「他人が人の人生に責任なんて持てないでしょ。環境ごと命差し出せるならともかく、どうすることも出来ないのに、責任だけ感じるって、ちょっと変――」

 そこで綾乃は言葉を止めた。

 ヘッドライトの中に、何か黒いものがいる。綾乃はブレーキを踏んだ途端、影は素早く消えて言った。

「え、猫?」

 綾乃が戸惑った声を上げる。いや、と真は呟いた。猫にしては尻尾が太かった。

「狸、じゃないですか」

「たぬき」

 どんどんどん、と後部座席の向こうから抗議の音が届く。綾乃は少し振り返り、抗議に対して抗議の声を上げた。

「いや狸だし。仕方ないでしょ。狸は」

 狸だからなんだというのだろう。でも、真はその通りだと思った。

「狸は仕方ないですよね」

「ねえ」

 綾乃の運転はちゃんと丁寧だ。後ろに人間が乗っているということに配慮した走行で、ゆっくり、けれど、確実に前へ進んでいる。

 彼女そのものだ。

 綾乃は自分に言い聴かせるように続けた。

「結局さ、自分が納得する以外人生の生き方ってないじゃん。だから自分が納得してればそれで良いんだよ」

 それは非常に彼女らしい言葉だった。

「綾乃さんは――今の状況に納得しているんですか?」

 真はおそるおそる聞いたのだが、返ってきた答えは驚くほど明瞭だった。

「うん。今、人生で一番自分のしていることに納得してる」

 やはり、彼女の選り分けは天才的だ。

 車はどこまでも実直に前へ進み続け、真は、その横にいることをとても心地よく思った。

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