第37話 明るい雪道の日

 結局、押し切られる形で真は旅行に参加することになった。

 断る理由を考える気力がなかったのだ。義春が連れてきた新しいボーイが、どう手を尽くしてもちゃんと働いてくれず、そのせいで疲れ切っていた。

「すみません、塩原さんちょっといいですか」

 彼は義春たちが来ない日は、ほとんど一日中ソファに横になってスマホをいじっている。もともと身長が低いのに、寝そべるときに背を丸く曲げるので、子供が寝ているように見える。けれど、顔を上げるとちゃんと39歳の男の顔をしていて、真はときどきぎょっとした。

「どうしたの?」

 まるで手助けを求められたように塩原は言った。

「あの、おしぼりの補充――まだ出来てないみたいなんですけど」

「ああ。そっかそっか。分かった、やってくるよ」

 こんな風に促すと素直に応じるが、言わなければ絶対にやらないし、やってもとても適当なのだ。何度注意しても、同じミスをする。というより、ミスではなく、守る気がないのだ。やりたくないのか、主義主張なのかは分からない。

 案の定、後で確認するとウォーマーには乱雑に無数のおしぼりが詰め込まれていた。真はそれをすべて出し、数え直して、綺麗に入れ直した。塩原が来る前にはさして忙しくなかったが、来てからこういう尻拭いに忙殺されている。

 給料が出ているので、仕事をさせない訳にもいかず、かと言って義春に全部報告するのも気が引けた。塩原には住む家もなく、日当もほとんどその日のうちに使ってしまっているので、クビになれば路頭に迷うだろう。

 その責任を一端でも負いたくはなかった。塩原の人生の中に、自分をクビにした人物として登録されるのかと思うとぞっとする。

 女性達の中でもかなり評判が悪いので、今回の旅行は塩原の愚痴で大いに盛り上がるだろう。いつもはよくそれだけ悪口が出るものだと関心するだけだが、塩原に関しては、彼女たちがどんなことを言うのか少し楽しみではあった。



 当日は、22時を回る前に客はいなくなり、それきりだった。夜番には送迎のいらない人たちに入ってもらったので、閉店作業をするだけでいい。予定より早く合流できそうだ。

「塩原さん、あとは俺がやりますので。帰ってもらっていいですよ」

 日給を渡してそう言うと、塩原はなぜかにやにやとした。目が悪いらしく、彼はいつも妙な具合に指を伸ばしてくる。皮膚が濡れている。

「俺の前で俺とか言わなくていいのに」

 塩原はへらへら笑った。真は、彼が何を言っているのか理解出来なかった。すると塩原はまた口を緩めて笑った。いつも口の端で溜まっている白い泡が吹き出て消える。

「いいよいいよ。俺ちゃんと知ってるから。真ちゃんも辛いよね、こんな仕事させられてさ」

 と、肩に手を置かれた。そこでやっと合点がいった。塩原は真が女だということについて話しているのだ。義春が言ったのだろうか。一緒に働く者同士なのだから、当たり前のことなのかもしれないが、気分が悪かった。

「いえ、別に。辛くないです。色々ありがとうございます。じゃあ、お疲れさまでした」

 なるべくにこやかに言って、さっさと離れた。塩原の口から立ち上る、アルコールと腐った野菜の混じった呼気の匂いは、申し訳ないが耐え難い。

 早く閉店作業を終わらせなければ。

 汚物入れからゴミを取り出すのに、もうなんの抵抗もない。すぐに髪の毛で一杯になる洗面所の掃除も、備品の補充も今の真にとっては大切な作業だ。綺麗になればきっと彼女たちも嬉しいだろうから。

 結局、それくらいしか真には出来ないのだ。

 やはり自分は人とは違う。どうやったって理解されないし、また理解出来ない。けれど、何でもいいから彼女たちの役に立ちたかった。掃除でも洗濯でも荷物持ちでも。彼女たちの側にいられるのなら。

「ねえ。真ちゃん、今日はなんか予定があるの?」

 予期せぬ声が背後から飛んできて、肩が震えた。振り返ると、塩原が立っている。なぜまだいるのだろう。

「びっくりしちゃった?」

 顔が赤い。また酒を追加で飲んだらしい。義春と岩滝が買い貯めているものをくすねているのだ。もっとも、炎症のせいでほとんどいつも塩原の顔は赤い。

「塩原さん、今日はここには泊まれませんよ。これが終わったら俺もすぐ出ますから。早く支度をして帰ってください」

「ねえ、真ちゃんって彼氏いるの?」

「は?」

 思わずトゲだった声を出してしまったが、塩原は全く動じていない。それどころか、笑っている。

「今日は? デートとか?」

「いませんよ彼氏なんて」

「ホントに? もったいないなー。綺麗な顔してるのに」

「かお」

 勝手に口が言葉を繰り返す。かお。

 気持ちが悪い。

「ねえ、俺さぁ、すっとした目尻の子と、足の綺麗な子が好きなんだよ」

 塩原の口元にはまた白い泡ができはじめていた。頭皮の匂いがする。彼はいつも人との距離が近い。指先の皮がむけている。

「こんな恰好させられてさ、酷いよねぇ」

 なにかが。

 それは何かとしかいいようのない感触だった。足を触られているのだと認識した瞬間、心臓がへこみ、舌が喉の奥にすべり落ちた。皮膚を。

 皮膚を切り取ってしまわなくては。

 けれど体が動かなかった。

「あ、」

 声だけが漏れて、今までとは比べものにならない急激な吐き気がこみ上げてきた。歯垢のつまった歯を見せて塩原は笑った。

「なに? 感じちゃった?」

 自分が後ずさっていたのだと知ったのは、踵に壁が付く音がしたからだった。けれど、その感覚がない。なぜだろう。体が動かない。なぜ? こんな小男を伸すのに力なんて少しもいらないのに。どうして自分はこんな風に、床で横になっているのだろう。

 耳元で湿った声がした。塩原が何かを言っている。手の甲がボックスのカーペット部分に擦れて、一瞬痛みが走り、体に感覚が戻った気がした。

 蹴り飛ばすことも、出来たはずだ。

「や、あ」

 自分の口から、言葉にならない音が出て、また吐き気がこみ上げてきた。塩原は白く膨れた腹を出している。どうして? まさかこの男は、自分に性的な欲求を持っているのだろうか。

 店に来ている男たちのように?

「やめ、て――」

 また自分の声に鳥肌が立つ。肺が潰れる。耳に粘ついた息が掛かって、そこから溶けていくようだった。舌先に塩の味が広がる。ささくれだった塩原の指が、口の中に入っている。

 天井が見えて、急激に全ての感覚がなくなった。

 頭の中を過去が通っていく。義春に声をかけてもらった時のこと。家中を取り巻いていた線香の匂いと、大叔母の目尻の皺。家を出ていく車の中で掛かっていたラジオ。明け方の雪。知らない町の、灰色の景色。それを見たときの喜び。

 体の上では影が動き続けていた。

 ミラーボールの埃が光って見えた。この建物は、明かりの下で見ると、隅々まで汚い。また掃除をしなくては。彼女たちが少しでも嫌な気持ちにならないように、もっとちゃんと、どこまでも綺麗にして。それで、もっと笑って。ずっと笑っていて欲しい。

 けれど、真の頭に浮かぶのは笑っていない時のニコの顔だった。影がなくのっぺりとしていて、人形のような顔。子供のころ、女の子が手の中に握り絞めている小さな人型を、真は酷く恐れていた。服を捲られ、床に転がされ、ぼうっと宙を眺めている人形の目が怖かったのだ。諦めているような、夢を見ているような。

 今ならちゃんと愛せるだろうか。

「あ!」

 その時、突然、真の体に音が戻り、自分の声が聞こえて心臓が跳ねた。

 ニコだ。

 ニコがいる。現実に、真のすぐそばに。

 何かを振り上げて、彼女は、暗闇のような声を上げていた。

「返せ!」

 体の上で鈍い音がする。胸元で塩原が唸った。ごろりと、硬い物が零れる音がする。見ると、バットが転がっている。ニコの手元から零れたのだ。そう認識した瞬間、体の上から体重が消えた。

 塩原は、岩が擦れ合うような怒号をあげ、ニコへ向かっていった。手を伸ばし、彼女の腕を掴もうとしていた。

 バットは冷えきって、体温がない。

 とても軽く、ひどく重かった。

 ニコは人形の目でまっすぐ男の顔を眺めていた。彼女は未来を見ているのだ。奪われる未来。奪われてきた未来。それは、沢山の過去から出来ている。

「かえせ」

 彼女の口元が動くのを見ながら、真はバットを振った。塩原の頭は重く、硬く、冷たい鉄が手を痺れさせた。肉と骨の倒れる音がする。醜い声がする。短く震え、じきに人型は動かなくなった。弛緩して。血が流れている。

「ああ」

 と、ニコは声を上げた。

 その時の顔。

 なにもかもを奪われてしまった人間の顔。

 真は、しばらくその顔を見ていた。

 けれど一体、私たちは誰に何を奪われたのだろう。

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