第36話 儚い狐狸の瞳の日

 布で剥製を作ったような、可愛らしさとは遠く離れたぬいぐるみだった。

 狸と狐。

 先日の七夕祭りで当てたのだ。真はクジというものを初めて引いた。ニコが玩具の指輪を欲しそうにしていたから、やってみようという気になったのだ。指輪は狸や狐よりも下の賞だったのに変えてくれず、真は納得出来ずにもう一枚千円札を取り出した。

「もう一回だけ」

「いえ! 真さん。これは指輪より良いものですよ! だってたぬきときつねですから」

 よく分からない言い分だったが、ニコが真剣に訴えてくるので、それ以上引くのはやめた。店に持って帰り、せっかくだから飾ろうとニコが言うので、真は事務所の敷居の上に棚を作った。そこへ狸と狐を鎮座させ、二人で柏手を打った。

 あの時は、普通だったのに。

 どんよりとした気持ちで閉店作業を終わらせ、事務所に戻るとなぜかナナとミクの姿があった。今日の送迎は二人だけだ。なぜいつものように車で待機していないのだろう。ミクはいつも通りゲームをしていて、ナナはどうしてか件の狸と狐のぬいぐるみを持って、難しい顔をしている。

「あの、車行かないの?」

 真がいうと、ナナは深いため息を吐き、かすかに首を振った。

「真さん。私が何も気付いていないとでもお思いですか?」

 妙に芝居掛かっている。

「ええっと――」

 助けを求めようとミクを見たが、ゲーム画面からは一層激しい音が鳴り響いている。指先の動きもいつもより早い。大人しく一人で向き合うしかなさそうだった。

「何の話かな?」

 ナナは狸と狐の顔をものすごい早さで真のいる方へ向けた。作り物の目が蛍光灯に反射して光り、すぐに色を失う。

「あなた、ニコさんと何かありましたね?」

 どうも探偵ごっこがしたいらしい。

「どうしてそう思うの?」

 ふっ、とわざとらしく鼻で笑い、ナナはソファーの背もたれに大きく体重を掛けた。煙草を口にくわえ、ぷち、と中に入っているメンソールのボールを口で噛む。

「私はね、こう見えて繊細なんですよ」

「ははっ」とミクがADのような笑い声を上げた。「センサイ」

 明らかに馬鹿にしたような声だったが、ナナは一向気に留めず続けた。

「だから分かっちゃうんですよねぇ。二人の間がこう、ぎくしゃく? ムラムラしてるっていうか、ピンク色のもや的なものがね、もくもくしてるんですよ。ええ。ズバリ、原因はこのぬいぐるみでしょう!」

 もう一度ぬいぐるみの顔を見せられて、やはりどうしてこんなに可愛くない形にしたのだろうと不思議に思う。どう答えるべきかと、とりあえず、ナナの向かいに座り煙草を口にすると、おっと、とナナは声を上げた。

「今、動揺しましたね? まぁ安心してください。悪いようにはしません。私に全て任せてくだされば」

「マカロンあるけど食べる?」

「えっ、マジすか! 食べます食べます! どこすか!」

 話を逸らそうとした訳ではなく、本当に今急に思い出しただけだが、ナナの思考は一瞬でマカロンに奪われたようだった。アメリカ人のようにものすごい勢いで包装のむき、わあ、と歓声を上げる。

「どれ食べてもいいんすか?」

「うん。いいよ。貰いものだから」

「緑のください」

 ミクが画面から目を離さず、手だけを出して言った。仕方ないなーと、ナナは破顔したまま緑のものをミクの手に渡し、自分はじっと箱の中身とにらめっこしはじめた。

 ミクが片手で器用に画面を操作しながら、マカロンを頬張りながら言った。

「祭りの時は普通だったと思いますが?」

「うん」

 真もそう思っている。あの日は、リンカとミクとニコの三人を連れて祭りに出掛けたのだ。途中でリンカとミクとはぐれて、真はしばらくニコと二人で回っていた。本当に、あの時にはなんの違和感もなかったのだ。

「本当に心当たりがないんですか?」

 いや、と真は口にした。あるにはあるのだ。ただ、どういうことなのか分からない。

「あの次の日――ニコさんに会って」

 店の備品を買いにホームセンターに行ったのだ。ニコは母親の腕に絡み着き、母親は鬱陶しそうにしながら、姉らしき人物と話をしていた。一瞬だったが、真はニコと確実に目があった。

「なんだ!」

 突然ナナが大声を上げた。煎餅のようにマカロンを食べ切り、大きな声で続ける。

「それ、虚言がバレて気まずいだけっすよ」

 きょげん、という音が頭に入ってきて、少ししてから漢字に変換される。

「虚言?」

「はい。あれ? 真さんご存じないですか? ニコさん虚言症っすよ」

「ナナさん」

 と、ミクは呆れ気味に声を上げ、画面から目を離した。ナナが首を傾げる。

「なに?」

「なにって、もうちょっとこう――あるじゃないですか。表現の仕方が」

「ひょうげん?」

「別の言い方」

「えー。だって虚言症って別の言い方したら、嘘吐きとかホラ吹きとかにならない? そっちの方が嫌な感じすると思うけど」

「もっと婉曲な物言いがあるでしょう」

「えんきょく?」

 なにそれ、算数の話? とナナは意味の分からないことを言った。ミクはナナとの対話を諦め、真に顔を向けた。眉が下がっている。

「真さん。他意なく聞いて欲しいんですが。あの、ニコさんの言っていることは、ときどき割と、ほとんど事実じゃないです。特に家族に関しての話は――全部嘘です」

 一緒じゃん、とナナが笑う。笑ってから、しかし突然、ナナは急に深刻な顔をした。

「え、ちょっと待ってください真さん。別にそんなの、大したことじゃないですよね?」

 ナナは不安そうな声音で続けた。

「どんな嘘吐いたって、それって嘘だし。現実じゃないんだから、大丈夫ですよね?」

「現実じゃないことを嘘というんですよ」

 冷静にミクが言って、ナナはそれに頷いた。

「うん。だから、どんな嘘吐いたって、それでニコさんの評価が変わるわけじゃないでしょ? ニコさんがいて、やっていることは本当なんだから」

 ミクは黙った。真は考えていた。ナナは続けた。

「私がわーってなってると、ニコさん、一番に気付いてくれますよ。大丈夫だよって、自分が全然大丈夫じゃないときも言ってくれますし、吐くのやめろとか言わないし、吐いた後も、すっきりしたねー、って笑ってくれるんですよ。そんなこと言ってくれるの、ニコさんだけですよ」

 ナナの言いたいことは分かる。ニコは人をよく見ていて、困っていたり弱っていたりすると、すぐに駆けつける。体験入店の子にもニコが必ず一番に声を掛けている。

 それは事実だ。

 けれど問題は、なぜニコがそんな意味のない嘘を吐くのかということだろう。

「真さん」

 ナナが縋るように声を出すので、真は笑ってみせた。

「俺もそう思うよ。嘘吐いたからって、ニコさんの評価が変わるわけじゃない」

 明らかにほっとした顔をして、ナナはマカロンをもう一つ口に含んだ。そうして、もう笑った。真もひとつ食べて、美味しいと言うと、さらに嬉しそうに笑った。

 彼女たちは、大抵こんな風に生きているのだ。

 目の前の食べ物、目の前の楽しいこと、目の前の休息。そういうものを見て、不愉快なこと、恐ろしいことを隅に追いやり、一時なかったことにする。出来れば、本当に忘れる。

 けれど真は、やはりそうすることが出来ないのだ。

 うまく理解することが出来ない。



 ニコとの間にぎこちない空気が流れたまま、数日が過ぎたある日、事態は急に動き始めた。開店前のトイレ掃除をしている真の前に、突然リンカが現われたのだ。

 仁王立ちで。

「えっと、どうしたんですか?」

 まだ始業時間まで30分はある。リンカは両手を腰に当てたまま胸を張って、らしくない単純で幼稚な声を出した。

「旅行に行きますよ!」

「旅行?」

「はい! 今度の日曜日、閉店が二時間早くて、次の日休みになるみたいなんで」

「休み? 俺聞いてないけど」

「うーん。なんでか分からないですけど、何かの大人の事情みたいです。オーナーに聞きました。たぶん、ここらの店一帯の話だと思います」

 この辺りは風俗店が立ち並んでいるのだ。何か指導でも入ったのだろうか。けれど、それで辺り一帯が休みになるなんてことがあり得るのだろうか。

 リンカは構わず続けた。

「閉店したら出発して、次の日お泊まりすることになったんで、真さんも予定空けといてくださいね」

「え、俺も行くの?」

「当たり前じゃないですか! あ、ヨシさんたちには内緒ですよ」

 それは当然そうなるだろう。義春には女性従業員とは適度に距離を取れと口酸っぱく言われている。帰りにコンビニに寄るのも、たぶんアウトなのだ。

「じゃ、今からミクと計画立てるんで」

 とリンカが立ち去ろうとするので、真は思わずうわずった声を出した。

「ちょっと待って」

「ん、なんすか?」

 真は一瞬深く息を吸ってから、短く吐いた。

「それはニコさんも行くの?」

 リンカは、全く動じず全く平素と変わらぬ様子で答えた。

「もちろんです」

 聡いリンカが気付いていないはずない。だから、おそらくこれは真とニコとの間を取り持とうという計画なのだ。仲違いしている友人たちを、仲直りさせようとする、というものなのだ。何かで聞いたり、見たり、読んだりしたことがある。

 真は人と親しくしたことがないので、もちろん喧嘩をしたことがない。だから、仲直りの経験もない。人はみな、本当にそんなことを、やってのけているのだろうか。向き合って、話あって、理解しあう。

「ごめん。ちょっと考えさせてもらってもいいかな」

 だって、それで理解し合えなかったら、もうどうすればいいのか分からない。

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