第35話 疼ぐ肉食獣の日
彼女たちの体には、諦観と空想が同時に存在している。
洗面所へ向かう細い廊下の隅に、白く丸い物が転がっていた。その白色の縁は暗闇に輪郭を蝕まれていて、境界が曖昧になっている。曖昧な縁から声が聞こえている。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ」
それは、一つ一つ、一回一回、違う響きをしていた。全体が小さく揺れていて、真は、やはり無理だと踵を返そうとした。が、その横を義春はさっと通って行った。
「ニコ」
義春の声で、曖昧だった存在の境界がはっきりとする。
「はい」
か細い声には、明るさを貼り付けようとする意思が感じられた。ただ、明度が足りない。暗く濁っている。
「アイの子供が熱だしたって。お前、ラストまで行けるか?」
「お兄、」
という真の声は遮られた。ニコが「はい!」と突然大きな声を出したからだ。どのような場合でも、量というものは何かしらを圧倒するらしい。声量が明暗を消した。
「大丈夫です! 今日は予定がないので!」
「そうか。助かる。俺、これから出るけどなんかあったらすぐ連絡しろよ」
「はい! ありがとうございます!」
「じゃ真、あと頼んだぞ」
それだけ言って義春は本当に出て行ってしまった。ニコの体はまた暗がりに溶け込み始めている。近づくと、みしみしと廊下が音を立てた。この建物は古すぎる。
ニコは自分の左手首を右手で握っていた。震えているのは、力を込めているからだ。真が声を掛けるより先に、彼女は口を開いた。
「アイさんのお子さんは、もう喋るらしいですよ!」
そこまでは、声量でもって声の明暗を塗り潰していた。けれど、次の言葉にはただ重さだけがあった。
「言葉を」
微かな明かりもなく、言葉が床に落ちる。忌避された隕石ように、何にも顧みられず、ただ落ちた。彼女の指先は震えている。
「とりあえず、事務所に行きましょう」
今日は平日の何でもない日の割に客が多く、おまけにオープンの出勤は二人しかいなかった。指名の多いニコは女子の待機室に戻る暇もなく、ずっと事務所にいた。
明るい事務所に連れてくると、彼女の声には途端に明るさが戻った。
異様な明るさが。
「今日! すごく忙しいですね! スケッチブック持ってきたけど、意味なかったです!」
いつも彼女と共にあるスケッチブックは、今日はずっと壊れたソファーの上に置きっぱなしだった。ニコは続けた。
「みんなが元気な日なのかもしれないですね。何か、星の回りがよいのか、悪いのか――今はお客さんいないですか? まだ待機してますか?」
「今はいないよ、大丈夫」
そう答えながら、真は木箱を探していた。その中に数枚だけ絆創膏が入っていたのをこの前見たのだ。真が探している間、ニコは店の入口がある方向をじっと眺めていた。きっと足音を聞いているのだ。次にくる客の。
「ニコさん。少し休憩しましょう。人が来ても、一時間くらい待ち時間作っても大丈夫ですよ」
実際、店が混んでいる場合、それくらい待つことがある。しかしニコはまた声を張った。
「大丈夫ですよ! アイさんのお子さんのためなら、頑張れます!」
もうアイは帰ったのだから、今ニコが無理をしたところで、子供には何の関係のない。けれど、そう告げるのは彼女の意思の否定に繋がるのかもしれないので、止めた。ニコは頭をゆるく左右に揺らし始めている。
「もっと稼がないといけません。お母さんにあんぱんを買ってあげないと」
弛緩した言葉が中空を漂った。
「お薬飲んだんですか?」
「ええ――はい。いい感じです。とても」
精神安定剤というが、それがどういう状態の何に効く物なのか、真には良く分からなかった。ただ、ニコの体の中で、全ての感覚が鈍くなっていくのが体の外側を見ているだけでも分かる。あまりにはっきりと効果を現すので、いつも真は恐ろしい気持ちになった。感情がそっくり変わってしまうのは、人間が変わるのと同じではないか。
こんなに頻繁に自分をなくしていたら、戻るところがなくなってしまうのではないだろうか。
「お母さん、あんぱんが好きなんですか?」
「はい。そうなんですよ。あまりご飯を食べたがらないのですが、あんぱんだけはよく食べてくれて」
ニコの家には父親がおらず、母親は長期の入院をしているらしい。彼女は年の離れた弟の学費を稼ぐためにここで働いているのだ。さすがに、そういった事情がある人間に働くなとは言えない。
「ニコさん、腕、ちょっと借りますね」
ニコの手の甲と手首には、爪のめり込んだ跡がいくつも付いていた。薄皮が破れて血が滲んでいる。真が絆創膏を貼っている間、ニコは怖いくらいに静かに、じっとしていた。
熱があるのかと思うくらい、彼女の腕は熱かった。
「鰐」
と、突然ニコは言った。なんだと思うと、手の甲をじっと眺めている。絆創膏は子供用らしく、尻尾に包帯を巻いた鰐が描かれていた。
「どうしたんでしょう、この鰐は」
とても真剣な硬い声で彼女は言った。
「どうしてこんな所を怪我してしまったのでしょう。真さん、ご存じですか? 鰐はとても強いのですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。世界中の物をすべて食べられるくらい強いのです。だから、もしかしたら同じ鰐にやられたのかもしれない」
ニコの言い方は、目の前に鰐がいて、その鰐が仲間に噛みつかれているのを見ているようだった。真は、どうにかその鰐を想像しようと努力した。鰐が同じ鰐の尻尾に噛みつく映像。鰐が尻尾に包帯を巻き、目から大きな涙の雫が溢す映像。ニコは、その鰐と自分を重ねているのだろうか。
真は、頭の中で泣く鰐をどうにか慰めようとした。
「人間かもしれないですよ」
すると、ニコはただ「にんげん」と繰り返した。
「はい。鰐の皮って、すごく高いらいしじゃないですか。だから、人間にやられたんじゃないですか」
話している途中で心が折れそうになった。同じ鰐にやられるより、他の動物にやられたほうがまだ増しかと思ったのだ。でも、目の前にないものを語るのは、とても難しかった。彼女たちのように上手く入っていけない。彼女たちのあのめくるめく空想。ほとんど妄想めいた、荒唐無稽な、しかし深刻な。あの空想のようには。
ともかく鰐を岸辺で休ませなければならない。
「人間からは逃げられたけど、怪我をしたから手当してもらったんですよ」
「誰が」
「え?」
「誰が手当をしてくれたのでしょう」
ニコは音程のない声でそう言った。
「それは――鰐が」
「わに?」
「はい。鰐が、鰐に手当を」
しかし、どうやって包帯を巻くのだろう。このイラストの鰐は普通の鰐と同じ、四足で這うようにして存在している。両手は使えるのか。どうなのだ。
「そうなんですね」
ニコは手の甲を眺めながら、硬い声音で呟き、それきり、喋らなくなった。
やはり、外側だけ真似をしたってどうしようもないのだ。寄り添おうとすればするほど、自分には共有できないのだと思い知らされる。いつもそうだった。これまでだって、真は誰のことも理解出来なかった。理解する練習をしてこなかったのだから、今更簡単に理解できるはずがないのだ。
煙草を吸っている間にまた客が来た。
ニコはいつもの調子を取り戻していて、そのあとも二人、客に付いた。夜番が来た途端客足は途絶え、そのまま閉店になった。
真には分からなかった。
ニコは全ての感情を飲み込んで、抱えきれずにいつも体を震わせている。明るい声を出し、暗い場所を照らそうと躍起になり、結局はその暗さに自分だけが飲み込まれている。
それなのになぜ笑うのだろう。なぜ、笑おうとするのか。
彼女を見ていると、真は自分の不完全さを咎められているような気になった。生きることを選択しない、ただ流れて、時間を過ごすだけにした自分を。戦うことをせず、それゆえ誰の世界にも入っていけない自分を。
「真さん!」
閉店作業の仕上げに掃除機を掛けていると、突然背後からニコの声が飛んできた。彩度と明度を完全に取り戻した声に、真は一瞬立ちすくんだ。が、どうにか振り返った。
「どうしました?」
掃除機を止めると、ニコは持っていたスケッチブックをばらばらと捲った。そこから一枚を勢いよく剥がし、差し出してくる。
「差し上げます!」
手にとった紙の上には、あらゆる線が並んでいた。細い線、太い線、濃い線、薄い線、長い線に短い線。それから空白の白。白色も線のように見える。
描かれているのは全貌の分からない大きな川のようだった。広い岸辺がある。森林は枯れきって既に荒廃していて、川を流れる水だけに勢いがあり、あとは死んでいるか、死ぬ間際だ。
「これは」
「鰐です!」
「え?」
よく見ると、確かに岸辺に鰐がいた。隅の方にひっそりと小さく。絆創膏に描かれたイラスト調のものではなく、写実的な鰐が。一匹は尻尾に包帯を巻いていて、両隣にも一匹ずつ鰐がいる。寄り添っているというほど近くはなく、けれど、並んでいる。二匹の歯には包帯が引っかかっていた。
真は紙の上を触った。ただざらりとした紙の質感だけがある。
「絆創膏のお礼に差し上げます!」
いつもの明るい声が正面から飛んできて、真は咄嗟に首を振った。
「いや、こんなすごいもの――もらえないです」
ニコはぽかんと口を開け、素に近い声を出した。
「えっと、あの、そんなにすごいものではないです。さっと描いたので。ぜんぜん」
こんなにたくさんの線をさっと描けるはずがない。
「真さんに差し上げるために描いたので、あの――お嫌じゃなければ」
もらって欲しいのですが、とニコは言った。
とても信じられなかった。真の想像力では、どうやっても想像仕切れなかった鰐が今、手の中にいて、生きている。生きていると思った。
ない世界が目に前にある。
「ありがとうございます」
大げさではなく、深い場所から掬い上げられたような気持ちだった。だって、これは真には理解できなかった世界なのだ。それが今、目に見えて真にも分かるようになった。理解できなかったものが、理解できるように――。
「あの、また何か描いたら見せてもらってもいいですか?」
そう言うと、ニコは困ったように眉を下げた。
「えっと、こんなものでよろしければ、いつでも」
「本当? 約束ですよ」
「や、約束。はい、約束です。約束しましょう」
「じゃあ」
と、真は自分の小指を突き出した。約束の仕方を指切り以外知らなかったのだ。もっとも、やったのは始めてだった。ニコは、へへ、と小さく笑ってから指を絡ませた。白くてふくふくとした指だった。真とは何もかも違う。けれど、それが幸福なことのように思えた。違う人間として、ここにいるということが。
しかし、それから一週間後、ニコは突然真を避け始めた。
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