第34話 泥浴びる象の日

 ボーイの仕事はそのほとんどが雑用だった。朝はトイレの掃除から始まり、夜は掃除機を掛けて終わる。あらゆる備品の補充に買い出し、日によっては従業員の出前の手配、名刺の作成、ゴミ捨て、おしぼりの補充。誰でも出来るようなことばかりだ。従業員全員の舎弟と言って差し支えない。

 その中で唯一、技術が必要なのが見回りだった。

 定期的にボックスの間を歩いて、サービスの様子を伺い、違反行為がないかチェックするというものだ。真は最初のうち、どこにどう目線を送ってよいのか分からなかった。男性はともかく、女性はサービス中は基本的に全裸だ。男性客の性器など見たところで他人なのでどうでもよいが、女性たちは言わば同僚だ。同僚の裸を見ながら仕事をするのには、違和感があった。

 ただ、そんなことを思えていたのは最初の一週間くらいのものだった。

 すぐに裸である、ということを意識出来なくなった。女性たちが気にしなさすぎるからかもしれない。客に胸を吸わせたり、顔の上に跨がり下半身を舐めさせている間、彼女たちはいわゆる喘ぎ声というものを上げるのだが、真が見回りで前を通ると、胸元や股の下にいる客に分からないように、声を上げながら手を振ってきたりするのだ。

 今もまた、客に足を舐められながら、ナナが大きく手を振ってきている。

 事務所に戻ってしばらくすると、開口一番ナナは言った。

「真さん、さっき手振ったのに!」

「うん。見えたよ」

「振りかえしてくださいよー。モモさんには振り返したって聞きましたよ」

「いや、お客さんが顔あげそうだったから」

 慣れてしまえば店の中は暗闇とはほど遠い。ボックスの上には回らないミラーボールが細いスポットライトを浴びて、小さな光を放っているのだ。

「大丈夫っすよ。あの人たちここでは全身男性器っすから。回りのことなんて見えてないですってー」

 彼女たちは驚くほど男性に厳しい。会話の9割が客への文句だ。けれど、これは風俗業界の特徴ではなく、接客業の特徴なのかもしれない。ナナはおしぼりを片付けながら言った。

「今、ファンサ競争してるんすよ!」

「ファンサ?」

「ファンサービスっす。お手振りクリアしたら、次はバーンってしてもらうんです」

「それは俺がやるの?」

「当たり前じゃないですか!」

 手を降る以外に妙な動きをしている女性がいるのは、そういうことか。ナナは考え混むように、ううんと唸った。

「やはり体位が勝敗を分けますね。69が狙い目なんですが。あれちょっとキモいんですよねぇ」

「うん。あのね、お客さんにもちゃんとサービスしてあげてね」

「もちろんっすよ!」

 女性たちはこんな風に非常にフレンドリーだった。ここに来て初めて思い返したが、真は今まであまり人と親しく話をしたことがなかった。特に学生時代は、当たり障りのない話を、当たり障りのない場面ですることに心血を注いでいたので、同級生と交わした会話を一つも思い出せない。

 それどころか、誰の顔も思い出せなかった。

 見回りの他に、真が任された大きな仕事がもう一つあり、それは女性たちの送迎だった。閉店まで働いた従業員を家の近くまで送り届けるというものだ。

 店を持ったときに必要になるからと、義春に免許だけは取らされていたが、ほとんど運転していなかったので、これは神経を使う仕事だった。

「あ、ねーねー、真さんコンビニ行きましょコンビニ!」

「あー、私もいきたーい」

「行くなら釣り竿屋のとこにしてー」

「ああ! 振り込み忘れてた!」

「うるさいってば」

 今日は特に人が多い。給料日後の金曜日ということで、出勤自体が多かったのだ。授業員同士は外で会ってはいけないことになっているが、仕事終わりの寄り道くらいは許されるらしい。真としても、日によっては夜を食べ損なっていることもあり、寄り道はありがたい。

 ただ、切り上げ時が良く分からない。

 若い子たちはいつまでもの商品の前で騒いでいる。どうしようかと考えたが、忙しく働いた後なので、しばらくは自由にさせてあげた方がいいのかもしれない。外に出ると、ユリアとニコがベンチに座って、何かを食べていた。濃い肌色の棒状の。

「フランクフルト――」

 思わず口から声がでた。あれだけ働いて、よくまた棒状のものを口にいれようという気になるものだ。ニコが顔を上げた。

「あ、真さん、ここ空いてますよ!」

 ニコの声はにどんな時にも、色彩が咲くような勢いがある。しかし、なぜ二人の真ん中を開けるのだろう。

「煙草吸いたいので、端でいいですよ」

「みんな喫煙者だから気にしないよー」

 ユリアの言い分に返す言葉の手札がなかったので、大人しく二人の間に座った。春先とはいえまだ寒い夜の空気の中に、コンビニの食べ物独特の匂いが漂っている。煙草に火を付けても、それらは相殺されず、同時に存在する。

 真のことを女だと知っているのは、この店の中ではこの二人だけらしい。もっとも、彼女たちは今まで一度も真に対してそのことについて語らなかった。

「真くん煙草吸うようになったんだねー」

 ユリアは半分残っているフランクフルトを妙な具合に振りながら、良きかな良きかな、と繰り返した。

「良いですか? 俺は悪いことだと教わりましたが」

「悪いことは良いことだからねー」

 ユリアの傍らには缶ビールが置いてある。どうりでいつもより雰囲気がゆるい。ニコが最後の一口を頬張りながら、真の煙草を眺めた。

「ヨシはんのと、おんなじやふですね」

「ああ、はい。そうです」

 真はここに来てから吸い始めたので、今吸っているものがどういうもので、他にどんな銘柄があるのかもよく知らない。待ち時間も多くて暇なので、義春のものを吸っていたら癖になったのだ。

「ニコさん、よく人の銘柄まで覚えてますね」

「ニコは全員の覚えてるよ。ねー」とユリアが嬉しそうに首を傾けた。

「はい! 煙草診断をする時はぜひご一報ください!」

「煙草診断?」

「気分を変えたい、自分にはこの煙は合っていないのかもしれない、そんなお悩みがあれば、一緒に悩むことが可能です」

 決めてくれるのではないのか、と思うとユリアが横から自慢げに付け足した。

「ニコは煙草悩みのエキスパートだからね。ほとんど全部吸ってるけど、未だに銘柄定まってないんだから。煙草悩み大先輩だよ」

 ふふふ、とニコは満足そうに笑った。

「ちなみに、今はこれを吸っています」

 そう言って、不気味なクマのような、何かの動物のポーチを広げて黒い煙草と赤い煙草を取り出した。記念に差し上げます、とそれぞれの煙草が真の箱の中へ詰め込まれた。なんの記念なのだろう。

 そう思ったが、真は頭を下げた。

「ありがとうございます」

 この仕事について、義春はただ一つのことだけを真に命じた。それは、女性たちを否定しないこと、というものだ。

「いいか、ここにいる女たちは、どれだけ普通に見えてても、普通とは違う。ちょっとした言葉で、怒るし傷つくし泣く。そんで飛ぶ。それだけは避けたい。だから女には優しくしろ。それがお前の一番の仕事だ」

 それで義春が女性に優しいかと言えば、そうでもないのだ。俺は肉体でケアするからいいのだ、というのが義春の言い分らしい。従業員と肉体関係を持つこともボーイの仕事なのだという。真にはその役は担えないので、確かに言葉で優しくする他に出来ることはない。

 気が付くと彼女たちは、夢の話をしているようだった。夜に見るものではなく、将来の展望という意味での夢のようだ。

「私は象使いになるんですよ」

 ニコは真に向けて言った。そうなんですか、と答えてみたが、他にどんな言葉を続ければよいのか迷う。象使いの知識がなさすぎる。

「それは――どうやったらなれるんですか?」

「まず免許を取らなくてはいけませんね」

「免許?」

 象も馬と同じように車両扱いなのだろうか。

「初めて聞きました。教習所みたいなところがあるんですか?」

「はい! タイにあります」

 外国か、と思っていると横からユリアがふにゃふにゃした口調で言い添えた。

「槍がもらえるんだよねー」

「はい。つっつき棒みたいなやつですね。象は肌が硬いので、こう」と、ニコはフランクフルトの棒で何かを突くようなジェスチャーをした。「鋭いやつでつっつかないと、気づかないんですって。象さんの、耳の後ろを、こうやって」

 と、ニコは再びフランクフルトの棒で、架空の象の耳の後ろを突いた。

「それは修行をするんですか?」

「森に行って丸太を担がせたり、泥浴びさせたりするみたいです」

「へぇ。大変そうですね。それって、どれくらいで取れるんですか?」

「どれくらい?」と、ニコは首をかしげた。

「免許をとるのに」

「ああ。最短だと一日です!」

 想定外の短さに言葉が詰まった。

「長いのだと五日コースがありますが、そこは値段との相談ですね。無事卒業したら象使いコスチュームと、つっつき棒と、あと賞状がもらえますよ!」

「賞状」

「免許皆伝! みたいなやつでしょー?」とユリアが笑う。

 真は否定しないように気を付けて言葉を選んだ。

「その免許は、やっぱり、象使いに就職するのに有利になるんですか?」

 精一杯流れに沿った相槌を打ったつもりだったが、妙な間が出来てしまった。どうしよう、と思った瞬間、両隣から手持ち花火のような笑いが起きた。

「就職! 考えてませんでした!」

「真くんおもしろーい!」

 二人はしばらく笑い続けた。

 生まれてこの方、これほど人に面白がられたことはない。彼女たちに普通でない部分があるとすれば、この笑いだ。妙な部分でやたらに笑う。

 ニコはまだ笑みの残る声で言った。

「象使いに就職! それはとても良い案ですよ。昼は見知らぬ土地で象使いとして働いて、夜は悪の秘密結社として象を乗り回して跳梁跋扈ですね」

 真はまったく話に追いつけなかった。

「正義じゃなくて悪なんですか?」

「正義なんて厭ですよぉ」

 いつの間にか煙草をくわえているユリアがまた付け足した。

「ニコが悪の秘密結社作ったら、わたしはセクシー担当で雇ってもらえることになってるの―」

「あと移動楽団も作るんですよね。わたしがチェロで、ユリアさんがピアノで、綾乃さんはトライアングル! ミクちゃんはビオラでリンカちゃんはヴァイオリンです。リンカちゃんは本当にヴァイオリンが弾けるんですよ」

「そう、ですか」

 そう答えるのが精一杯だった。

 彼女たちは会話の中に突然こうした空想を取り入れる。あまりに本当のことのように話すので、混乱する。やはり、ある種の認知の歪みがあるのかもしれなかった。現実を上手く理解出来ていない。もう真も慣れてしまったが、やはりあんな風に人前で裸になったり、見知らぬ他人の性器を口に含むというのは、普通の神経では出来ないことだ。

「真さんは何がいいですか? あとはサックスとかフルートとか」

「指揮者がいいんじゃなーい?」

「あ、いいですね。燕尾服!」

「白髪にしようよ白髪」

 彼女たちは現実を上手く理解出来ないからこんな話をするのだ。そう考えながら、真は適当な返答を口にした。

「出来れば、もう少し簡単なのがいいです」

 しかし、真の考えは間違っていた。

 彼女たちは、知りすぎている。

 世の中の誰より、世の中の誰も知れないほど深くまで、よく知ってしまっている。だからこそ、夢の話ばかりするのだ。

 それに気が付くまで、そう時間は掛からなかった。

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