第33話 瞬く色彩の日

 真が最初に教わったのは、従業員が使うといううがい薬の作り方だ。大きなボトルに入った原液は、作り物の宝石のような緑色をしていて、それを水で薄めてほとんど透明にするという仕事だった。

 ボーイの待機場所である事務所の中には、絶えずこの薬品独特の匂いが漂っていた。流しの前で真が作業を始めると、後ろで義春と岩滝がなにやら講義をしはじめた。

「いいか、まずピンサロは本番禁止だ」

「本番」

「挿入だな、挿入」

「素股もうちはダメだよー」と岩滝が付け足した。

「すまた」

 聞いたことのない言葉ばかり飛び出てくる。

「腿に挟んで擦るやつね」

 岩滝は自分の腿を閉じて見せた。義春が気持ち悪い、と言ってその足を蹴っ飛ばした。かぱりと岩滝の股が広がる。義春は続けた。

「客が上に乗るのも良くねえな。避けるようには言ってるけど、場合によっちゃやむを得ずってこともあるから、それは見極めろ。慣れだな慣れ」

 見極めろ、という意味も分からなかった。

 そもそも、真はピンサロという言葉を今初めて知ったのだ。風俗の――いわゆる性産業の一形態のことらしいが、他にどんなものがあるのかも知らない。風俗というものはすべて挿入を含むのかと思っていたが、そうではないらしい。中でもピンサロというのは、業務的に色んな制約があるのだという。そのあたりは二人とも説明が下手で、うまく理解出来なかった。

「お兄、飲食店作るのかと思ってた」

 真が何気なく口にすると、義春は大きく顔をしかめた。

「は? ここも飲食店だし。っていうか今は金集めてるだけだし。修行中の身なの俺は」

「そうなんだ」

「そうなの! おら、終わったなら次!」

 その後は麦茶を三倍に薄める仕事を教わった。全ての液体を通常の3倍から5倍に薄めるのがこの店でのルールらしい。義春は手際がいい、とやたらに真を褒めた。身内に甘すぎるのではないかと少し心配になる。

「あとはトイレ掃除と見回りと――コールか」

 義春が辺りを見回すと、コールは明日でいいんじゃね? と岩滝が答える。先ほどから義春がマイクに向けて何事かを喋っているが、それがコールというものらしい。

「じゃ、今日はトイレだけやるか」

 トイレ掃除はそれまでのものと比べると、やや骨の折れる仕事だった。まず洗面所に落ちている大量の髪の毛を、粘着性のクリーナーですべて取らなければいけない。そのあと床をぬれ雑巾と乾いた雑巾で拭き、便器も毎日3回は拭き掃除をする。におい消しがすぐになくなるのでチェックを忘れてないように。水漏れは自分たちで直す。

「あと、汚物入れな」

 ずっと居心地が悪かったが、その言葉を聞いて真の所在なさはピークに達した。義春はトイレの隅にある小さな――と言っても、通常の女子トイレで見る物よりかなり大きいように感じる――汚物入れの蓋を開け、中の物を持っていたゴミ袋に豪快に放り込んだ。

 雑な所作のせいで、中からぼろりと白い物が床に落ちる。

「うわあ」

 こらえきれずに声を上げた真に、義春が目を丸くした。

「なに、お前、血ぃだめなの?」

 真は床の上の物から目が離せなかった。ティッシュにくるまれた白い物に、べったりと赤いものがついている。

「血っていうか――」

 真は空気を大きく飲み込み、床から目を離した。こんなことでは駄目だ。

「ごめん、大丈夫。びっくりしただけだから」

 女は月に一回、下半身から血を流すのだ。それくらいはもちろん知っている。生理のある女より、真の方が詳しく知っているだろう。下半身から血を流す、という意味が分からず、中学の頃にあらゆる動物の生理について調べたのだ。

 でも理解できなかった。

 真にはそれが訪れない。子宮がないのだから当たり前だが、集団生活を送る上で、生理が来ている振りは欠かせなかった。小さなポーチに姉の使っている生理用品を二つ入れ、定期的にトイレにもちこむのだ。小さなオムツのようなそれはナプキンと言って、白くて薄いビニールでくるまれている。トイレに入っていると、べりべりと隣のトイレで何かを剥がす音がすることがあって、それは下着からナプキンを剥がす時の音らしいのだ。

 真はいつも、制服のスカートに粘着部分を貼り付けて、剥がす音を作りだしていた。ナプキンはそのままポーチに入れて持って帰った。

 汚物入れを開き、そこに捨てるのがおぞましかったのだ。

 女は下半身から血を流している。

 その事実を目にするのが怖かった。

「慣れる!」

 突然強い語調で義春は言った。真顔で、上から被さるような大きい声で。

「こんなん慣れちまえば何ともねえ。後でゴム手とマスク買ってきてやるから、それ付けてやれ」

「う、うん」

 ただ、その汚物入れの中にはナプキン以外の物の方が多く入っているようだった。湿った小さな白い綿だ。目線で理解したのか、義春がトイレの上の棚を指した。

「脱脂綿な。毎回使うから、すぐ一杯になる」

 業務用、と箱に書かれているが、どのような業務に使うのか想像出来ない。

「な、何に使ってるの?」

 おずおずと真が聞くと、義春ははっきりと答えた。

「お股拭くに決まってんだろ」

「おまた」

「べろべろ舐められたら気持ち悪ぃだろ? だから、毎回客に付いたあとにこれでお股拭くの。おーけー?」

 理解出来なかったが頷いた。なぜ舐められなくてはならないのだろう。先ほど口で精液を出させるのが女性の仕事だと説明されたが、それだけではないのだろうか。義春は最後にスプレータイプの消臭剤を洗面所中に振りまいた。

「これでフィニッシュ!」

 洗面所は甘い花の香りにすっかり覆われたが、真の鼻先はいつまでも生臭かった。


 そのあと接客も教わったが、それもかなり簡素なものだった。決められた順番で料理の皿をテーブルに出すのと同じか、それより簡単かもしれない。指名の有無とコースを聞き、金銭の授受を済ませ、男性を待機室へ案内する。あとはボックスと言われるサービスを行う場所へ女性を案内すれば終わりだ。

 女性は待機室で待っていて、マイクで呼び出すらしい。

「フリーかぁ」

 と義春は悩ましげな声を上げた。フリーというのは指名をしないということで、その場合、空いている女の子が順番で割り当てられるらしい。義春は何かの表を確認していた。

「どうしたの?」

「いや、まぁちょうどいいか! 女子の待機室案内するわ」 

 女子待機室はボックスと呼ばれる、女性がサービスを行う場所を突っ切り、その先にあるらしい。腰元くらいまでの敷居が、壁から一定間隔で生えていて、その間の空間に番号を付けて読んでいるらしい。箱というには不十分過ぎるように思う。衝立が建てかかっているが、これでは前を歩いたら何もかも見えてしまう。

 本当にこんな場所で下腹部を晒すのだろうか。

 突き当たりの壁に暗幕が掛かっていて、その向こうが女子待機室のようだ。暗幕を一つ捲ると、靴の墓場のような空間が広がっている。猫の絵の書いてあるサンダルが四つに、ピンヒールにスニーカーにブーツにビーサン。季節感が少しもない。中にはもう一枚暗幕があって、義春は声とともにそれを捲った。

「失礼しまーす!」

 橙色の光りがぼんやりと浮かんでいる。小さな部屋の中では、毛布が波のようにそこかしこでうねっていた。波の狭間に様々なものが埋もれている。煙草の箱、手鏡、駄菓子、煙草の箱、コンビニの漫画本、煙草の箱。空気の中では、甘い匂いと煙草の匂いとが、また、湿気と乾燥とが混在していた。義春が声を掛ける。

「おーい、ニコ。次、行けるか?」

 奥まった所でこんもりとしていた毛布がもぞりと動いた。小さな掠れた声が「はい」と答える。

「よし、じゃあ、準備な」

 すぐに暗幕が締められてしまったので、声の主の顔は見えなかった。戻りしな、また細かなことをいくつか教わっていると、また来店を告げるインターホンの音がした。義春は事務所を指し示した。

「お前、中入ってろ」

「う、うん」

 そうきびすを返した瞬間、誰かに背中を押された。

「え?」

 ぐいぐいとそのままのれんの向こうまで押し切られ、振り向くと、背後には制服姿の女性が立っていた。

「あ」

 さっき床に倒れていた女性だ。彼女はふぅ、と何かをやりきったような息の吐き方をして、真を見上げた。

「危なかったですね!」

 ぱっと光が付いたように彼女は笑った。面食らっている真を気にもせず続ける。

「ボックスに入る前に、私たちはお客さまと鉢合わせてはいけないのですよ。これが結構大変でして。ミッションインポッシブルなんです!」

 明るい声音は、しかし確かに枯れていた。それに、自然光の入る部屋の中で見ると、彼女の目は明らかに腫れ、白目に血が走っている。大丈夫だろうかと、真が声を掛ける前に、彼女はまた口を開いた。

「どうしようもない時は暗幕にくるまって難を逃れるんですよ。だから店には暗幕が一杯あるんです! ですが、待機室から出てくる時にはボックスの前を通るので、あまり意味のない決まりです」

 不自然に明るい声音で言い切ってから、彼女は真の目を見て二三度ゆっくりと瞬きをした。それから、はっと息を吸う。

「すみません! ご挨拶がまだでしたね。わたし、ニコです。番号は25番で、毎月25日には指名料が半額です!」

 そういうシステムがあるのか、と思いながら真も答えた。

「最上真です。今日からお世話になります」

「はい。真さんですね。お話はきいております」

「え」

 何の話だろう、とぞっとする。彼女は、真の顔色を読み取ったのか、即座に大丈夫ですよ、と、明度の高い声を出した。

「私がちゃんと守りますから!」

 それが彼女と交わした初めての言葉だった。

 真は、その時のことを、今でもはっきりと覚えている。

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