第32話 舌の上の言の葉の日

 義春は約束を忘れていなかった。

 真が18歳の冬、以前にもまして柄の悪くなった義春が突然家にやってきて、大きな声で真を呼んだ。雪が降るとか降らないとかいう日で、鼻の頭を赤くさせ白い息を吐き、眼の前にいるのに、やはり義春は大きな声を出した。

「行くぞ」

「うん」

 それ以来、真は自分の家には帰っていない。

 かなり長いこと車に乗って訪れた町は、どこにも見覚えがなく、それが心地よかったのを覚えている。結果として義春はまだ店を持っていなかったが、つなぎたと言って配膳のバイトを紹介してくれた。真はそこで働き、約束通り自分の金でワンルームを借りることが出来た。けれど三年経っても四年経っても、義春の店が出来ることはなかった。

 それでも真には、生命維持が出来る金と場所があるだけで充分だった。安寧という言葉をそのころ始めて知ったのだ。

 少なくともこの町では、誰も真の体のことを考えない。知らない。それはつまり、真自身が自分の体のことを考えなくてもよいということだ。

 何も考えないでいるのは楽だった。

 出来れば、もう一生何も考えたくないと思った。





 その日、真はいつの間に眠ったのだろうと思いながらまた夢を見ていた。車屋の夢だ。言葉を発さない店主が、大口の開けた車に頭を突っ込み何かを直していた。

 小さな金属の擦れる音が続いている。

「これは悲鳴だ」

 突然店主は言った。

 キリキリと微かな鉄の擦れる音がしていた。

「ひめい」

 と真は繰り返した。

 目を開けると、義春の顔が目の前に浮かんでいる。

 夢だろうか。

「お前、不用心だよ。なんで鍵かけてねえの?」

 夢ではないようだ。

 何ヶ月も連絡をしてこなかった人間の最初の一言としてはふさわしくない言葉ではないだろうか。けれど、真にはあまり気にならなかった。

「鍵をかける文化を獲得できなかった」

 そう答えると、なんだそりゃ、と相変わらずの大声で答えてから、義春は部屋を見回した。

「なんもねぇな」

 真はただ頷いた。いつどうなってもいいように、荷物は最低限しか置いていない。まあいいや、と義春が紙袋を差し出してくる。

「これに着替えて10分後に外出ろ。なんかブラみてぇのは俺は付け方分かんねえからスマホで調べろ」

 よく頭が働かない。ブラ、と聞こえた気がした。

「ガラケーでも調べられる?」

「は? お前まだガラケーなの? つうか、お前ってそもそも胸あんの?」

 話が飛んで聞こえるのは、寝起きのせいだろうか。真は自分の胸元を久しぶりに見た。

「多少」

 高校に入るまでホルモン治療とやらの薬を毎日飲まされていたので、少しだけ膨らんだのだ。それが気持ち悪くて、真は薬を飲む振りという技術を身につけた。薬を辞めたからと言って、即刻毛むくじゃらの男になるわけではなく、ただ長い吐き気が訪れただけだったのは不思議だった。

 まぁ、と義春は適当な声をだした。

「普通のと大体一緒だっつうから分かるだろ。お前今日バイト入ってんの?」

「うん。夜から」

「休むって言っとけ。っていうか辞めるって言っとけ」

 じゃ、と言って義春は外に出ていった。元々配膳の仕事は単発で入っているので、今日を休めばその先は予定がない。連絡すれば働けるし、連絡しなければそれで終わり。何のしがらみもないこの仕事は、真の性分には合っていた。が、義春が言うのなら従う以外にない。

 ブラのようなものは、ブラのようなものとしか言いようのない形状をしていた。サラシを着用しやすいように下着型にしたものらしい。

 入っていたスーツを身につけて外に出ると、おお、と義春は声を上げた。

「すでにもういい感じじゃん。よし、次、行くぞ」

 次、というのは美容室で、真はすっかり短髪になった。義春はそれを見てとても喜んだ。

「いいな。すごくいいぞ! そういや、お前柔道黒帯なんだっけ?」

 寝起きのせいではなく、義春は元々こんな話し方なのだ。話題が隙間なく飛ぶ。真は答えた。

「柔道じゃなくて空手だよ。茶帯」

 無心に体を動かしていられるので、これも真には向いていたのだが、家族はそれをよく思っていなかった。お前は本当は女なのだ、と母は何度も真に説き伏せた。道場にはいくらでも女がいるが、母の目には入らなかったようだ。本当に女だと思っているのならば「本当は」などという形容詞はいらないということも、母は理解しなかった。

「茶帯って、どんくらい強いの?」

 義春は空中に拳を打ち付けながら言った。

「黒帯の下の下」

「黒帯が最強か?」

「うん」

「やるじゃねえか!」

 と、肩をものすごい強い力でばんばんと叩かれる。昔から義春は力加減が下手だ。

「ガタイいいもんなぁ、お前! っていうかお前の家族! 俺んち全員小せえのによぉ。どこの血だ?」

 大きく笑って、まぁよかった、と義春は歩き始めた。着いて行くと、昼食について話すような口ぶりで言われる。

「お前、今日から俺のとこで働け」

「うん」

 すぐに答えた真に、義春は何も言わなかった。

 3駅くらい電車に乗って、辿り着いたのは繁華街の中の雑居ビルだった。4階建ての古い建物で、茶色い蔦が背面から正面にヒビのように走っている。ぱっと見てなんの店かは分からなかった。端の方に暗い階段がぼうっとついていて、その上部に小さな看板がついている。

「漫々女学院」

 ピンクの看板に、学校のイラストと、制服のイラストがちりばめられている、フリー素材を貼り付けて作ったような出来映えだ。

「略す時はマン女な」

「まんじょ」

 真が繰り返すと、義春が略すなよ、と笑った。よく分からない。正面の階段を通り過ぎ、裏手の螺旋階段を上った。酷く錆び付いていて、よく揺れる。何段か上がったところで、上空から聞いたことのない言語がふり落ちて来た。見上げると、二人分の足が柵の間から伸びて、ぷらぷらと揺れている。

「あれはヤンさんとホサイン」

 それ以上の説明はなかった。何語なのかも分からない。

 従業員入口だというその鉄扉は妙な咆哮を上げて開き、同じ音で閉じた。入ると穴蔵のようにただ暗い。遠くから、あり得ないほど大きな音がしている。聞き慣れない、鼓動をすり潰してくるような音楽だった。

 目が慣れると段ボールの積み重なった細い廊下が浮かび上がってくる。そうして半歩足を進めた時はじめて、真は自分の足下に人間がいることに気がついた。

 女で、二人いて、一人は倒れている。

 倒れている女は酷く短い呼吸を繰り返していた。もう一人は、その背中をさすりながら、何か――歌を歌っている。

「おう。大丈夫か」

 義春が軽く聞くと、倒れていない方の女は小さく微笑んでから、真を見上げた。

「あたらしいボーイさん?」

 何を聞かれたのかよく分からなかったが、義春はそうだと答えた。女は妙な具合に目を細めて真を見た。真はもう一人の女を見た。短く震えている。目の縁が濡れている。けれど、口元は微かに上を向いていた。

 笑っているみたいだ。

「行くぞ、真」

 義春が先を進むので、彼女たちを置いて進んだ。細い廊下には理解しがたいものがいくつも落ちていた。口の開いたトースターや、小さな人型の人形、お菓子のおまけについていそうな、何だかうよく分からない玩具。

 のれんをくぐってその部屋に入ると、急に明るくなった。電気の光ではなく、自然光のようだ。そうだ、今は真昼だから。

「え? まじで!」

 前から声が飛んできて、真はそちらを見た。明るい金色の髪をしたスーツ姿の男が、口に煙草を挟んだまま真を眺めている。わー、と男は声を上げた。

「すげえイケメンじゃん!」

 犬のような懐っこい喋り方だ。義春が当たり前だろ、と言って、綿の飛び出ているソファーにどかりと座った。それから、金髪の男を顎で指し示した。

「こいつ店長。岩滝な」

「こんにちわー」

 岩滝は片手を上げた。真は頭を下げた。

「はじめまして。最上真です」

 顔を上げると、岩滝は、おお、と少し驚いたような顔をした。

「挨拶ちゃんとしてる」

「当たりめぇだろ。お前もちゃんとしろよ」

 義春が茶々を入れると、岩滝はうるせえ、と言って立ち上がった。

「ええと、店長やってる岩滝大志です。いきなり変なこと頼んでごめんね。正直、すごく困ってたから来てもらって助かった」

 まだ挨拶をしただけなのに、岩滝はもう真を働かせる気でいるらしい。いくら義春の紹介だからと言って、こんなに簡単に従業員を決めてよいものだろうか。

「私で役に立つのかわかりませんが」

 真がそう口にした瞬間、義春が後ろから大声で割り込んできた。

「俺!」

 一瞬、何を言ったのか分からなかった。義春を見ると、ひどく真剣な顔付きをしている。

「俺だ、俺」

 いつも以上に脈絡がない。

「なにが俺?」

「お前が俺だ」

 余計に分からない。義春は立ち上がって、いいか、とゆっくり告げた。

「お前は今から、ここで愛と夢を売るボーイになるんだ。だから一人称は俺。分かったか」

 全然分からない。返答を聞かないうちに義春は続けた。

「リピートアフターミー! 俺!」

「お、おれ」

 思わず繰り返すと、気をよくしたのか、義春は一層大きな声で唱えた。

「俺は最上真です!」

「おれ、は、最上真です」

「もっとはっきり! ほれ」

「おれは最上真です」

「よし」

 満足そうな義春を横目に、岩滝が、言ってなかったのかよ、と呆れた声を出した。理解は追いつかなかったが、真はもう一度その言葉を口の中で繰り返した。

「おれ」

 どうも舌に引っかかる。

「おれ」

 音はすぐに消えるのに、いつまでも舌の上に言葉がいる気がした。

「俺」

 それはまるで精巣と同じ存在の仕方をしている。

 もうどこにもないのに、違和感ばかりが募っていく。そんな言葉だ。

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