後幕

第31話 甘い鯨幕の日

 かつて自分には精巣が存在したのだ、と知ったとき、すでに真の体にそれはなかった。あれは精巣切除の手術だったのか、とぼんやり思い返してみたが、他に思うことがなかった。

 何も思わない。何も感じない。

 水たまりの縁にカマキリが頭を突っ込んで死んでいる。昨日の台風で死んだのだろうか。腹が潰れていて、蟻が群がっていた。泥水が青く見えそうなほど、今日はとても晴れている。

 私にはかつて精巣が存在していた。

 何度唱えてみても、何時思ってみても、真は何も思わなかった。

 ただ、少しだけ思い出すのだ。

 理由を聞かされない手術をしたすぐあとにあった葬式のこと。あれは13歳の秋で、ぬるい風の日だった。その日のことを、いつも思い出す。

 何も思わず、ただ思い出している。


 ✾


 最上の本家の生け垣は、どんな日でも美しく切り揃えられていた。大叔母はこの生け垣を作る植物の名前も真に教えたはずだ。この古い古い日本家屋の奥の間で、今まさに棺桶に入っているだろう大叔母。生家であるはずの広大な家の中で、身寄りのない老婆として過ごしていた大叔母。狂い、という時代錯誤な言葉で語られ続けていた大叔母。

 他の誰も話を聞かないので、度々行われる親類の集まりの中、大叔母は真にばかり話し掛けてきた。しかし、彼女は一言一句違わずいつも同じ話をするのだ。小さな一歩で庭を歩き回り、ただ植物の名を唱え続ける。

 これはナンテン、これはハナショウブ、これはカエデ、これはシャクヤク。

 言葉だけは覚えているが、真が今覚えている植物は一つもなかった。音だけが流れて、映像が追ってこない。

 これはシノブ、これはヒイラギ、これはフウセンカズラ。

 鯨幕からはなぜか甘い匂いがしていた。

「真、早くしなさい」

 母と姉は、どんなに近くにいても遠くのものを見るような目で真を見る。年の離れた弟は、最近その目をするのが上手くなったようだ。

「うん」

 大叔母はやはり既に棺桶の中にすっかり収められていて、家の中には見慣れた人間と見慣れぬ人間が非日常を生きていた。ヒサ、という大叔母の名前は漢字で「久」と書くのだということを、真はその時初めて知った。

 大叔母の肌は表面がぴかぴかと光って、突っ張って骨に張り付いていた。頭上には金色の指輪が置いてあった。いつも右の薬指につけていたものだ。

 何を見ても、何も思わなかった。

 夕方になると空気がだらりと緩み、段取りの間に生まれた余暇で、大人たちはお茶を啜っていた。子供たちは大部屋に集まって、そこかしこで小さな笑い声を立てている。

 いつでも、誰もが少し遠くから真を見ていた。

 その詳しい理由を真は知らなかったが、自分の体についての視線だろうという見当だけは付いていた。自分が、人と全く違う体を持っているということを。

 最上は隠しごとの許されない排他的な家だった。母は奇形を産んでしまったことを悔いるのに飽きて、次第にその事実を嫌悪するようになった。父は黙っていて、姉と弟はどちらかに倣っている。

 大叔母がいつも隠していた下駄はまだ軒下に転がっていて、履くと靴下に水が染みこんできて冷たかった。庭に出た途端、鯨幕の甘い匂いが一際強くなった。

 橙色が土の上にぼろぼろと落ちている。

「キンモクセイ」

 その庭木の名前だけは覚えていた。これは鯨幕の匂いではないのだ。甘ったるい匂いで、そこら中の空気が停滞している。この花の話をするときだけ、大叔母の口調はやけに滑らかだった。饒舌に、長い文章を喋った。そういえば、と真が思った瞬間、玄関口から大声が飛んできた。

「うるせえ! もう二度と来ねえよ、クソが!」

 玄関から外へ人が飛び出ていく。黒いズボンに白いYシャツに金色の髪。そのまま出て行くかと思ったその人物は、突然ぱっと真の方を向き、顔をしかめたようだった。そして、不自然なほどのがに股で近づいてきた。砂利が方々へ飛ぶ。目の前に来てもなお、男は遠くを見るように目を細めていた。

「おめぇ、真か?」

 しゃがれた声だ。

「うん」

「俺のこと覚えてるか」

「お兄」

 と答えたが、名前は思い出せなかった。そう言うと、なんでだよ、と顔をしかめられる。

「義春だよ、よーしーはーる」

「義春兄さん」

「まあ、別に好きに呼びゃいいけど」

「うん」

 まだ真の体のことが発覚していなかったころ、親族の集まりの中で一番よく遊んでもらっていたのが義春だった。真が大叔母の話相手するようになったのは、義春のあとをついて回っていたからなのだ。義春は暇があればいつも大叔母と一緒にいた。けれど、いつの間にか集まりに顔を出さなくなっていた。

「おめぇ、なんでそんな恰好してんだ?」

 義春は真の膝のあたりを見た。見られたことで急に、ひだが膝の下にすれて気持ち悪いことを思い出した。

「今年から中学入ったから。制服」

 義春は不服そうな顔をした。

「お前、男になりたいんじゃねえのかよ」

 そんなことは一度も言っていないし、思ったこともない。最上の人間は話に臨機応変に突飛な尾ひれを付けるので、義春も誤った情報を耳にしたのだろう。真はそれには答えなかった。

 風が吹いて、また無数の橙が土に降り落ちた。

「お兄、この木の名前覚えてる?」

 義春は睨むようにその木を眺めた。

「覚えてねぇ」

 あれだけ話を聞いていたのに、義春も植物の名前を覚えていないらしい。けれど、やはり覚えていることは一緒のようだ。

「でもあれだろ? 全部オスの木」

 真は大叔母の滑らかな口上を思い出した。金木犀は雌雄異株で、日本にあるものはほとんどが雄花の咲く株なのだ。どこかにいる雌株の為に花を咲かすが、その相手はどこにもいない。少なくとも、手の届く範囲にはいない。

 まるで私だよ、と大叔母は汚れた袖でいつも目頭を抑えていた。けれど真には、それは幸福なことのように思われた。

「人間も全部オスか全部メスだったらいいのに」

 真が言うと、義春は顔をしかめた。

「なんで」

「みんな一緒なら、面倒くさくないから」

 風が吹くたびぼろぼろと橙色が零れたが、いつまでもその花はなくならないように見えた。

「女の恰好は煩わしいし、男の恰好もしたくない。私は何にもなりたくない。遠い所に一人でいたい」

 義春は真の言葉を見ていた。それは大叔母の顔を見ていたときと、同じ顔のような気がした。家の中では、何事かを始めようという気配がしている。義春は家全体を眺めたようだった。

「お前、この家好きか?」

 真はすぐに首を振った。

「好きだと思ったことはない」

「だよな」

 と言って、義春は金木犀の木を蹴っ飛ばした。大叔母が短く悲鳴を上げたような気がした。子供のころも義春は同じことをしたのだ。あの時、悲鳴をあげたあと、大叔母はしばらく笑い続けていた。お花が雨のようだね、といつもの決まり切った台詞以外の言葉を吐いていた。

 義春は、凶悪な顔をぎこちなく歪ませて笑った。

「真。お前俺の舎弟になれ」

「しゃてい、ってなに?」

「子分だよ子分」

「子分になってどうするの」

「俺がこっから出してやる」

 義春は遠くを見ていた。

「俺、金出して店作っから。そしたらお前そこで働いて、自分の金で一人で暮らせ」

 真にはまだ、その話の規模の大きさが分からなかった。けれど、茫漠としていた未来が始めて確固たる形を持ったような気がした。

 頷くと。義春も満足そうに頷いた。

「お前、絶対忘れんなよ。それまでちゃんと適当にやっとけ」

「うん」

「じゃあ、俺行くから。大きいばぁちゃんによろしく」

 大叔母のことを大きいばぁちゃんというのは義春だけだ。

「うん」

 それが13歳の秋の話で、そのあとすぐ義春とは音信不通になった。

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