第29話 平沢悠(ミク)
インターホンを初めから三回も押すのは人間としてどうかと思う。放っておくともっと連打されそうだったので、ミクは仕方なくドアを開けた。すぐにナナの弾むような大きな声が飛び込んでくる。
「うわ! ミク泣いてる!」
「うるさいですよ、ナナさん。集合住宅って概念知ってます?」
ごめんね、とその後ろからアキが顔を出した。白いビニール袋を掲げて持っている。3つ入りのラムネゼリーのパッケージが透けて見えて、ミクの目からまた涙がこぼれた。
「あはは! また泣いた!」
「ナナうるさい」
好きなものを知られているということだけで、なぜこんなに苦しい気持ちになるのか分からない。長い間泣いていなかったせいで、豚みたいな泣き方になって恥ずかしかった。でも止まらなかった。
家に向かい入れるとすぐ、なぜかナナは台所でお好み焼きを作りだした。ガタガタと不穏な音がしてきて、何かを言おうと思ったが、泣いたあとのぼうっとした頭からは何も言葉が出てこなかった。
アキが笑う。
「鼻、垂れてるよ」
ティッシュを押しつけられて、その匂いになぜか懐かしさを感じた。うー、と勝手に声が出て、アキはまた笑った。
「本当に末っ子だなぁ」
実際にミクは末っ子だが、学校やら他のバイト先やらの有象無象には、末っ子などと言われたことはない。それを言うのはこの店の人間たちだけだ。とりあえず鼻をかんだ。
「お店、どうなりました?」
酷い鼻声だ。アキが答えようとしたのに、台所からナナが声を飛ばしてくる。
「潰れた!」
潰れてはないでしょ、とアキが受けた。
「でも、しばらくは開けるわけにはいかないって。岩滝さんとヨシさんが系列店なら紹介するって言ってた。私たちは断ったけど」
「そうですか」
ひょっとしたらもう開いているのではないかと思っていたが、さすがにこの状況では無理なのだろう。テレビを付ければ未だに長いこと特集を組んでいる。
風俗嬢がボーイを惨殺し逃走、というキャッチーなニュースは民衆の心を強く掴んだようだ。この事件は社会のあらゆる問題が表面化したものだ、と若手の社会学者だからなんだかが我が物顔で答えていた。もはや電子の波の上では、ひとつの物語として消費されつつある。
「免疫力のせいだ」
ミクはそう言って、ティッシュをテーブルに置いた。
「私の免疫力が下がってなければついていけた」
例の旅行にはミクも参加する予定だったのだ。その5日前に謎の発熱に襲われ、いつまでも下がらずに断念せざるを得なかった。そのまま10日以上臥せっていて、気が付いたらリンカと連絡が取れなくなっていた。
「行きたかったぁ」
声が鼻に掛かって気持ちが悪い。あはは、と台所からナナの声がする。
「そんなに泣かなくても大丈夫だってー。一生会えないわけじゃないんだしさ」
「考えが」
と、声を出したら鼻が出た。アキがまたティッシュを押しつけてくる。ミクは続けた。
「甘いんですよナナさんは。だってもう、連絡の取りようないんですよ? 名前も知らないんだし」
リンカの名前だけ公表されていないのだ。それもまた、民衆の話のネタとして消費されている。
「ミクもリンカの名前知らないんだ?」
「知らないですよ」
互いに本名を知らない、という関係が気に言っていたのだ。一対一のあの感じを分かち合えたのはリンカしかいなかった。こんなことになるのならば、名前も連絡先も出身地も、全部聞いておけばよかった。
けれど、聞いていたとしたって、どうやって会いにいけばいいのだろう。元同僚ですとでも言うのだろうか。それはつまり、風俗嬢ですと言っているようなものだ。
それにリンカはもう会いたくもないのかもしれない。
「大丈夫大丈夫」
「なにが大丈夫なんですか」
「だから、連絡先なんてどうにでもなるでしょって。よくわかんないけど、逮捕されたら刑務所入るんでしょ? あ、リンカは少年院になるの? わかんないけど、でも刑務所行けばきっと大丈夫だって」
「追い犯罪するってことですか?」
「おいはんざい?」
なにそれ、新しいご飯? とナナは言った。アキはため息を吐いてミクに向けて言った。
「そんな追っかけリーチ感覚で犯罪しないでしょ。面会ってこと」
「めんかい」
思いつきもしなかった。そーそー、とナナが言う。
「今日はその相談。つうか、定期会談? どうなるかわかんないけど、このままじゃミクも嫌っしょ? だから、定期的に鍋パして、情報交換して、どっかで会えるようにしようよーってこと」
「鍋?」
どうみでも粉物を作っている。
「鍋はまだ早いからね」
そう言って、ナナはお好み焼きをひっくり返した。飽きっぽく忘れっぽい彼女のことだから、定期会談なんていつまで続くか分からない。ミクが黙っていると、アキがティッシュのゴミを片付けながら、ミクに語りかけた。
「なんかさ、すごい疎外感じゃない? ユリアさんたちと離れちゃったってこともそうだけど、誰にも話せないじゃん。あそこでバイトしてたんだーって気軽に出来る話じゃないし。話せる人がいたとしても、絶対にちゃんと伝わらないし」
あそこにいた人じゃないと、とアキは溢した。
そうなのだ。テレビからもネットからも、違和感のある情報しか入ってこない。確かに、ミクは店にいた時の彼女たちの姿しか知らない。それは生活の一部にしかすぎない。けれどミクはあの店にいたときの自分が、一番自分らしかった。
偽物の名前と、その場限りの関係だったからこそ、本当だった。
彼女たちもきっとそうだ、と思っても、それを口にすることが出来ない。あの人たちはそんな人間じゃないと、声を上げる場所がない。息が詰まって、ミクはここ数日ゲームしかしていない。食べるのも寝るのも、何かを考えるのも億劫だった。
ナナが間抜けな顔をして、皿からはみ出ているお好み焼きを持ってきた。
「会合の名前何にする? チーム置いてけぼり?」
「いや、ダサすぎるでしょ。あんた本当にすぐ名前考えたがるよね。グループ名とか」
「本当にダサいですね」
ミクも思わずそう呟いた。
けれど、よく体を表した名前かもしれない。
置いてけぼり。
「離脱したら合流してボス倒すのがセオリーですもんね」
ミクの言葉に、アキがまたゲームの話? と呆れた声で呟いた。
いや、とミクは顔を上げた。
「人生の話です」
この先の長い人生の中、ゲーム以外にもひとつくらい、明確な目標をもってみてもいいのかもしれない。たとえば、またリンカと夜景を見に行くとか、そんなような。
なんでもなくて、達成の難しそうな目標を。
「じゃあとりあえず、チーム結成で乾杯ね」
そう言って、ナナはゼリーを一つずつ配った。
「なんでゼリーで乾杯?」
「色付いててハッピーじゃん?」
「意味わかんないす」
でも、確かになんだか気持ちが晴れてきた。もしお菓子の差し入れが可能なら、これをリンカに持って行こう。きっと、リンカはマカロンが良かったと言って笑うだろう。
笑ってほしいと、ミクは思った。
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