第27話 2時間38分 煙は消えていく

 綾乃とリンカが休憩を称して事務所のソファーで目を瞑ってから、それほど時間が経たないうちに店のインターホンが鳴った。リンカは出迎える気にならなかった。綾乃も同じらしい。

 扉の開く奇態な音のあと、大荷物を持った真と、ユリアが事務所に入って来る。

「どういう状況ー?」

 甘い声に顔を上げると、ユリアの白いロリータ服が目に入って、リンカは少し体力が回復したような気になった。真が苦笑しながら荷物を置く。

「洋服、何か取ってきますね」

 そういえば下着姿だったのだ、と思い出した。衣装室のものではなく車に置いてある替えの着替えで良いと思ったのだが、もう真の姿はない。しかし、こうなってしまえば、風俗コスプレ丸出しの一団で行動した方が見目がよいかもしれない。

 誰に対する見目なのかは分からないが。

 真はチャイナ風ワンピースと、ミニスカポリスの衣装を持って帰ってきた。

「すみません。ましなの、これしかなかったです」

 綾乃が気怠く声を上げた。

「真くん、ましっていうのは、なにが」

「あ、いや生地が。他はすごくペラペラで、露出度もちょっと」

 確かに。リンカもさっき調べたが、衣装室には外出に耐えられる服はそう多くなかった。だいたい胸元が開きすぎている。旅行用の着替えのことを忘れているのか、綾乃はしばらく文句を垂れていたが、面白かったのでリンカは口にしなかった。

 結局サイズの関係で、綾乃がミニスカポリスを、リンカがチャイナ風ワンピースを着ることになった。綾乃はしばらく顔を顰めていたが、肩から垂れ下がった飾り紐をぐいぐいと引っ張って言った。

「これ取ればいけるか」

「いやいけないでしょ。ただのコスプレでしょ」

 珍しくツボにはまったらしく、ユリアは先程からずっと笑っている。

「あんたも変わらないから。いいから早く行って」

 綾乃はまた顔をしかめて、ユリアを追い立てた。車の準備をしてくるらしい。このままここで塩原をバラすのは現実的ではないので、移動することになったのだ。

 ユリアがにやにやしながら出て行く。

「ちゃんと手錠持ったー?」

「うるさいなぁ」

 二人がいなくなると、急に事務所の中が静かになった。真はさきほどから洗面所の方を気にしている。ニコはまだ出てきていない。

 リンカは、先ほどの綾乃との会話と、これからのことを考えていた。色んなはったりを言ったが、このまま元の生活に戻って今まで通りの生活など出来ないだろう。最悪、死体を隠す前に見つかって終わりだ。そうなる前に、やはり確認しておくべきだ。

 リンカは真の正面のソファーに座った。

「真さん。塩原の頭を見ましたか」

「頭?」

 真の声はいつものように優しく淡々としている。

「はい。頭の傷、というか瘤ですかね」

「ちゃんとは見てないけど。どうして?」

 白を切っているのか、本当に意図が分からないのか、表情だけでは判断出来ない。

「ニコさんはどんな風に塩原を殴ったんですか」

「どんな風にって」

 どういう意味? と真は柔らかく目尻を下げた。リンカは笑った。

「いや、確認っすよ確認。色々上手くいかなかったときのことも考えておきたくて――ほら、少しでも刑を軽く? みたいな奴っす。今のうちに状況を整理しておかないと、だから、どんな風だったか教えてもらいたくて」

「うーん。説明が難しいな」

「そうですね。じゃあたとえば、ニコさんは最初から塩原の頭を狙ってバッドを振ったんですか?」

 どうかな、と真は軽く首をかしげた。

「俺、あの時は上に塩原さんが乗っかってたから、正直よく見えなかったんだよね。気が付いたら色々なことが起きてたから」

 と、いつもの困り顔をしてみせてから言った。

「ごめんね。煙草吸ってもいい?」

「いいっすよ」

 真はしばらく煙草を探していたが、見つからなかったらしい。脱いだスーツの中に忘れたのかもしれない。それで、テーブルの上に放ってあった義春の煙草に手を伸ばした。リンカは冷蔵庫の上のライターを取って渡した。

 バットが立てかけて置いてある。

「ありがとう」

 真は煙草に火を付けて、ゆっくり吸い込み、ゆっくり吐き出した。煙は天井に向かって広がり、天辺につくまでにほとんど消える。跡形もなく。

「やっぱり真さんが殴ったんですね」

 リンカの声のあとに、壁の向こうでまたシャワーの流れる音が始まった。壁が薄いので隣の浴室の音はそっくりこちらまで聞こえる。真は煙を吐きながら、そっとリンカに笑いかけた。

「やっぱりって?」

 真は相手の言葉をよく繰り返す。意識してやっているのか、後天的に身につけた技術なのか分からないが、それで相手の出方を伺い、どんな言葉を欲しているのかを察知するのだ。そして、相手の求めている言葉を返す。

 まず、真自身の言葉を引き出さなければならない。

「塩原の頭の傷は右側頭部にありました」

「右側頭部」

 と、やはり真は繰り返した。

「はい。ところでニコさんは左利きですよね」

「そうだね」

「咄嗟に振り回したにせよ、狙って振ったにせよ、左利きならば、左側から右側へ抜けるようにバットを振るのが普通です」

 相槌はなかった。

「それを踏まえた上で、真さんに覆い被さっていた塩原を、後ろから来たニコさんが殴ったのだとしたら、左側頭部に傷がなければおかしいと思うのですが」

 真は煙草を深く吸い込み、煙を吐いて、少しの間黙っていた。しばらしくて、ごめん、と声が漏れる。

「間違えてた。俺もちょっと混乱してて――最初の一発は背中に当たったんだ。あまり威力がなくて、塩原さんは立ち上がってニコさんに詰め寄って行った。だから、ニコさんは正面から塩原さんにバットを振ったんだよ」

「なるほど」

 確かに正面からなら、左利きのニコが塩原の右側頭部を打ち付けることは可能だ。真は優しく謝った。

「ごめんね、混乱させて」

「いえ、違います」

 リンカの声に、真は体の動きを止めた。大きな獣が何かを警戒しているときのように。

「今私が納得したのは、塩原の傷がにあった理由についてです」

「――後頭部?」

 真は小さな声で繰り返した。

 いつの間にか、シャワーの音は聞こえなくなっている。

「お分かりかと思いますが、正面から後頭部は打てません。というと、どういうことになるんでしょうか」

 真は答えなかった。リンカは続けた。

「少しずれていたのかもしれないですね。ニコさんは塩原の正面ではなく、真横に近い位置からバットを振った」と、リンカは自分でバットを振ってみせた。「それなら、右後頭部を打ち付けることは可能です。どうですか? この案、採用します?」

 少し黙ってから、真は眉を下げて笑った。

「うん。してみようかな」

「では採用しましょう。ニコさんは塩原の真横に近い場所に立って、後頭部へ向けてバットを振った。当然、塩原は前方に倒れることになります。後ろから殴られて後ろへ倒れるのはちょっと不自然ですからね。となると、ボックスの入口側に頭、内側に足がくるように倒れるはずです。けれど、私が入った時、塩原は入口側に足を出して倒れていました。なぜでしょうか?」

 少しの間真は黙って、すぐに顔を上げた。

「移動したんじゃないかな」

「移動した?」

「ええ、そうだろうと思います。私はユリアさんより後に店に入りましたが、せいぜい二三分後です。綾乃さんならともかく、一般女性であるユリアさんが動かすには、時間が足りない。だから、塩原が自ら動いたのでなければ、動かしたのは元々店の中にいた真さんかニコさんか、どちらかということになります。どちらですか」

 真は灰皿の上に煙草の灰を落としながら、何かを思い出すような口調で答えた。

「俺が動かした」

 そして、ぱっとリンカの顔を見上げた。

「俺も変だと思ったんだよ。ニコさんが殴ったんだとしたら、塩原さんはあの位置には倒れない。あの位置に倒れたのは、後ろを向いた塩原さんを殴ったからだ。でも、そっか。横から殴るってこともありえたのか」

 動かさなければ良かった、と呟いて、真はやや砕けた表情をみせた。

「ちなみに、俺に覆い被さった塩原さんを、ニコさんが上から殴ったっていう案はどうかな。採用できる?」

「私も最初はそう思ったんですが、それだとバットのへこみがちょっとまずいかもしれないですね。真ん中より少し下の辺りがへこんでいるので――ボックスは狭いですから、それだとどうやっても壁にあたります。衝立が完全に外れていれば、斜め後ろから殴ったということで、収まりがいいような気がしますけど」

 あのボックスだけ、営業時間と同じように衝立がボックスの入口を半分塞いでいた。

 壁の向こうで、浴室のドアが開くような音がした。真はちらりとその方向を見て、少しの間沈黙していた。

 灰皿に煙草が押しつけられる。この店の灰皿は、いつ見ても吸い殻が敷き詰められていた。片付けても片付けても、追いつかないくらい頻繁に、この店の人間は自分の肺を汚ごすことに勤しむ。

「すごいね、リンカさん。探偵みたいだ」

 真の口調はいつもと全く変わらない、穏やかで平坦なものだった。

「なにも、すごくないですよ」

 だってリンカは何も分かっていないのだ。真が何を考えているのか。なぜそんなことをしたのか、想像がつかない。

 真は塩原を殴り、昏倒させた。しかし、ニコの「私がやった」という主張を訂正しなかった。それだけではなく、倒れた塩原の位置を変え、まるでニコに罪をかぶせるようなことをしている。

 リンカの知っている真は、そんなことはしないはずだ。

「俺にも新しい名前があればよかったのかな」

 その時、背後から床の軋む音がした。

 振り返ると、事務所の入口にニコが立っている。髪から水をしたたらせて、水色のワンピースの裾を握っていた。そうして、その手を離すと、音のするような笑顔を向けた。

「塩原さんも綺麗に洗っておいたよ!」

 その笑い方に、リンカは急激な不安を覚えた。

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