第26話 2時間11分後 浴室の中、灰が血に沈む

 やはり塩原の頭の傷は右側についていた。

 綾乃が気付くとは思えないが、念のためにストッキングで顔を隠した。塩原の顔は人格のにじみ出た、妙な嫌らしさがあったが、こうなってしまってからは不思議と気にならない。

 死んで肉体から人格も消えたのかもしれない。

「なにしてんのあんた」

 振り返ると、綾乃が目を丸めている。とても素直な反応だ。自分が物を考え過ぎるからか、リンカは綾乃といると気が休まった。思考より行動を取る彼女の生き方はとても羨ましく、単純に見ていて美しい。

 まずは塩原を、持ち運びできるサイズに解体しようということになった。綾乃がそれ請け負うと手を上げたので、リンカも便乗した。

 綾乃はなかなかリンカがナイフを持つことを許さなかったが、何度かリンカが抗議するとすぐに諦めた。人の気持ちを無理強いして変えようとしないところは、彼女の美点だ。

 綾乃の思いきりのよさのお陰で、塩原の体からかなりの血を抜くことが出来た。しかし、このままここで解体するのは時間的にも体力的にも、無理があるようだ。

「実際、臓器見るのって、さすがにキモいですよね」

「そんなこと言ったって仕方ないでしょ。やるしか」

「いや、ちょっとだけ休みましょう」

 ユリアの言った通り、綾乃は思い切りは良いが手付きが雑過ぎる。これがフナなら今毎跡形もなく四散しているだろう。見切り発車で余計なことをして、これ以上労力を使うのは避けるべきだ。

 それに、恐らく今の綾乃はいつも以上に行動が粗雑になっている。

「一度気持ちを落ち着かせたほうがいいですよ」

「落ち着いてるし」

「まぁまぁ、深呼吸して」

 リンカもまさか綾乃が、真のことを知らないとは思っていなかった。端から見ているとユリアと綾乃は全ての前提を共有して生きているように見えるが、そうでもないらしい。どんな前提を共有しないでも一緒にいられる関係なのかもしれない。

 綾乃は素直に一呼吸をして、持っていたナイフを置いた。

「つうか、買い出し組遅くない?」

「いやぁ、まだそこまで時間経ってないですよ。結構な荷物ですし」

 残った三人はこれから必要になるであろう物を買いに行っている。ロリータに風俗ドレスに象ツナギに、全く服装の統一感のない三人がスコップやら洗剤やらを買っているところを想像すると、かなり面白い。

 もっとも、深夜の量販店はさまざまな人種が集まる人間園なので、さほど目立ちはしないのかもしれない。

「真くんのことだけど」

 気が付くと綾乃は煙草を咥えていた。

「ニコと何があったの?」

「え? ああ」

 綾乃は真とニコの状況のことも知らなかったのだ。ただ、リンカも二人がなぜ急によそよそしくなったのかは分からない。

 そう答えると、綾乃は気怠く煙を吐きながら言った。

「私、真くんはニコが好きなんだと思ってた」

「へ」

 今日で一番気の抜けた声が出たかもしれない。内容そのものより、綾乃と「好き」という言葉があまりにかけ離れていて、異次元に飛ばされたような気持ちになった。綾乃は続けた。

「で、ユリアは真くんを好きなんだと思ってた」

「へ、へー」

「なにその気の抜けた声」

「いや、なんていうか、綾乃さんがそういう話すると、ちょっと身構えちゃいます」

「なんで」

「筋肉にそぐわないので」

「は? なにそれ。どういう意味?」

 綾乃はごく自然に浴槽の上に灰を落とした。塩原の腹の辺り、血の上にぺたりと灰色の汚れが付く。

 綾乃の言う「好き」という言葉に、どの程度の他意、もしくは本意が含まれているのかリンカには見当もつかなかった。というより、リンカには他人の言う「好き」がどういうものか知らない。異性愛者と同性愛者では、感情の抱き方が違うように思う。けれど、それがどう違うのか、確かめる術はない。

「ユリアのことは本当に好きじゃない」

 前の二つに比べると、その言葉にははっきりとした意思が感じられた。

 恐らく、さきほどリンカがした、ユリアのことが好きなのかという質問への答えだろう。

「別に嫌いじゃないけど。なんていうか、ユリアに対して何かの感情を抱くことが煩わしい。横にいても、横にいるなとかさえ思いたくない。誰と何したとか、どう思ってるとか、本当に心底興味ない。ただ――」

 と綾乃は一瞬言い淀んで、はっきりとした語調で言った。

「私には責任があるから。ユリアが今より多少人間らしくなるなら、協力しなきゃとは思ってる」

「責任? 何のですか?」

「あんなクソみたいな人間性にしてしまったこと」

 どうもそれは、綾乃のユリアに対する率直な感想のようだった。リンカはそうは思わないが、もしユリアがクソみたいな人間性を持ち合わせているとして、どんな理由があったにせよ、他人が責任を取らなければならないということはない。

 しかし、そんなことは言ってもしょうがないだろう。リンカは明るく軽い口調になるように注意して答えた。

「私は、ユリアさんのこと好きですよ。恋愛対象として」

 綾乃は煙草を吸った。そしてすぐ吐いた。

 灰が落ちる。

「はあ?」

「はは。声デカ」

 綾乃の反応は、今日見たものの中で一番大きかった。

「なに? ユリアを? 好き?」

「はい。まぁ、ユリアさんも分かってると思いますけど」

「馬鹿じゃないの! あんなモンスター、あんたみたいな良いとこのお嬢さんが惚れていいような人間じゃないから!」

「なんか文法が妙じゃないっすか?」

「っていうか、まさかあんたそれでこんなことしてるわけ?」

 呆れと驚き混じりの声を出して、綾乃は煙草を塩原に投げつけた。血の混じった水に触れて、火の消える音がする。リンカは手を振った。

「いや、それとは関係ないです。いや、全くないとも言い切れませんが――基本的には、こうするのが一番いいんじゃないかなっていう、冷静な判断です。順当な」

 綾乃は疑うような厳しい顔付きをしたが、すぐに一つため息を吐いて、体の力を抜いた。

「まぁいいか。もうやっちゃったあとだし。今更帰すわけにいかないし」

 綾乃は本当に冷静な判断をする。この状況にあって、変わらずにそういられるということは、驚嘆すべきことだ。

「それより、真くんがどうなのか」

 そう呟いて、綾乃はナイフをもう一度持って、手の中で弄ぶように柄をくるくると転がした。当然のことだが、綾乃はさきほどリンカが言った「死因が分からない」という言葉を、別の意味で捉えているらしかった。

「あんたの言うように、塩原がいつ死んだのかは分からないけど、ニコがバットで殴ったのだって、そのあとユリアが――いや、ユリアかニコか、どっちかが刺したのだって、結局は最初の真くんのことかきっかけでしょ。私たちはそうは思わないけど、真くんは自分のせいだってきっと気にする、っていうかもう、すでに気にしてるでしょ」

 綾乃は改めて、さっきより深く重いため息を吐いた。

「私やあんたと違って、真くんにはこうする意思はなかったのに、責任感じて協力してるわけでしょ。それってなんか、どうなの?」

 綾乃に限らず、この店の女たちは真がこの店に働いていることに、後ろめたさを感じているようだった。本来はこんな所にいるべき人間ではない。こんなことに巻き込まれてはいけない、とそう思っているのだ。

 リンカも、少し前まではそう思っていた。けれど――綾乃には話してみてもいいのかもしれない。

「綾乃さん」

 リンカが口を開いた瞬間、浴室のガラス戸の向こうにぬるりと人影が現われた。すぐに体がぐらりと揺れる。

「わ」

 何かと思うと綾乃が自分の背中にリンカを隠したらしい。なんて反射神経だろう、と妙な所に感心する。かたん、と微かな物音がした。

 インターホンの音はしなかったし、扉が開く時のあの音もしなかった。シャワーの音で気付かなかったのだろうか。けれど、買い出し組ならば声を掛けるはずだ。誰が来たのだろう。義春が岩滝か、まさかオーナーということはないだろうが、可能性は捨てきれない。

 どうすれば、と考えるよりも前に、浴室の扉が開いた。綾乃がナイフを持つ手に力を入れたのが見える。

「だ、だめですよ」

 急いでリンカは綾乃の腕を掴んだ。誰か来たにせよ、ここでまた殺すのは完全に悪手だ。しかし、綾乃の腕からはすぐに力が抜けた。そして、気の抜けた声が続く。

「ニコ」

 背中から向こうを覗き込むと、確かにそこにいるのはニコだった。

 水色のワンピースの裾がめくれている。

「あんた、買い出し行ったんじゃ」

 ニコはいつもの弛緩した笑みを溢した。

「ちょっと具合悪くて――横になってたの」

 首元から汗がしたたっている。あのね、とニコは起きたての子供のような声を出した。

「シャワーを浴びたくて」

 シャワーという単語にリンカは床に転がっているシャワーヘッドを見た。綾乃は同じように、塩原の方を見て、ぽかんと呟いた。

「ここで浴びるの?」

「うん」

「キモくないの」

「べたべたしてて気持ちわるい」

 へへへ、とニコは笑った。見ると、彼女の腕にはまだ血の跡が残っている。様子は――多少はおかしいが、いつも通りと言えばいつも通りだ。まぁ、と綾乃は声を漏らした。

「ニコがいいならいいけど。もう死んでるし。っていうかやっぱ疲れたわ」

 そう言って、綾乃はさっさと外に出て行ってしまった。なにかやけくその感じがある。煙草を吸って疲労を思い出したのだろうか。

 ニコは塩原を眺めている。

「だ、大丈夫っすか」

 聞くと、ニコは笑った。

「リンカちゃんも一緒にはいる?」

「いや、さすがにキモいんで、事務所で待ってます。あ、バスタオル出しておきますね」

「ありがとう!」

 さっそくニコが脱ぎだしたので、リンカは退散した。バスタオルを持って帰ってくると、既に浴室からは水音が聞こえていた。

 大丈夫だろうか、とまた思い直したが、一体なにが大丈夫じゃない可能性があるのか分からない。だって塩原はもうすっかり死んでいるのだ。

 これ以上悪くなることはない。

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