第25話 1時間12分後 戦線を布告する(白旗を上げる)

 塩原の入ったポリバケツから手を離して、綾乃は、はぁ、とため息を吐いた。

「帰れって言ったのに」

 ぽちょん、と血の音が聞こえた気がする。

「いや」

 と、リンカは張り付いて塞がった喉を剥がすように声を出した。

「あの電話で帰るって、私相当やばい奴じゃないですか。ねえ?」

 振り向くと、ポリバケツを凝視していた真はぱっと顔を上げ、眉を下げた。

「いや、俺は会話聞こえてなかったから、なんとも」

「そっか。そうでしたね。スピーカーにすればよかった」

 いや、と今度は綾乃がこぼした。

「スピーカーで聞くほどのこと言ってないから」

「それは――確かに」

 よく分からない間が出来た。

 鼻先に生理の血を触ってしまった後の皮膚の匂いが立ち上ってくる。消毒の臭いが上に被さっていて、かえって生臭さが際立っているように感じた。リンカは、いつも自分の下半身から流れているものが、本当の血液の匂いと同じだということに驚きを覚えていた。男の血と同じ匂いがするなんて。

 ニコがすっと洗面所の方へ消えて行って、場の空気が動いた。綾乃が目でニコの去った方向を追う。

「服、汚れてるから」

 着替えに行った、という意味だろう。

「ユリアさんは?」

「あれも着替えてる」

「ユリアさんも汚れたんですか?」

 綾乃は黙った。口が滑ったと思っているのかもしれない。ユリアを庇っているつもりなのだろうか。だって、綾乃の服は汚れていない。

「帰りなって」

 もう一度綾乃は真面目くさった声で言った。

「いやいや。ですから、この状況で帰る人いませんて。それ、どこに持って行くつもりなんです?」

 塩原はさすがにもう死んでいるように見えた。しかし、まだ分からない。きっとまだ誰も確認していないだろう。綾乃は考えるのが面倒だったのか、リンカの質問にすんなり答えた。

「とりあえず風呂」

「風呂?」

 一瞬、銭湯が浮かんだが、そんな筈はない。洗面所の奥にある倉庫のことだ。倉庫と呼ばれてはいるが、詰め込まれた段ボールの下にはちゃんと浴槽がある。

 確かに、ことを行うには、これ以上ない恰好の場所だ。

「いいですね。運びましょう」

 その時、視界の端に人影が見えて、リンカは顔を上げた。しかし、目視してもなおそれがユリアだと認識するのに、数秒かかった。

「え」

 白昼夢だろうか。

 ユリアはロリータ服を着ていた。

 これはどういうことだろう。気付かぬうちにリンカの脳がこの状況に傷ついていて、心身を守るために自分に都合のよい幻を見ているのだろうか。欲望が完全に具現化してしまっている。

 ユリアは相変わらずトゲのある声で綾乃に向けて言った。

「合うのがこれしかなかったの」

「別に何も言ってないでしょ」

 どうも現実らしい。

 そういえば、去年のハロウィンに客からオーダーメードの洋服をプレゼントされた、というようなことを言っていた気がする。余りに高価なので捨てるに捨てられないとか、サイズを教えていないのにぴったりだったとか、そんなような話だった。リンカはその現物を見たことがなかった。

 白いワンピースだ。薄桃色の小ぶりな薔薇がレースに透けていて、胸元はリボンの編み上げ。ウエストはしっかり絞ってあって、スカートはふっくら膨れている。袖は短く二の腕が見えている。

 天才だ。

「とてもかわいいです! すごく似合ってます!」

 リンカの口からは思ったより大声が出ていた。ユリアは驚いたのか、ぱっと目を丸くしたが、すぐにいつものようにゆっくりと笑った。

「ありがとー」

 一方で、綾乃は顔をしかめている。

「そんなんで動けんの」

 ユリアは瞬時に顔色を険しくさせた。

「なんで私が動かなきゃいけないの?」

「なんでって」

「杏ちゃんなんの為に筋肉付けてるの? 私の代わりに肉体労働するためじゃないの?」

「絶対に違うけど」

「っていうか杏ちゃんバラすっていうけど、そんな技術あるの? フナの解剖あんなに下手だったのに?」

「フナと人間は違うでしょ」

「フナより簡単な作りの人間なんていないから」

「あ、あの」

 後ろから真の声がして、リンカははっと意識を取り戻した。ロリータ姿でツンケンしているユリアを眺めるのに必死で、状況に即した意識を上手く保てない。

「お二人とも、バラすというのは」

 真がポリバケツの中を眺めるので、自然と視線がそこに集まる。

「これを?」

 これ、という言葉の中に真がどんな感慨を持っているのかは分からなかった。生きているときから塩原は女たちの中では「これ」扱いだったが、真だけはそう扱っていなかったのだ。

 綾乃がポリバケツの蓋を拾って上にかぶせた。

「私がやる。真くんは――リンカ連れて帰ってほしい」

 むちゃくちゃなことを言う。けれど、綾乃の言葉は重たかった。彼女らしくない。こんな声を出すような人間ではないのに。

「どうするつもりなんですか?」

 真が聞いた。

 それは局地的な展望のことではなく、もっと先の、大きな未来についての質問だった。いつもは察しの悪い綾乃も、その質問を理解していた。

「私とユリアでやるだけやる。どうせ捕まるだろうけど、それまでは黙ってて」

 なぜ綾乃はそんなことを言うのだろう。状況から考えて、綾乃が刺してないことだけは明らかだ。ユリアのためなのだろうか。けれど、今までリンカが観測してきた綾乃という人間は、やるだけやって捕まるなどという破滅の道は選ばない。

 いずれにしても、すべてリンカの観測が甘かった為に起こった事態だ。

 どうにかしなければいけない。

「すぐ捕まりますよ」

 リンカの言葉に一番に反応したのはユリアだ。ぱっと顔を上げて、それだけだった。弾薬が刺さるのを待っているような顔をしている。

 けれどリンカは続けた。

「バラして、そのあとどうするんですか? どこかに埋めるんですか? 事務所の片付けはどうするんです? まさか、そのまま出て行くつもりじゃないですよね。やるだけやると言いますが、具体的な案を聞いてからじゃないと、私だって帰る訳にいきません。もしお二人が捕まったとして、何の準備もしなければ私たちにも絶対に話が回ってきます。そうなれば、私はともかくとして――真さんは逃れられません。他人に今日のことを洗いざらい話さなければいけなくなります」

 綾乃の口がぽかっと空いた。やっといつもの精神状態を取り戻したようだ。彼女はそうでなくてはいけない。余計なことを考えず、肉体に寄り添った健康的な思考と反応をしていてもらわないと。

「どうですか。何か案がありますか」

 ユリアに向けて言うと、彼女はリンカの顔を見て、苦しそうな顔をした。そして、ただ名前を呼んだ。

「リンカ」

 心臓が跳ねる。

 彼女の本当の声が冷たく乱暴な響きを持っていることを、リンカはもうずっと前から知っていた。甘い匂いと柔らかい肉体の中にあるユリアの本性は、怒りや憎しみによって満たされている。間延びした声の裏では、矜持を汚された獣が毛を逆立てて、じっと身を潜めているのだ。

 それでもリンカはユリアの外側の声が好きだった。本質を隠すために、風が吹けば必ず揺れるような甘ったるい装飾を身につけている彼女が好きだ。

「お願いだから」

 ユリアは出会ったときからすべてを諦めていた。しかし今、彼女は明確な破滅を予想しながら、戦闘を身を投じようとしている。そして、出来れば誰も巻き込みたくないと思っている。

 そんなのは土台無理な話だ。

 生きていれば誰だって、戦う理由を持っている。

「私ならもっと上手く出来ます」

 リンカの言葉を誰もが見ていた。

「塩原の出身は岩手ですが、勘当されていて親とは連絡は取っていないはずです。住所不定。親しい友人も見る限りいない。いても同じ穴の狢でしょう。いなくなっても誰も気にしないですよ。死体さえ上手く隠してしまえば、私たちは今まで通りの生活を続けられます。むしろ早く済ませて、予定通り遊びに行くべきです」

 義春も岩滝も、塩原がいなくなっても探したりしないだろう。女に限らず、飛ぶ人間などいくらでもいる。

 真がすぐ反応を示した。

「隠すって、どうやって?」

「バラす必要はあるかと思います」

「バラして――その後は?」

「予定通り、このまま別荘に行きましょう。年に数回様子を見に行く位で、今はほとんど使っていない別荘です。小さい山一つがうちの私有地になっているので、埋めるには都合がいい」

 嘘は吐いていないが、山一つ分というのははったりだった。しかし、かなりの面積が私有地であることは間違いない。

 真は顔を歪めた。

「それは駄目だよ。もし見つかったらリンカさんの家に迷惑が掛かる」

 けれど、真はこの案を飲むしかないはずだ。

「真さん」

 顔を眺めて呼びかけたが、真はいつもの微笑む前の無表情を崩さなかった。

「塩原の死因は、今の所不明です」

 真は一瞬だけ洗面所の方を見た。おそらく無意識に。ごく短い間。

「なんの話?」

 綾乃が横から聞いてくる。こういう時、彼女の存在はありがたい。正誤の如何は別として、彼女には話を前に進める力がある。

 リンカは綾乃に向かって、真に言い聞かせるように説明した。

「塩原がいつ死んだのか分からないということです。死体がこのまま見つかれば、塩原がどの時点で死んだのか、誰の罪が一番重いのかというのはすぐ分かると思います」

 綾乃もユリアも黙った。

 真は、おそらく考えている。

「死体の発見が遅れれば遅れるほど、死因は分かり辛くなるはずです」

 にはそのほうがいいはずだ。

 かたん、と洗面所の方から物音がして、一瞬場の空気が固まった。何の音だから分からない。

 真は顔を上げた。

「分かった。リンカさんの言う通りにするよ」

 しばらくして、ニコは水色のドレスを着て帰ってきた。

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