第24話 1時間4分後 誰かが嘘を吐く
耳元から流れてくる綾乃の胡乱な声を聞きながら、リンカはなぜかマスカット味のガムのことを思い出していた。いつだかヴァイオリンの発表会で隣に座っていた男の子がくれたのだ。
あれはマスカット味であって、マスカットの味ではなかった。いちご味といちごの味が違うのと同じように、マスカットとは似ても似つかない、何かの味をしていた。
「帰って」
またあやふやな声。
ユリアの指示でコンビニへ来たのはいいが、着いた途端、なぜか綾乃は店に戻ってしまった。そのせいで、真はもう何回も切り返しを続けている。初見でこんなに馬鹿でかい車を運転させるのは酷だ。
「聞いてる?」
耳元の電子機器から綾乃の訝しげな声が聞こえて、はい、とリンカは声を漏らした。どうも要領を得ない電話だ。
「わかりました。とりあえず一回切りますね」
ちょっと、という声が聞こえたが切った。ちょうど真も美しい駐車について諦めた所らしい。
「綾乃さんから?」
そう聞いて、真は鍵の位置を確認しながら、丁寧にエンジンを切ると、ふう、と一息付いて首をさすった。
「帰れって」
「え?」
「綾乃さん。帰れって言ってました」
音が消えたせいで、リンカの声は車内で妙に目立った。
「帰れっていうのは」
という真の呟きは途中で空間のなかに吸い込まれた。
何か追加の情報を与えたいところだが、綾乃はほとんどそれしか言わなかった。真意の周りを彷徨しているような物言いで、ともかく帰れというようなことだけを繰り返していた。黙っていようかと思ったが、いずれすぐ分かることなのでリンカは口を開いた。
「目を覚ましたのかもしれないです」
真は首をさすっていた手をするりと下にどけ、リンカの顔を眺めた。
「さっき――まだ脈がありましたから」
ユリアと綾乃もそれには気付いていないように見えた。ニコはどうだか分からない。
真は、ああ、と呟いてから、そっと顔を前に向けた。フロントガラスの向こうには、月極駐車場の看板が斜めになって貼り付けられている。
空きあり〼
「わたし、ちょっと見てきましょうか?」
そう言うと、真は一瞬で困ったような顔をした。どういう表情なのか分からずリンカが止まっていると、真の口からいつもの柔らかい声が漏れた。
「俺のことより、リンカさんは?」
「え?」
「帰った方がいいような、気が――するけど」
それは大人の声だった。
ああ、とリンカもまたさっきの真のようにぼんやり呟いた。綾乃が帰れと言ったのは、真のことではなくリンカのことかもしれない。確かに、この状況から一番に遠ざけるべきなのは、未成年であるリンカだ。
口元が歪む。
「いやですよ」
ふて腐れたような声が出て、自分で少し驚いた。
「今日の夜から、明日と明後日、遊ぶ約束じゃないですか」
旅行が楽しみだったのだ。
いつからこんなに彼女たちに心を傾けるようになったのか、もうよく分からない。本当は最初からこうなりたかったのかもしれない。彼女たちと近づきたかった。社会勉強とか、金を稼ぐとか、そんなのは建前で。
彼女たちのようになりたかった。
「真さん」
声を掛けると、真は優しく首を傾け、話を聞く体勢を作った。彼はいつも、相手を刺激しないように、全ての所作を音なく行う。未知の生き物と対峙するように。
「私は、姉のことを神様みたいに思っていたんですよ」
脈絡のない言葉にも、真は少しも動じない。
「顔と頭が良いお姉さんだよね?」
彼はいつでも言葉の意味をちゃんと追う。意見せず、批評せず、ただ聞く。それで女は満たされる。受け入れ先のある言葉たちを思う存分吐くことが出来る。
はい、とリンカは答えた。
「綺麗で頭が良くて、なんでも出来て優しくて――父も母も私も、みんな姉の人生に夢中でした。姉が健やかであればそれで幸せ、姉の成功が私たちの成功」
こういう時には、姉ではなくお姉ちゃんと呼ぶべきなのかもしれない、と頭の端の冷静な自分が言った。
「お姉ちゃん――の将来の夢は弁護士で、それを知ったとき私はまだ小さかったので、弁護士が何であるか分かりませんでした。でも、姉が選ぶのだから、いい仕事に違いないと思いました。正しい、よい仕事です」
ほんの少し間を置いて、真は静かに口を開いた。
「リンカさんも法学部だったっけ?」
「姉の代わりです」
それは生涯口にするはずのない言葉だった。真は黙った。リンカは続けた。
「姉は中学から進学校に進みました。朝は早く出掛けて図書館で勉強をして、夜は遅くまで予備校で勉強――家に帰った姉を、私たちは精一杯労りました。温かい家庭であるということが、私たちが全身全霊で姉の行いを肯定するということが、姉自身の幸福なんだと思っていた」
もっとも、その頃のリンカには自分で思考するという能力がまだなかった。血と、環境に沿って思考の真似をしていただけだ。
そして、姉はすべての思考の対象だった。
「高校二年の冬、姉は突然妊娠しました。いや、突然ってことはないですね。種がなきゃ子供なんか出来ないわけだから、セックスしたんでしょう。相手は予備校の講師で、もちろん堕ろそうってことになったらしいです。でも姉は産んでしまった。随分揉めてましたけど、本人が了承しないことには、腹を蹴って流させるわけにもいきませんから。男は認知だけはしたみたいですけど、私は一度も見たことがないです。姉は、別に好きでもなんでもないからいいと言っていました」
「それは」
とだけ言って、真は言葉を止めた。リンカはとても笑いたい気持ちになった。
色んな女たちのことを思い出したのだ。文句を言いながらひどく不味い店の麦茶を飲み続ける女たち。
「下りたんですよ」
笑いたい気持ちだったのに、リンカの口から出る声には、笑みに似たものは少しも含まれていなかった。
「姉は自分が主役の人生から下りたんです。うちの両親は悪い人間ではありませんが、ごく自然に自分たちの希望を押し付けてくる所があって――姉が駄目だと分かると、それをすべて私にスライドさせました。気持ちが悪かったです。でも、彼らには罪の意識がないんですよ。それが良いことだと思っている。子供に期待している、無理な理想を描いている、生活を押して付けているという意識が!」
自らの声が跳ねて、リンカははっと息を飲んだ。
車の中には、煙草と香水と、油っぽい食べ物の匂いが残っていて、静かで、息を吸うとその音がよく響いた。
「でも姉は、十七年それに耐えたわけですから、私も耐えなくちゃ」
上がり続けることを目指す生活は、ともかく後がない。下りる場所がいくらでもあるということは、崖を背負っているのと同じだ。それでも、姉のためにまだそこに留まっていなければならない。自分が零落すれば、きっと両親の目はまた姉に向くだろう。
リンカは今でも、姉のことを愛している。むしろ、以前より愛するようになった。
零落した姉はより美しく、凄烈に正しい。
だから守らなければ。
「それって」
真は少し考えてから、ごく簡単に言った。
「面倒じゃない?」
大変でも辛いでもなく、面倒という言葉を使うのがいかにも真らしい。
「面倒っすよ。死ぬほど面倒で死にそうだったんで風俗始めたんです」
はぁ、と真は気の抜けた声を出した。
「ちょっとよくわからないな」
本当に分からないのだろう。やはり、真もまた特別なのだ。
男のようにたくましい姿形をして。人間に対して、湿った執着心を持たない。そうやって生きていくことを、今まで許されてきた存在だ。
ここの女たちとは違う。
「真さん。新しい名前は、新しい世界ですよ」
リンカは始めて「リンカ」という名で呼ばれたときのことを思い出した。
たった一人で知らない町に辿り着き、何を行うのかはっきりとした想像もつかない店を訪れ、適当な名前を付けられた時のこと。次の瞬間、なんの由来もないその名の人間として扱われ始めたこと。
「リンカという私の名前には父も母も存在しない。姉もいない。私の意志だけが流れている名前なんです」
この名前を呼ばれる度、家の中にいる自分が少しずつ死んでいくような気がして心地が良かった。放出された精子を口から吐き出す度に心が躍った。
私はとんでもないことをしている。一人で、こんなことをしてしまえる。
もう他に下りる場所のない生活は、こんなにも気持ちが良い。
この生活を守りたかった。これは、必ず終わることだから。いつか年を取って、ここから離れたときに、なかったことにしなくてはいけない記憶だから。
だからこそ、旅行を楽しみにしていたのだ。
「だから明日と明後日、ちゃんと遊んでくれないと困りますよ」
もはや、そんなことは不可能だということは明らかだ。こんなことになってしまって、今を続けていられるはずない。
この生活は終わる。しかもすぐ先の未来で終わる。
「海に行って、一緒にかき氷食べる約束じゃないですか」
真は曖昧に笑うだけだった。彼はいつも、女に慈愛と無関心を向けている。
「とりあえずお店に帰ろうか」
「はい」
外に出ると、妙に生暖かい風が体に触れた。気体から液体に変わる寸前の空気がそこかしこに充満していて、くすぐったい。まるで幸福のただ中にいるような気持ちだった。リンカが店の正面の階段を飛ぶように三段進むと、後ろで真が笑った。リンカはそれが嬉しくてまた笑った。
店の扉は、いつも完全に壊れてしまう前の音立てて、けれど、いつまでも壊れないでいる。まだ電源を切っていないのか、店の中でインターホンが鳴るのが聞こえた。
「あ」
声を上げたのは綾乃だった。
入口のすぐ前で、綾乃はポリバケツの縁を掴んだまま、中腰の妙な姿勢でリンカを見ていた。動きを止めたからか、ポリバケツに被さっていた蓋がずれ、転がって落ちる。塩原の頭が見えた。丸まって。
胸から血を流して死んでいるように見えた。
「えっと」
リンカは意味のない声を出した。背後には真の気配がある。
綾乃は中腰から背筋を伸ばして、誰かの次の言葉を遮るように宣言した。
「私が刺した」
嘘だ。
事務所の入口にニコがぼうっと立っていて、空間全体を眺めている。
しかし、彼女は何も言わなかった。
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