第23話 21分後 母に還る

 ぬるく湿った空気が、すべてを弛緩させている夜だった。

 リンカは旅行に出掛けるのを楽しみにしていた。そんな風に思えるのは初めてだった。リンカにとって、人間とのコミュニケーションは常に自戒と自戒出来なかった後悔と共にある。言葉の選定や、反応の正誤や、自分が抱いた好意、嫌悪、その他すべての感情を脳が勝手に精査し、罰を与えてくるので、長く人間と一緒にいると疲弊する。

 それが、彼女たちといるときは気にならなかった。

 誰もがとても可笑しいから、誰もが間違っているから、誰もがどこか壊れているから――だから気兼ねなく、リンカもそのままの命として生きていけた。

 離れたくなかった。

 けれど、やはりそれは間違っていたのだ。私は、そのままの命で生きてはいけない。どのような自罰も反省も後悔も、誰も救いはしなかったが、それでも、人を殺しはしなかった。

 塩原は死んだ。

 リンカは、それを自分のせいだと思った。



 ユリアはぼうっと立っていて、ニコは血の付いたバットを握っていて、真は衣服が乱れた状態で座っていて、塩原は頭から血を流して倒れていた。 

 なにか、最適な行動をしなければならない。

「ちょっと待っててください」

 こんな時にまで、感情的になれない自分が恥ずかしかった。

 バスタオルを取りに行って、真を一度トイレに移動させ、衣装室で衣装を探した。誰も片付けない衣装室は、色が無秩序に散らばっていて、長くいると頭が痛くなる。

 オプションの下着は、当然のごとくフリルのついた女物しかなく気が引けた。こんなものを彼に履かせるなんて。けれど、これしかない。

「真さん、洋服あったっすよ。DIY男子みたいなやつが!」

 別に意識しているという訳ではなかったが、口からはごく軽い声が出た。一応トイレの中を覗かないように渡すと、中から柔らかい声が返ってくる。

「ありがとう」

 すぐにごそごそと物音がしはじめた。少し離れた方がいいだろうかと考えていると、中からまた声がした。

「ごめんね、リンカさん」

「え?」

「お兄に、色々言ってくれたのに」

 真の声からは感情が読めなかった。少し掠れているが、音程や声の出し方は、いつもと全く変わらない。リンカは、真が何を謝っているのか、すぐには理解できなかった。お兄という言葉からやっと義春をたぐりよせたところで、真が続ける。

「おれも全然理解していなかった」

 俺という言葉が浮いて聞こえる。真の口ぶりからは、義春を庇おうとする気配があった。

「お兄と同じように、俺も何が危ないんだろうって油断してた。リンカさん、ちゃんと注意しててくれたのにね」

「それは――」

 喉が詰まる。急に上手く声が出なくなってしまった。もっと軽い声で話をしたいのに。

「塩原さんが悪いですよ。絶対に、全部あの男が悪いです。真さんが謝ることじゃないっすよ。あいつが悪いんだ。あいつが」

 言いながら、リンカは初めて男に肌を触られた時のことを思い出していた。存在の底から湧き上がるような、嫌悪感と震え。触れられた場所から感覚がなくなって、最後には自分の体が人形のようになった。視界から、誰かがそこに触れているらしいという情報だけが入って来て、感触はない。

「怒られる」

 扉の向こうから、突然子供のような声が聞こえた。今の声は本当に真が吐いたのだろうか。しかし、リンカが声をかけあぐねているうちに、真はいつもの声音を取り戻していた。

「ごめん。俺は平気だから、ニコさんの様子見てきてくれるかな」

「いや――」

 と、途中まで声が出たが、止めた。真は一人になりたいのだ。リンカも男に触られて以来、一人きりになる時間が必ず必要な体になってしまった。以前はそうではなかったのに。

「分かりました。ゆっくり着替えてくださいね」

「ありがとう」

 洗面所から出て、リンカはしばらく廊下を眺めていた。

 ホールから光がうっすら入っているだけで、ほとんど暗闇だ。産まれる前の人間にとって、世界はこんな風なのかもしれない。光は薄汚く、その向こうにいる人間たちの気配は気味が悪い。膨大な何かが存在している気配。それは、先の予想が一つも立たない、安寧から遠く離れていくだけの日々の気配だ。

「黙ってどうにかなるから黙って!」

 光の向こうからユリアの声が聞こえる。どうやら綾乃が戻ってきているようだった。背後の洗面所からは、何の物音もしなかった。

 一つ息を吐いて、リンカはボックスへ戻った。ユリアと綾乃の目が同時に向く。

「とりあえずトイレで着替えてもらってます。洋服、ろくなのなかったですけど」

 ニコはまだバットを握っている。

 リンカが戻ると、ユリアはニコを事務所へ連れて行ってしまった。真の様子を見に行くつもりらしい。綾乃は塩原に掛かっているバスタオルを捲って、顔を見て、すぐに戻した。

 腰元くらいまでの壁でコの字型に区切られているボックスは、営業中は右半分にマットが敷いてあり、開いている場所に衝立を立てるので、多少の個室感が出る。閉店後には掃除のため衝立もマットも壁に立てかけられるのだが、このボックスだけ片付けられていなかった。

 リンカが入って来たとき、真は右側のマットの上に座り、奥の壁に背をつけていた。そして塩原は、衝立から足を少しはみ出し、上を向いて転がっていた。

 リンカは塩原に掛かったバスタオルに手を伸ばした。

 背後に気配を感じる。振り向くと、綾乃がポリバケツを引き摺っている。

「え、それどうするんすか」

 使い済みのおしぼりをいれるためのものだ。綾乃ははっきりと答えた。

「とりあえず入れる」

「とりあえず? 入れる?」

 何を言っているのだ、と思っている間に綾乃はさっさと動き始めた。塩原の上に掛かったバスタオルを雑に引っぺがして、頭の方に回り、半身を起き上がらせ後ろから抱きかかえるように、塩原の体を起き上がらせた。

「ちょっと斜めにして」

 言われるがまま、リンカはポリバケツを掴んで斜めにした。綾乃が体を反らせるように塩原を持ち上げると、ポリバケツの中にするりと足が入った。いくら塩原が小男とはいえ、こんな風に持ち上がるものなのだろうか。

 さすが常日頃、筋トレをしているだけある。

「よし」

 作業完了の綾乃の声に、リンカは一種のすがすがしさを感じだ。何がどうよしなのかは分からないが、塩原はポリバケツに過不足なく収っている。

「ぴったり」

 屈葬みたいだ。

「綾乃ちゃん」

 振り返ると、ユリアと真が立っていた。ユリアの様子にはいつものような甘ったるく間延びしたような雰囲気はなく、鋭さが目立っている。

 真はいつもと変わらない様子だった。スーツ以外のものを着ているのを見たことがないので、少し妙な感じがする。つなぎにTシャツ。

 ユリアが切り捨てるように綾乃に告げた。

「色々考えるから。真くんとリンカ連れて外の空気でも吸ってきて」

 母親のような声だ。酷く疲れているとき、リンカの母もよくこんな声を出した。何もかもが疎ましいという声。それでも誰かを守るために、一時全てを遠ざける時の。

 ポリバケツは事務所に連れて行かれた。綾乃は指示通り、外に出ることにしたらしい。ニコの姿が見えないが、事務所にいるのだろうか。塩原をどうするつもりなのだろう。ユリアに任せてよいのだろうか。

 だってまだ、塩原は生きているのに。

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