第22話 18日前 曇りを擦る
ニコ、という名前はいつもニコニコしているからついたのだと、誰かが言っていた。確かに彼女は擬音をつけたくなるような笑い方をする。
「あ! リンカちゃんだ。おはよう!」
出勤して着替えて、洗面所に入ったらニコと鏡越しに目があった。半裸になって、おしぼりで胸を拭いている最中のようだ。彼女の胸は小ぶりでつるりとしていて、洋服を剥がされた人形を思わせた。
背中が光っている。
「おはようございます。舐められたんすか?」
「そうなの! べろべろさんが来たの!」
声が明るく、滑舌も悪くない。今日は調子がいいのかもしれない。あるいは悪いので、すでに薬を飲んでいるのか。
「後ろ拭きましょうか?」
「ほんとう? やってやってー。届かない!」
ニコの背中の上では、おしぼりに付けた消毒液と、動物の体液の匂いが混ざっていた。背骨がまっすぐに伸びていて、彼女は、背中だけがひとつの傷もなく無垢だ。それは却って彼女の不安定さを強調していた。
他はどこも傷だらけなのだ。
「ねぇ、リンカちゃん」
ニコは突然首を右側に傾けた。どこかの糸が切れたみたいながくんとした傾きだった。
「真くんは大丈夫かなぁ?」
そうこぼして、彼女は新しいおしぼりを取り出し、盛んに鏡を吹き始めた。
「大丈夫っていうのは」
ニコは鏡の曇りを眺めているようで、目は合わない。拭いているうちに彼女の背中からは生き物の匂いが消え、今は消毒の匂いだけがしている。
リンカは酷い居心地の悪さを感じた。ニコは続けた。
「あのね、塩原さんは女の子だって知ってるんだよ」
その言葉は三つの前提を軽く飛び越えていた。一つは真が本当は女であること。二つはそれをリンカが知っているということ。そうして三つ目は、リンカがそれを知っているということを、ニコが知っているということ。
「そうですね」
彼女は道化のように真理に近く、赤子のように知恵から遠い。
今までうっすらと感じていた畏怖が、はっきりとした形になっていくようだった。これほどまでに自分の思考が届かない存在に、リンカは会ったことがない。
「それは、義春さんが言ったんですか?」
塩原というのは最近入ったこの店のボーイで、彼もまた今まで会ったことがないタイプだった。酷い性根の腐り方をしている。リンカは、こんな人間を生み出してしまう社会の環境から、目を逸らしていたかった。確実に存在する、ああいう人間のことは出来れば忘れて生きていたい。
ニコは頷き、呟いた。
「とてもよくないことだよね」
よくない。それはとてもよくないことだ。あんな人間に真のことを話すなど、正気ではない。義春は何も思わなかったのだろうか。思わなかったのだろう。浅はかであることにおいて、彼に適う人間はそういない。
リンカはそっとニコの背中に素手で触れた。湿り気を帯びた彼女の肌は、熱気の籠もっている洗面所の中にいて、ひんやりと冷たかった。
「オーナーに話をしてみます」
リンカのこの店での立場を、ニコがどの程度理解しているのかは分からない。けれど、今やそんなことはどうでも良かった。あんな男たちのことなど。
「言ったところで、どうにもならないかもしれません。だから――私たちで注意して見ていましょう」
「うん」
小さく呟いて、ニコは鏡にほう、と息を吹きかけた。おしぼりの動きに合わせて鏡からきゅるきゅると音が鳴る。けれど、こびりついた曇りは少しも晴れなかった。
「男の人は、女とは違うから」
彼女は時々、こんな風に音程のない言葉を吐くのだ。その声を聞くたび、リンカはせめて彼女だけでも救われて欲しいと思う。どういう情動なのかは分からない。そもそも、彼女は救われたがっているのか?
ひとつの傷もない無垢な肌は、やはりいつまでも冷えきっていて、触っていると指先が薄ら寒くなった。
彼女はどこにいるのだろう。
本当の彼女は。
✾
もはや、誰もが塩原という人間の存在をほとんどないものとして暮らしていた。
それはもちろん、多大な努力によるものであって、家の中のどこかに存在する害虫をなんとか忘れようと娯楽に励み、やっとそれを忘れることが出来た――あるいは、忘れているように振る舞うことが出来た――ということにすぎない。
問題は彼が実際には虫ではなく、出会っても叩き潰してしまうわけにはいかないということだ。彼は人間の言葉を解する。
「ねえ」
という声と共に塩原はいつも話を始める。
その次に続くのは十中八九、下世話な、特に性的な話題であって、一体なにをどう解釈しているのか不明だが、彼はその手の話を女が喜んで聞くと思い込んでいるのだった。
「今のお客さん、すごい激しそうだったね。ねえ」
塩原はそう言って人差し指と中指をくにくにと奇態に動かして、緩い口の端から漏れそうになった唾液をずるりと吸い込んだ。
リンカは無視して、名刺を書き続けていたが、塩原は話し続けた。
「大変だよねえ。あんなに激しくされたら。何回かイっちゃったんじゃない?」
こんな風に、彼は性的な言葉を投げつけること自体に性的な興奮を覚えているのだが、厄介なことに決定的な行動には映さない。従業員の胸や足をいつもねぶるように眺めているが、触れてきたりはしないのだ。
加えて、男の前では人間として振る舞う機能も付いている。塩原は義春や岩滝にはいつもへらへらと媚びへつらっていた。
そのせいで、女たちの声は男たちに届かない。ニコと話をしてからすぐ、リンカは義春と岩滝に話をしに行ったのだ。
「塩原さん、辞めてもらうわけにはいきませんか」
彼らはいつもの通り、ソファーの上でだらだらとして、液体からゆっくり個体になるようにそれぞれ顔を上げた。最近は新店の準備がよほど忙しいらしく、たまに店に来たと思えば何もせずぐったりしている。
「なんだよ急に」
義春は腹を掻きながら気怠い声を出した。
「女の子の評判がすこぶる悪いです。モチベーションに影響が出ますよ」
モチベーション、というのは義春や岩滝がよく使う言葉だ。女たちのモチベーションが全てだから、と。
岩滝は一応店長という身であるからか、義春に比べれば真面目に話を聞いていた。
「なにがそんなに評判悪いの?」
「ですから、何度も言いましたけれど。女の子に対する接し方が」
しかし、それをどうすれば上手く伝えらるのかがリンカには分からなかった。セクハラという言葉は便利だが、今となっては実態を伝える言葉ではなくなっている。一つ一つの言動がどれだけ不愉快か、それによってどれだけの傷を受けているのか。セクハラという言葉は、それらを一つの大きな箱の中に詰めて見えなくさせてしまう。
そもそも、ある種の人間は徹底的にセクハラという概念を理解しない。
「お前らさー、それあいつの顔面が原因なんじゃねえの」
義春はだらりと横になった状態のまま煙草に手を伸ばした。
「そりゃ塩原は気持ち悪ぃよ? 俺だって時々キモくてびっくりするもん。でも仕方ねえじゃん。あいつ整形する金もないんだし。顔にカビ生えてんのに治療もできねえんだよ?」
「は? なに顔にカビって」
岩滝が顔を上げた。
「なんか生えたらしい。ほら、あいつ家ねえから」
「家関係なくね? つうか顔にカビなんか生えんの?」
「生えるんだよ。生えたんだよ。あいつ顔赤いべ?」
「なんだよそれ。マジキモいな。クビにすっか」
岩滝は眉をひそめて少し考えるような素振りをしたが、すぐに手を横に振った。
「あ、いや無理だわ。俺らこれからもっと忙しくなるし。この状況で真くん一人でやらすのはさすがに可哀想」
もともと、真が女であるにも関わらずボーイとして働いているのは、ここで働く人間がいなかったからだ。だから店のティッシュ配りをしていた塩原を仕方なく働かせている。
最初から言っても仕方がないだろうとは思っていたが、あまりにも予想通り過ぎて、ぼうっとしてしまう。
本当はシライケに直談判しようと思っていたが、しばらく出張で不在なのだ。どこに何をしに行っているのか知らないが、シライケは度々どこかへ行ってきては、リンカにお土産を買ってくる。
とりあえず今は、その帰りを待つしかないようだ。
「分かりました。でも、クビが無理なら、ちゃんと時間を作って様子を見に来てください。私たちは慣れてるからまだいいですけど――いや全然、よくはないですけど、真さんは、慣れてないんで」
リンカの言葉に、二人は同時にぽかんと口を開けた。
「真がなに?」
義春は間抜けな声を出した。
「ですから、塩原さんに変なことされないように! どうしても二人になっちゃう時間があるじゃないっすか」
目一杯感情的に訴えたが、短い沈黙のあと、二人は大きく笑い始めた。特に、義春は腹を抱え、ズボンがずり落ちるほど大いに笑った。
「真が塩原に何かされるって? マジでそんなこと心配してんの?」
げらげら、という声は現実に聞こえうる音らしい。男たちはそういう虫に腹でも食われているみたいに、しばらく笑い続けた。
「真があんな奴に負けるわけねえだろ!」
義春の声はいつも大きい。
何もかも、どうでもよくなる声だ。
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