第21話 2ヶ月と1日前 街灯の外にいる

 蟻を見たような気がしたが、気のせいかもしれない。

 このコンビニのベンチは奥まった場所にあって、店内から漏れる光の恩恵にはあずかれないし、心許ない街灯もベンチから外れた場所を灯していて、ずっと仄暗い。

 隣からモンスターの悲鳴が聞こえた。

「蟻っているかな」

 リンカが呟くと、ミクはスマホに目を向けたまま「蟻?」とだけ言った。顔の向きにも、指先の動きにも変化はない。けれど、確かに話を聞いている。

「今、見た気がしたんだけど」

「蟻っていつから出るんだっけ。4月? 5月?」

「わかんない。だから聞いた」

「なるー」

 画面にはまた新しいモンスターが飛び出てきている。いつ見ても、ミクの持つ画面の中では同じことが繰り返されていた。敵の出現。敵の殲滅。あるいは被殲滅。また出現。また殲滅。繰り返し、繰り返している。

 全くの無益だ、と言ったのはリンカではなくミクだ。だから安心なのだ、と。

 リンカはミクとはかなり気が合った。同い年ということもあるが、それ以上に性質が似ている。どんな楽しいことの前でも自我を取り払えないタイプだ。常に後ろにもう一人の人間が見張っていて、何かに没入することが出来ない。

「そういや昼間の話」

 ミクはリンカの持っているいちごポッキーを二本引っこ抜いて言った。

「あれマジ?」

「え? あー。うん。まじまじ」

「マジで?」

「まじで」

 二人でしばらくポッキーを食べた。

 昼間の話というのは、なぜこの店で働きはじめたか、ということだった。定番の話題ではあるが、今までリンカは「金が欲しいから」という答えで統一していた。嘘ではないのだが、実際にはそこに付く形容詞のほうが重要だった。

 自分一人で稼いだ金が欲しかったのだ。

「だってさ、我々みたいな乳飲み子が稼ごうとしたら、体売るしかなくない?」

 乳飲み子って、とミクは軽く笑った。

「まあ、それは分かるよ。気になってるのはそっちじゃない」

「援交の方?」

「いや援交で処女喪失でしょ」

 マジやばいな。と心底楽しそうな声でミクは呟いた。

「頭が良くてなんでそんなことになんの?」

「だって調べたらピンサロでも膣に指いれるって言うから――膜破っとかなきゃじゃん」

「自分で破ればよくね?」

「やだよ。気持ち悪い。っていうか勿体ないじゃん」

「まーそりゃ処女は高く売れるだろうけど。つうか援交おっけーなら援交で稼げば良かったのに」

 ピンサロで働いている人間でも、援交は殊の外ハードルが高いものらしい。大して違わないと思うが、本番行為というものに抵抗があるのかもしれない。リンカには男に触られるという時点で大差ない。

「援交は労働感が少なくてさぁ」

 薄い暗闇のせいか、リンカの呟きはすぐ消えたように感じた。

 処女膜を破ったときは、痛すぎて労働というより苦行の様相を呈していたが、すぐに慣れた。性的接触になんの感慨も持てないリンカにとって、援交というのはよき場面でそれらしい声を上げるだけの単調な作業だった。あまりに簡単すぎて金を稼いだという気持ちになれなかったのだ。

「なら風俗店で働いたほうがいいんじゃないかって、相手の人に言われたんだよね」

「相手って、処女あげたやつ?」

「そうそう。定期で契約って話だったんだけど、君には援交向いてないみたいなこと言われて、割とすぐ別れた。んで別れたあとに、華厳の滝に飛び込んで死んだ青年の辞世の句? みたいなのがメールで送られてきた」

「いや意味わからんすぎる」

 確かに全くもって意味不明ではあった。けれどリンカはなぜか今でもその句を諳じることができる。100年前、エリート街道のど真ん中で死んだその青年に言わせれば、万有の真相はただ一言によって言い尽くせるのだそうだ。

 曰く、

 そうして大いなる悲観は、大いなる楽観と一致する。

「じゃあピンサロのがあってたってことだ」

 いつの間にかミクはまたモンスターに勝利している。

「たぶんね」

 といっても、そう長く続けるつもりはない。金を稼いで何をする、という目標があるわけでもないので、飽きれば終わりだ。彼女たちの言葉を借りれば、ここから上がって、何事もなかったように昼の生活をするのだろう。

 サイコロを振り続け、上がり続けるだけの生活を。

「あ、きた」

 ミクの声に顔を上げると、真が大量の用紙を手にこちらへやって来ていた。

「ごめん。すごくお待たせしました」

 店のプリンターが壊れたので、名刺をコピーしていたのだ。電子機器にあまり明るくない真に、コンビニの店員が手取り足取りいらないことまで教え始めたので、リンカたちは大人しく外に退散していた。このコンビニには、少なくとも真狙いのバイトが二人はいる。

「いいっすよ。おかげでレベルがあがりました」

 ミクが画面を見せつけると、真はすごいね、と素直に褒めた。ミクがふふん鼻を鳴らす。真は微笑みに苦笑をまぜた。

「でも本当に待たせちゃってごめんね。これ、良かったらもらって」

 真が差し出してきた袋には、リンカの好きなマカロン風のお菓子と、ミクの集めている食玩が入っていた。

「真さんさいこー」

 意図せずリンカとミクと声が揃うと、真は綺麗に頬笑んだ。

「双子みたいだね」

 恐らく、真もリンカやミクと同じような性質を持った人間だろう。見ていると後天的に培われた喜怒哀楽の表現で、毎日をやり過ごしているのがよく分かる。

 自分の人生に熱中するには才能がいるのだ。

 今までのリンカの人生には、その才能を持った人間ばかりが周りにいて、息苦しかった。でもここは、そうでない人間のほうが多いような気がする。

 居心地がよい。

 それで急激に淋しくなってしまった。

「じゃあ、帰りましょうか」

 真の言葉に、リンカははっとして声を上げた。

「あ、あの!」

 横にいるミクがびくりと体を震わせる。

「え、なに」

「や、夜景!」

 夜景、とミクが繰り返す。リンカは続けた。

「私、夜景とか見に行ったことなくて。っていうか、夜にどっかに出掛けたことがなくて。今日、送迎二人だけだし、ちょっとだけドライブとか、してみたいなー、みたいな」

 整理されていない言葉が口から出ていって、リンカは自分で関心した。きっと、大抵の人間はこんな風に深く考える前に話しているのだ。この店の女たちは取り分けその能力が高いので、知らぬうちに感化されたのかもしれない。

 真はいつもの平坦な表情をしている。

「リンカさんのおうちって厳しかったんだっけ?」

「そうかもしれないです。家族との外食以外は基本自宅待機だったので」

 一人暮らしを始めた今でも、それは続いている。両親は今でも、GPSの位置情報と毎日の定時連絡により、大きすぎるマンションの一室で娘が勉学に励んでいる夢を見ているのだ。

 自宅待機って、とミクは微かに眉をひそめた。

「それ非常時にやるやつじゃん」

「だから、常時非常時だったんじゃん?」

「治安わる」

 そのやり取りに真は、苦笑めいた笑みを漏らしてから言った。

「二人がいいなら俺は良いよ。あそこの上とか?」と、すぐ後ろに見える頂上が平らな小さな山を指した。「なんか綺麗だってお兄が言ってたような気がするし。そこなら」

「え、ヨシさん夜景とか見に行くの」

 ミクが顔を歪めると、あはは、と真は笑った。

「女の子にでもせがまれたんじゃない?」

「すごい興味出てきたわ。行こう行こう」

 ミクが承諾したので、三人で平らな山に登ることになった。どうせなら夜食も食べようとみんなでカップラーメンを買って行ったが、コンビニでお湯を入れてから出発したので、着いたときには伸び切っていた。

 夜景は別に綺麗ではなかった。

「江ノ島ってどこにあるの?」

 リンカが聞くと、両手で手摺に捕まり体を後ろにのけぞらせていたミクは、体を元に戻した。

「なんで江ノ島?」

「この前しらす食べたから」

「江ノ島で?」

「いや、家で」

 すると真が指をさした。

「あっちの方じゃないかなぁ」

 まばらに汚い人工の光が灯っている向こうには、海があるらしかった。ぼんやり暗いだけで何が何だか分からない。夜景というより、ここから見えるのはただの人間の世界だ。

「あっちか」

 けれどリンカは、美しいものを見たような気持ちになった。それで、生まれてはじめて時間の過ぎる音を聞いたのだ。ずっとここにいられればいいのに。

 そう思ったのは、生まれてはじめてだった。

 望みが叶わなかったのも、生まれてはじめてかもしれない。

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