第20話 3ヶ月と14日前 舌先が痺れる
女たちは常に問題を抱えていて、報告と言ってもその選別が難しかった。
授業員同士の連絡先交換禁止、という決まりは、もはやあってないようなもので、ほとんど全員がこれを破っていた。他にも客と連絡を取り合っていたり、店外で会っていたり、競合店とかけもちで働いている人間もいる。
なぜそんな行動を取るのか、リンカには理解できなかった。誰も得をしない選択をする人間が多すぎる。
加えて、岩滝や義春は、もっと個人的なことも、何か気になることがあれば報告しろとせっつくのだ。
「個人的というのは?」
「だからよお、精神的なケアっていうの? そういうのも俺たちの役目な訳」
義春はいつも声が大きい。
「そーそー。だからなんかで悩んでるーとか? そーゆうのもあったら教えてね」
岩滝はいつも声が軽すぎる。
「はぁ」
しかし、その辺りを報告せよというのならば、答えは「全員ヤバイ」の一言だ。
ここでは精神的な不具合を持っていない人間を探す方が難しいし、過食に拒食にリストカットに、DV彼氏持ちにホスト狂いにその他諸々あらゆる人間がいる。「問題のある女たち」とかいう適当な題名を付けて博物館にでも並べたいくらいだ。
ただ、程度の著しさで言うなら、常に一人が挙げられる。
「ニコさんが――」
しかし、その名を口にした途端、義春は手を振った。
「ああ、ニコはいい。ニコは大丈夫」
何が大丈夫なのだろう。誰がどう見ても一瞬も大丈夫ではない。彼らはニコを働かせすぎだ。オーラスで朝から晩まで指名で埋まるということもざらだ。そのせいかは分からないが、毎日どこかしらにあざを作っている。安定剤が効いている時だけ正気で、それ以外は人格が定着していないようにさえ見える。
彼女を置いて他にケアすべき人間などいないだろう。
「ニコにはユリアがついてるから」
岩滝も義春もその一点張りだった。つまり、ケアというのは口だけで、実際なにかをどうにかしようという気はないのだ。
スパイ特権なのか、単に話をする相手がいないのか、彼らは何かとリンカに店の内情を開陳してくるが、総評として、仕事という名目で女とセックスしてばかりいる。
色管理という概念が水商売の世界にはあるらしく、ボーイが従業員の女と恋愛関係を持ち、店に繋ぎ止めたりするらしい。が、岩滝と義春を見ている限り「管理」という言葉を使うのはおこがましい。
中でも二人が継続して関係があるのがニコとユリアだ。言わば、彼女たちもスパイのようなものなのだ。ユリアは岩滝の、ニコは義春の。つまり、リンカはシライケの。
とても笑いたくなる。
シライケはリンカに女が嫌いだろうと言ったが、それは大いに正解だし、完全に見当違いだ。
リンカは女が好きなのだ。
だから嫌いでいようと努力している。
女と親しくなって自滅するよりは、生理的に受け付けない男の子飼いになっているほうがまだましだ。それに、ここで働いてから、想像していなかった技術も身についた。
体を壊死させ、自我を遠くへ切り離し、客の男を一つの現象として見られるようになった。
「リンカちゃんって言うんだ。何日目?」
「もう一ヶ月たちましたぁ」
「そうなんだ」
髪、綺麗に染まってるね、と男は臭い息を吹きかけながら喋ると、毛先を梳くように触り、そのまま太ももを撫で始めた。男の体はどこもごつごつしていて硬く、曲線がない。オスとメスで体つきを変える必要があるのは分かるが、男という性には一体、美しさが欠けているように思う。
「ここが気持ちいいの?」
明確に答えず、小さく声を上げてみせると、ふんふんと鼻息が荒くなる。
性的な刺激で著しく知能を落とす所も、作りとしてどうなのだろう。人間だけがこうなのだろうか。もし天敵のいる生活であれば、こんな風に性的接触をしている間中バカになっていたらすぐ絶滅するだろう。
這いつくばって自分の下半身を舐めている男を眺めながら、いつもリンカはこの生き物が死ぬときのことを考える。正しくは、どうやって殺そうかと考える。
女たちは、こんな生き物のどこが良いというのだろう。
不衛生極まりない待機室には、いつも甘い匂いが漂っていて、リンカはこの匂いを嗅ぐと、ささくれだって張り詰めていた心身が溶けるような気がした。筋肉が緩んで、温かい気持ちになる。
ここには基本的に女しかいない。世の中のどこを探したって、ここほど祝福された場所はないだろう。同時に、リンカにとっては危険な戦場でもあるのだが。
「あー、おはよぉ」
一際甘い匂いのするユリアが、同じように甘い声を出しながら入って来た。
「おはようございます」
「来て早々長かったねー」
遅番で出勤してすぐ連続で客に着いたので、ユリアの存在は確認していたが、今日顔を合わせるのは初めてだった。
「いえ、ユリアさんも、いろいろ大変だったようで」
またニコが倒れた、というようなことを聞いた。ユリアは出勤早々かかりきりだったようだ。
「平気平気。ニコ、落ち着いてる?」
「はい。今は――いつも通りです」
なるべく声の張りが均等になるように注意して答えたが、出来ているかどうか怪しかった。ユリアはごく自然にリンカの隣に座り、荷物をごそごそと漁りはじめた。距離が近い。
「煙草吸ってもいーい?」
「あ、はい。全く。問題ないです」
ふふ、とユリアは笑みを漏らした。彼女は吐く煙さえ他の人間よりも甘い気がする。お菓子みたいだ。どこもかしこも、ふくふくと音を立てているみたいに柔らかい。ユリアは煙草の灰をくるくると回しながら灰皿に擦りつけて、鉛筆の先のように尖らせる癖がある。やはり、指には肉がついている方がよいと思う。白いパンみたいだ。
「リンカも吸う?」
「え! いや、あの」
急なことに惑っていると、ユリアはそこら中に花びらを溢すみたいに笑った。
「おいしいよぉ」
「苦くないですか?」
「苦くない苦くない。匂い甘いでしょ? 吸ったことないの?」
「な、ないです」
はい、と一本差し出されたので、思わず受け取ってしまった。とても軽い。乾いた葉が入っているだけなのだから当たり前だが、持っているのかいないのか分からないくらいだ。
「火、つけてあげるね」
「あ、はい」
「そっと吸うんだよ。ちょっとずつね」
「ふぁい」
火に照準を合わせるのがまず難しい。言われたとおりに、少しだけ息を吸いながら煙草の先を火に近付けると、急に舌がしびれた。
「うえ!」
苦い。
「あはは。おめでとー。大人の階段上ったね」
寄りかかられて、体が硬直した。苦いし、煙は目に染みるし、動悸がする。でも、匂いだけは甘いような気がした。見よう見真似で何度か吸ったら、頭に手を置かれてよしよしと褒められる。
「あの」
と、声を上げた瞬間、失礼しますという野太い声が聞こえて、暗幕が捲られた。岩滝が中を覗き込んでくる。
「ユリアさん、ちょっと事務所まで来て」
「てんちょー。返事待ってから開けてくださいっていつも言ってるじゃないですか」
「おー。お? なに、リンカ煙草吸ってんの」
「吸ってないです」
灰皿に急いで押しつけたが、すぐには火が消えなかった。なんだそりゃ、と岩滝はへらへら笑った。
「つうか、リンカもちょうどいいから事務所来て。なるはやで」
それだけ言って、岩滝は戻っていった。
「まだ一服してるのに」
そうぼやいて、ユリアは素早く煙草を消した。
「行こっか」
「はい」
嫌いでいなければ、と強く思う。
こういう店に入れば、もう少し女を嫌いになれるかと期待していたが、むしろ逆効果だった。やはり自分は女が好きなのだ、と確信を得ることになった。
待機室から一歩でも外へ出れば、そこは暗く、空気が淀んでいて、音楽がうるさい。あらゆる動物の死体をまぜた匂いを、極限まで薄くして撒いたような気配がしている。事務所へ向かうユリアは、リンカを振り返らなかった。振り返る理由がないのだから当たり前なのに、なぜこうも口惜しい気持ちになるのだろう。
「ユリアさん」
「うん?」
「毛布の毛が」
存在しないそれを払うと、ユリアはふっと笑い、甘く伸びきった声を吐いた。
「ありがとー」
事務所から光が漏れてきて、急激に恥ずかしい気持ちになる。何をしているのだろう。こんな所に来て。こんなことになって。どうしようというのだ。
のれんを潜ると、ぬるりと目の前に影が現われた。馴染みのない大きさの影だ。わ、と驚いてリンカは声を上げた。
「あ、ごめんなさい」
影の上から声が落ちてくる。やや高く掠れた、けれどそれは男の声のように思えた。髪も少年のように切りそろえられ、顔付きも所作も、なにより体つきが男だ。
「この子、今日から新しくボーイで入ったから」
岩滝の声に影だったものが頭を下げる。
「最上真です。よろしくお願いします」
彼は、いや――彼女は、しなやかで大人しい獣のような目をしていた。体のどこも骨張ってはおらず、かといって丸みもない。女のように甘い匂いはしないが、男のように生き物の汗の匂いもしない。
ただ低い体温だけを感じる不思議な生き物だった。
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