第17話 16分後 つま先が上を向く
ユリアは出来れば、いつまでも真を眺めていたかった。ボックスの隅で汚されたままでいるその姿を。
けれど、そうはいかない。何か策を講じなければ――と、思考を前へ進めようをした所で、店の扉が開く音がした。
振り返ると、リンカがすでに店に入ってきている。彼女は、短い間に全てを観察したようだった。
ユリアの前に立っているニコの全身。その手に握られているバットと血痕。ボックスから足を出して倒れている塩原と、その奥でぼうっとしたままでいる真。そのボタンの開かれたズボン。
ごく短い間、リンカはじっと止まっていた。恐らく、その間に真が女であることや、そのために、ここで何が起こったか、そういうことを瞬時に把握した。もっともリンカは聡いので、真が女であるということには、元から気付いていたのかもしれない。
「ちょっと待っててください」
そう言うと彼女は事務所の方へ走って行った。その姿を見て、動かなければ、とユリアも無理に頭と体を動かした。
「真くん」
塩原を跨いで顔を近づけると、真はユリアの顔を見て、小さく「はい」と返事だけ寄越した。人間の練習をしている機械みたいだ。言葉が詰まる。
すぐにリンカがバスタオルを何枚も持って返ってきた。
「とりあえず、これ」
差し出されたバスタオルを、真は不思議な動物を見るような目で眺めた。ユリアは変わりにそれを受け取り、真の体に巻き付け、立ち上がらせた。
「ここはいいから、まず体を綺麗にしよう。リンカ――お願い」
はい、とリンカは頷いて真の体に手を回した。
「真さん、大丈夫ですよ。洋服なら腐るほどありますから。パンツもオプションのがたくさんあります。ほら、アンリさん用のデカパンツもありますし」
たどたどしい足取りで歩きながら、真はデカパンツという言葉を繰り返した。はい、とリンカがそれを受ける。
「デカパンツです。XLでしたっけ?」
「XXL、かな――」
ぼんやりとした真の声に、リンカが明るい声を被せる。
「大き過ぎますかね? 服のイメチェンは私に任せてください。というか、あのトースター、いつまで置いておくんですかね?」
声が遠くなっていく。
もう二度と戻ってこない登場人物みたいに、二人が暗がりへ消えるので、ユリアは酷く心細い気持ちになった。けれど、舞台に残された者は、どんな出自であれ物語を進めなくてはならない。
ニコは笑った直後のような顔でユリアを見ていた。
「殴ったら倒れたんです」
うん、とゆっくりユリアは答えた。ニコは続けた。
「ごん、って音がして」
「うん」
「お尻が出てる」
ニコは塩原を見下ろして言った。ユリアは尻よりも性器が出ているのが気になった。塩原の下半身は全体的に出来物が多く醜いことこの上ない。隠すようにバスタオルを二枚かける。とりあえずはこれで。
とりあえずこれで? どうなったというのだろう。
うまく働かない頭にユリアが苛立っていると、また店の扉が開く音がした。瞬間的に燻っていた苛立ちに火が付いて、大きな声を上げてしまう。
「そこにいて!」
悲痛とはほど遠い、獣のような声が出た。しかし、当然のごとく綾乃はその言葉を聞かなかった。側まで来ると、リンカとは似ても似つかない牛のように重たく鈍い動きで、綾乃は目を動かした。
きっと何も把握していない。
「あんたこれ、塩原?」
「うるさい。ちょっと黙って」
「黙ってどうにかなるなら黙るけど」
「黙ってどうにかなるから黙って!」
ため息という返事が返ってきた。それから、綾乃はなぜかニコの手からバッドを取り上げようとした。しかしニコは離さなかった。
かなり長い間、ユリアは黙っていたように思う。けれど、思考は少しも進まなかった。そこへリンカが戻ってきた。
「とりあえずトイレで着替えてもらってます。洋服、ろくなのなかったですけど」
リンカの顔を見て、少しだけ考えが前に進みそうな気配がした。
「ありがと。ちょっと見てくるから。ニコ、おいで。それ持ったままでいいから」
事務所までニコを連れて行き、一番ましなソファに座らせた。冷蔵庫の上に転がっていた安定剤らしきものを渡すと、ニコはそれを舌の下に差し入れた。この店にはそこら中に薬が落ちている。
「ちょっと真くんの様子見てくるから。待てる?」
ユリアの声に、ニコは大きな声で答えた。
「はい!」
一人にさせるのもどうかと思ったが、リンカも綾乃もすぐそこにいる。それよりも問題なのは真の方だ。埃の被った救急箱を漁ってから、ユリアはトイレへ向かった。
ちょうどトイレから出てきた真は、いつも通りの顔色で、いつも通りの淡々とした様子でユリアを眺めた。そして、自分の胸元を示した。
「すごく――象です」
真の着ているTシャツの前面には、大きな像の顔面がプリントされている。その下に「象」という漢字と「elephant」という英語と、恐らくはタイ語の象という意味の言葉が並んでいる。
「すごく象だね」
下には灰色のツナギを着ていた。店のペンキを塗るとかで、恰好から入りたがる岩滝が一度だけ着たものだ。衣装部屋に埋もれていたのだろう。
「似合ってるよー」
そうですか、と平坦な声で真は答えた。
「小さくて袖が通りませんでした」
そう言って、真は腰の辺りで結ばれているツナギの袖部分をぷらぷらと揺らした。その声の出し方。指の動かし方。全ていつも通りだ。寸分の狂いもない、普段のままの。
こういう時、平然を装うことが第一の自己防衛なのだ。自分は大丈夫なのだと他人に知らせることで、自分の心を守る。じきにそれが習い性になる。そうして、気が付いたときには別の自分がもう一人出来上がっているのだ。その後、偽物と本物が反転する。何が本当か分からなくなる。
「真くん、これ飲んで」
ユリアは救急箱から取ってきたものを真に差し出した。
「なんですか?」
「アフターピル」
その言葉に、真は一瞬ぴたりと動きを止めた。いつだかもう辞めた従業員に泣きつかれて、真が病院まで付き添ってもらってきたものだ。彼女は結局飲まずに子を産んだ。
「こんな高価なもの」
と、真は逡巡した。
「降ろすより遙かに安いよ。ごめんね、麦茶切れてて、コーラしかないんだけど」
真はぎこちなく笑って、一気にそれを飲み干した。
「すみません。ご迷惑おかけして」
その頬には擦れたような傷があった。今の真はまだ、下半身に燃えるような痛みを抱えているはずだ。あのじくじくとした、いつまでも剥がれない鈍い痛み。どうしようもなく不快な、四肢を切り刻んでしまいたくなるような。
急にユリアは息苦しさを感じた。泣いてしまう直前の、ツンとした刺激が目と胸に走ってきて、一度強く目を瞑った。
「動けそう?」
聞くと、やはり真は微笑んだ。
「はい。大丈夫です」
「うん。じゃあ行こう」
後ろをついてくる足跡は、いつもと同じ音をしている。ユリアはもう一度目を強く瞑って、ボックスの方を眺めた。
なぜか、塩原はポリバケツの中に入れられていた。
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