第18話 42分後 生きている

 綾乃がいると集中出来ないので、真とリンカをお供にして外に出した。事務所に戻ると、ニコは大人しく座っていた。

 少し薬が効いてきたのかもしれない。瞳の緊張が解けているように見える。しかし、その目はじっとポリバケツを見つめて離れなかった。塩原を事務所にいれたのは、そこら辺に置いておくのが不安だったからだ。けれど、ニコのことを考えると悪手だったのかもしれない。

「とりあえず一服しよう」

 ニコの前に座ると、消毒液の匂いが鼻を掠めた。大量の白い布の入ったビニール袋が、部屋の隅に無造作に置かれている。塩原を中へ入れるのに、おしぼりを全部出したらしい。しかし、この匂いはもうポリバケツ自体に染みこんでいるようだった。つまり、塩原のいる方向から香っている。

 座るとちょうど、塩原の姿がよく見えた。丸く収って、大きな胎児のようだ。ゆっくり煙を吸って、血液に煙が染みこむのを感じながら、ゆっくり吐いた。静止していたようにも、高速で空回りしていたようにも思えた頭が、少しずつ、目に見える早さで回り始める。

 まだ生きているのかもしれない。

 なぜその可能性を今まで考えなかったのか、不思議でならなかった。倒れている塩原を見て、助けなければとか、息はあるのかとか、そんなことはちっとも考えなかった。

 もっとも、これが生きていたとしても、未来を考えれば、ほとんど死んでいるのと同じかもしれない。岩崎はともかく、義春が放っておかないだろう。

 風俗に限らず、水商売に携わる男には、常軌を逸して激高する人間が少なくない。岩滝はあれでまだ理性のある方だが、義春ははっきり言って普通ではない。加えて、真のことをかなり可愛がっている。今生きていたとしても、いずれ殺されるのかもしれない。

 真は当然この店には残らないだろう。もう以前の真ではない。今は実感がなくても、じきに完全に変わる。なくなったものは返ってこないのだ。真は今回のことで、自分が女であることを認知してしまっただろう。

 なにより、ユリアたちがそのことをはっきり自覚してしまった。今までは、知識として真は女であると思っていただけだ。今では、真は女であるという事実がただ目の前にある。

 じわじわと、血が沸騰していくようだった。こうなれと一方では願っていたくせに、いざ現実になると、こんな風な怒りを抱く自分に嫌気が差す。

 ニコが煙草に火を付ける音がして、ユリアはふと目線を変えた。テーブルの上に見慣れない黒い物がある。それが何であるのか理解するまで、ほんの少し時間が掛かった。

「サバイバルナイフですよ」

 ニコは聞かないうちからそう答え、柔らかく笑った。やはり薬が効いているらしい。落ち着き払った声をしている。

「前にいたじゃないですか、あの危ない感じのボーイさん。お名前が――ちょっと思い出せませんが」

 誰のことを言っているのか、検索にまた少し時間がかかった。

「林くん?」

「ああ、そうです。そうですね。リンさん」

 彼は帝国陸軍マニアだったのだろうか。詳細は知らないが、ともかくミリタリー周辺に強い執着心があって、手榴弾の模型や、やたらに攻撃的な十徳や、そういうものを女にこっそり見せるのが好きだった。

「これ、ヨシさんが面白がってリンさんから取り上げたんですよ」

 革のカバーが掛かっている。持ち上げてみると、かなり重たかった。カバーを外すと、馬鹿みたいに美しく光る。ユリアはすぐにそれをテーブルに戻した。

「本物?」

「本物です。よく切れます。必要があるかと思って」

 滑らかな言葉と相反して、煙草の灰を落とすニコの指先は震えていた。といっても、ほとんどいつでも、ニコの指先は震えている。

 必要、という言葉の意味をユリアは考えようとした。しかしその前にニコが口を開いた。

「ユリアさん。人の頭は少し柔らかいですよ」

 色彩が頭の中を通過する。細い針のように、短く、速く、そして鋭い色が、ニコの口からユリアの頭へと、質量を増して流れ込んでくるようだった。

「最初に振り下ろした時には、ボックスの壁に当たってしまって――そこに跳ねたときには、すごく硬い感触がありました。手が痺れて、でも、塩原さんはまだ腰を振ってたんですよ。音には気づいていたのに、体がまだ勝手に」と短く笑う。「可哀想ですよね。どういう感覚なのでしょう。男の人って、不思議ですよね。振り返る前にもう一度振り下ろしたんですが、頭を狙ったのに左の肩甲骨の辺りに当たって、それでやっと振り返ったんですよ、あの人。だから今度はちゃんと頭に当てたんですけど、すごく柔らかくて、バットがぽんぽん弾むんですよ。動かなくなるまで、何度くらいだったかな」

 そこでニコはぴたりと動きを止めた。

 どこを見ているのか分からない。何も見えていないのかもしれない。口だけが動いている。

「死ねばよかったのに。私が、もっとちゃんと殺してやれば良かった」

 煙が口から出ていって、消える。

 ユリアはポリバケツの中の胎児を眺めた。

「まだ生きてる?」

 見ただけでは分からない。ニコは笑った。

「はい」

 本当だろうか。

 けれど、確かめるために塩原に触りたくはなかった。触って、万が一皮膚の下に血の流れを感じたとして、どうすれば良いのだろう。

 ユリアは灰を落としながら、精一杯淡々とした声を出すように努めた。

「殺さないでいいよ。こんな奴のせいでニコの人生を壊す必要ない。岩滝くんたちに任せれば」

 しかしその瞬間、ユリアは自分の吐いた言葉に甚だしい違和を感じた。 

 報告すれば、男たちは粛々と塩原という存在を処理するだろう。生死はどうだか知らないが、目の前からは塩原という存在はいなくなる。そして、自分たちが今こうしている時間ごと、じきに全てなかったことになるだろう。

 何も心配する必要はない、といつも岩崎は言う。お前たちは、難しいことを考える必要はないのだと。いつも。

 汚れた水に音を立てて、煙草が灰皿に入ってく音がした。

「もう壊れてます」

 顔を上げると、ニコはユリアの瞳を見ていた。

「私、よく思うんですよ。私たちは、壊されるために生まれたんだって。だから意志も思想も人格も、全部無駄なんだって。みんな壊れてしまうのだから、そんなものは持つ必要がないんだって」

「そんな――」

 と、ユリアの口からは喘ぐような声が漏れた。

 しかし、なんと言おうとしたのだろう。そんなことはない? そんなことを言わないで欲しい? けれど、ニコの言っていることは、ほとんど完全に正しいように思われた。

 女というものに生まれた時点で、あらかじめ壊れるということが決まっているのだ。誰に、というわけではなくひとりでに。ただ生きているだけで壊れていく。体が膨らみ、重くなり、血を流すたびに全てなくなる。一からやり直し、積み重ね、積み重なれば全て消される。

 意志も思想も人格も、何も残らない。

「あ」

 その時、視界の端で何かが動いたような気がした。ポリバケツの中には、大きな醜い胎児が丸くなっている。何か――呻くような声が。

 冒険は? と頭の中で声がした。

 テーブルの上に手が伸びるのが見える。黒々としたナイフは、重たく、光っていた。

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