第16話 6時間と5分前  海が流れる

 確かに、ユリアの目から見ても真とニコの態度はおかしかった。

 でもそれはリンカの言うように、何かが変、としか言いようのないもので、大勢でいるときには、気にしていないと見逃してしまうような些細なことだ。今までの関係を注視していないと気付かないくらいの変化。

 ただ明らかに、ニコはあまり事務所に近寄らなくなっていた。

「仲直り作戦をしましょう!」

 リンカがそう言い出したときには素直に驚いた。彼女はそこまで他人を気にする性質ではなかったはずだ。なにか心情の変化があったのか、それとも真に対して特別な思いがあるのか。

「作戦って、何するのー?」

「旅行です!」

「りょこー?」

「ミクが、泊りがけで一緒にカレー作れば大体の人類は仲直りするって言ってたんで。うちの別荘でカレー作りましょ!」

「別荘」

 やはり、リンカはリンカでずいぶん世間からはずれているのだ。とはいえ、ユリアにとってはありがたい申し出だった。様子の可笑しい二人に対して、どうモーションを起こせばよいのか、何も思いつかなかった。というより、億劫でうまく考えられなかったのだ。

 かくして、リンカとミクを中心に立てられた旅行の計画に、ユリアは乗ることにした。





 ユリアは前の車を追い越しながら、助手席からの妙な音を聞いていた。ニコがビーチボールを膨らませているのだ。人間の強い息の音がする。全開にした窓の向こうから風が吹き込んできて、車の中を占拠していたポテトの匂いが少しだけ薄まった。

 ぷは、とニコは口を離して、窓の外を見た。

「やっぱりここの海は汚いですねえ!」

 まるで美しいものを見つけた時のような、高い声がする。

「それに、人がいっぱい」

 ユリアも横目でそれを眺めた。黒々とした海の中に、ごま粒のような人間たちが板に乗ってぷかぷかと浮かんでいる。今日は波の具合がよいのかもしれない。

「そうねー。なんでこんなに汚いんだろうねー」

 小さい頃は、海と言われてまず思い浮かぶのはこの黒い海だった。成長するに連れてテレビや写真や、また実際の青い海を見て、段々と頭の中の海は明るく色味を変えていった。今では、海と聞けばあの透き通った青色を想像することが出来る。

 けれど、実物を目にしてしまうと、つくづく思い知らされる。

 人は、子供の頃に与えられた感慨を拭い去ることが出来ないのだ。いくら上に色を重ねた所で、カンバスの素材までは変えられない。生涯、同じ生き物として生きるしかない。

 この黒々とした、汚れきった海だけがユリアの本当の海なのだ。

「むかし、ここで溺れてくらげに刺されたことがありますよ!」

 喜々としてニコは語った。語り続けた。父がニコを海に放り投げたこと。兄が助けようとして岩場で足を切ったこと。妹を背負いながら笑っていた母のこと。その時に刺されたくらげの種類。医者に連れて行ってもらえなかったこと。

「くらげには死なない種類がいるんですって」

 本当だろうか。

「それって不老不死ってことー?」

「そうなりますね!」

「怖くない?」

 あは、とニコは声を漏らして笑った。

「こわいはなしです」

 それは平たく重い声だった。ニコは時々、こんな風に温度も湿度も立体感もない、ただ重いだけの声を吐くことがあった。いつもと違う、一切の装飾を省いた声。

 ニコは膨らみ切っていないビーチボールを手で弄びながら、その声にほんの少し明るい色を足した。

「真さん、何か言ってましたか」

 二人の間に何があったのか、ユリアはどちらとも話をしていなかった。

「何かって?」

「旅行に行くこと、すぐにうんって言ってくれました?」

 かなり明るい声でニコはそう返してきた。芳しくない返答を見越しての声だろう。

 実際、真は一度ではこの旅行を了承しなかった。最初にリンカが誘い、その時は考えさせてくれと言ったのだという。そのあと、ユリアも誘ったが、あまり乗り気ではなかった。

 立場としては当然かもしれない。真はここでは男として存在しているのだから、女だらけの旅行に一人参加する、ということに逡巡するのは正しい。

 しかし、ユリアは焦った。それは得体の知れない焦りだった。この旅行に来なかったら、真が永遠に失われるような気がしたのだ。だから、懸命に誘った。

 すると真の微笑みは、ある時点で完全な苦笑と入れ替わった。叱られた犬のような目をして、彼は小さく呟いた。

「でも――本当に俺が行っても良いのかどうか」

 この店に来てから、真がはっきりと不安な顔を見せたのはそれが初めてだった。

 女なのに男の恰好をさせられて、女が体を売る場所で働かせられて、今までの真が平坦な態度をとり続けていたことの方が可笑しい。けれどユリアは、その顔に安心したのだった。彼にもちゃんと感情がある。憎しみや苦しみや辛さを感じる機能が付いている。

「ニコも行くって言ったら、真くん安心してたよー」

 軽い声音になるように注意して、ユリアはニコに呼びかけた。

 高速で進み続ける車と、時間の停滞した車内は、窓から入り込む空気によって、なんとか同じ世界に留まり続けている。

 ほんの一瞬の間があった。

「そうですか。よかった」

 また重いだけの声で答えてから、ニコは突然光彩のように明るい声を放った。

「それにしても、真さんは、すっかり男の子がじょうずになりましたね!」

 爆弾のような声だ。

 真が女だと知らされているのはユリアとニコだけだが、二人でその話をしたことはなかった。それは、互いが岩滝や義春との私的な繋がりを持っているということを、認めるのと同じことだからだ。

 ユリアは、自分が岩滝と関係を持っているということを、ここの女たちには知られたくなかった。もうとっくに知れ渡っている事実だとしても、認めることをしたくない。否定してしまいたい。そのことを考えると、分裂しそうになる。

 ニコの声は明るく平坦だった。

「真さんには男の子の才能がありますね」

 その通りだ。例えばあの背丈、安易に潰せるサイズの胸、見ようによっては出ているように見える喉仏や、違和感を持たせないぎりぎりの高さの声音。

 真は男の才能がある。

 ユリアには、その才能がなかった。

「でも、才能のある人間は、才能のない人間を理解しません」

 風が耳の側を通っていく。

 平たい爆発がいつまでも続いているような声で、ニコは呟いた。

「だから、もう許してくれないかもしれません」

 恐らく真は、ニコの癖を知ってしまったのだ。だから距離を取っているのだろう。もしかしたら、それを知られたのが恐ろしくて、ニコの方が距離を取っているのかもしれない。

 ユリアはニコを励ます言葉を持っていなかった。大丈夫だとか、きっと許してくれる、などと口先だけでも言えない。なぜならニコの言葉は、ほとんどユリアの思いと同じだからだ。

 真は自分を許さないかもしれない。

 安易に男になりきれてしまう真を、ユリアは愛したいし守りたいが、実際には恨んでいるし、妬んでいるのだ。あらゆるマイナスの感情を抱いて、その上嫌われたくないと思っている。この感情を知られたらと思うと、気が狂いそうになる。

 黒々とした海は、視界の外でいつまでも続いていた。

「ユリアさん。歌を歌いますか?」

 ニコの声は光彩を取り戻している。

「うん。歌おう」

 愛と勇気の歌を歌いながら、ユリアは一番初めの客のことを思い出していた。

 うっすらと皮膚の見える頭部を仕切りに手で撫でつけながら、男はユリアの内腿を舐め続けていた。唾液は濡れているうちはなんともないが、男の性器を口に咥えている間に乾いて、皮膚の上で徐々にその存在を大きくさせた。

 皮膚に唾液が張り付いている。

 みんなやっていることだからと言って、男は顔に精液を掛けようとした。固辞すると今度は、太ももに性器を挟むように命令した。義父がしたように。そのあとの数多の男がしたように。

 ボーイは接客業の顔付きでそれを眺めていた。

 ここから出たい。

 救われたい。

 けれどそんなことは無理なのだ。自分が自分でなくなるか、相手を全て壊してしまわないかぎり、永久に続いていく。

 だってどうせ、誰も私を許さない。


「あは」


 その日の夜。

 ニコはいつもの空疎な笑い声を漏らして、血で汚れたバッドを握りしめながらユリアを見た。足元には男が転がっていて、ボックスの奥には真がへたり込んでいた。衣服を乱され、まるで女のように。

 まるで女のように真は言葉もなくみじめにそこに存在していた。

 その時の感情。

 血が燃えるような、どこまでも飛んで行けそうなほどの、それは完全な喜びだった。

 やっと愛せる。

 汚れた真を見て、ユリアはそう思ったのだ。

 

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