第15話 10日前 数える(倒錯する)

 ニコの愛犬は10年前に48回死んだ。

「最後にハムをあげたんですよ。もう全然動かなかったのに、ハムをあげたら尻尾を振ったんです。ハムが好きだったのに、お母さんがあげちゃだめだっていうから――うちは貧乏だから」

 過呼吸を起こしたあとに、よく話されるエピソードの一つだ。とてもたった一度の出来事とは思えない。話す度に、情景が変わるのだ。より色鮮やかに、より鮮烈に、より悲惨に、ニコの愛犬は死んでいく。

 たくさん泣いた後の子供がよくするように、ニコはひっひっと短く息を吸った。後ろからニコを抱きとめているユリアの体も、一緒になって揺れた。

「でも最後に好きなもの食べられてよかったよ。私も最後は好きな物たべたいなー」

 ニコは、今度はくつくつと笑った。

「ビーフジャーキーは、最後にたべるには少し硬いですよ」

 待機室の間接照明はいつも鈍い光を放っていて、古い映画の中にいるように滲んでいる。外から声がかかるまで、ここには、ここの時間だけが流れている。

 この中でだけ、ユリアは今を享受することが出来るような気がする。先のことも昔のことも考えず、ただ存在しているだけでいられるのだ。特に、ニコと一緒にいる時には、背景のない一個の人間でいられるような気がした。

 しばらくニコの子供のような体温を抱きしめながら目を瞑っていると、暗幕が捲られる気配がした。顔を上げると、リンカがサンダルを脱ぎながらこちらを眺めている。

「あ。なんか羨ましいことしてますね。いいなーおっぱいまくら」

「えへへー」

 ニコが口を緩ませると、リンカも一瞬柔らかい表情を溢した。彼女はときどき、母親のような目でニコを見る。けれど、今はその笑みがすぐに消え、苦笑に変わった。

「そんな幸せそうなとこ悪いんすけど、ニコさん事務所に呼び出しっす」

 えー、とニコは抗議の声を上げた。

「なんでぇ? もう面談終わったよ?」

「なんでか分かんないですけど、義春さんが」

 一瞬ぐずってから、ニコは立ち上がり、とろとろと外へ出て行った。途端に胸の前が涼しくなって、ユリアは退屈を感じた。

「リンカもおっぱいまくらするー?」

 手を広げて言うと、リンカは「う、」と小さく声を漏らした。

「いえ、大変ありがたい申し出なんですが、私はちょっと――まだその段階じゃないというか、実に羨ましいですけれども、自分がやるとなるとまだ修行が足りないっていうかたぶん全然落ち着かないので」

 目が泳いでいる。

 リンカは立ったままクッションを引っつかんで、ぐにぐにと何度か潰した。はは、と声が漏れる。リンカは喜びも悲しみも大体が淡々としていて、この仕事も初めてらしいが、最初から物怖じしていなかった。ボーイたちとも若いのに対等に渡り合っているように見える。

 しかし、ユリアと二人っきりになる時だけ、何もかも拙くなる。ぐにぐにとクッションを潰し続け、ごく小さな声でリンカは呟いた。

「本当に、あの、そのままでここにいてくれるだけで充分なんで」

 どうもリンカはユリアのことが好きらしいのだ。まるで他人のようにそう思う。ユリアには他人を好きになるという感覚が理解出来なかった。しかし、複数でいる時には平然としているリンカが、自分の前でだけそわそわしているのを見るのは気分がよい。

「準備出来たらいつでも言ってねー」

 両乳を持ち上げながら言うと、う、とまたリンカは唸ったが、すぐにはっとして顔色を変えた。

「じゃなくって! そうじゃないんですよ。ちょっと相談があって」

「そーだん?」

「あのですね」

 と、微妙な距離を置いてユリアの前に座り、リンカは声をひそめた。

「ニコさんたちのことなんですけど」

「たち?」

「はい。あの――ニコさんと真さん」

 二人がどうしたのだ、と聞くと長い唸り声が返ってきた。眉がしんなりと下がって、何かのキャラクターみたいだ。唸り終えると、リンカは胡乱な口調で言った。

「喧嘩? をしてる? みたいな?」

 リンカが首を傾げるので、ユリアもつられて首を傾けた。

「みたいな?」

「んー、みたいなっていうか――いや、みたいなとしか言えない感じなんですよ。ともかく変で!」

 珍しくはっきりとしない物言いだ。けれどリンカは確証を持つまで口にはしないタイプだ。つまり、看過出来ないほど妙な状態なのだろう。

「でも、お祭りの時は普通だったよねぇ?」

 ユリアは不本意ながら、綾乃と二人で練り歩いたが、確か真はニコとリンカとミクを連れて行ったはずだ。行きも帰りも、特に変わった様子はなかった。

「はい。なので多分その後に――いや、もしかしたらその時にもう変だった可能性もあるんですが」

 リンカとミクは射的に夢中になっていた為、途中で真とニコとは別行動をしていたらしい。リンカは「祭」と名のつく行事に参加したことがないらしく、その日は冷静ではなかったのだという。

「ユリアさん、何か気付きませんでしたか?」

「うーん」

 変化といえば寧ろ、真は最近ニコと一層親しくしている。親しく、という表現で合っているのかは分からない。例の客とのいざこざで思うところがあったのだろう。

 しかし、それは確かによい傾向ではなかった。あまりにニコに入れ込み過ぎないようにと釘を刺すのを忘れていた。これは本来、ユリアがもっとしっかり見ていなければいけない問題だ。

「原因は思いつかないなー。ても私もちょっと注意して見てみる」

 そう答えると、リンカは酷く弱々しい声で「はい」と答えた。随分心配しているらしい。リンカがこれだけ素直に感情を表に出すのは珍しい。ユリアの前で焦っている時以外、基本的にリンカは、統制の取れたポジティブな表情しか表に出さない。

 育ちが良いのだ。

 血統も良いのだろう。

 その生まれの違いを感じるたび、ユリアは信じられないほど興奮した。自分の惨めさを思い出して、血が踊る。義父の口から漏れる臭気を思い出す。濁り腐った酒の匂いを。内股を触るひび割れた指先を。体重を。

 思い出して、反転させる。気分がよくなる。

「やっぱりだっこしてもいい?」

「は? えっ」

 無理矢理腹の辺りに腕を回したらリンカは「き!」と妙な声を上げた。バランスを崩したらしく、良い具合にこちら側に倒れてきた。体に人間の重みが掛かる。

 女の体重は、男の体重と違って、柔らかくてふわふわしている。うまくいけば、同化できるんじゃないだろうかといつも思う。

「ちょ、あの、おっぱいがあたってます!」

「おっぱい枕だからねー」

 ぎゅっと腕に力を込めた瞬間、また暗幕が開いた。音を聞いただけで、思わず舌打ちが出る。

「なにやってんの」

 綾乃はどうしてこう毎度毎度、空気を読まない登場の仕方をするのだろう。何か憑き物でも憑いているのじゃないだろうか。

「仲良くしてるのー。見たら分かるでしょ」

「技掛けられて窒息してるようにしか見えないけど」

 本当に信じられないくらい目が節穴だ。

「わたし! 麦茶が飲みたいんで!」

 リンカは空中に向かって叫んで、鹿のように待機室から消えた。暗幕を捲るのさえ、リンカはどの女よりも上手い。綾乃がほらみろ、という顔をした。ユリアは舌打ちを返した。

 女の体温は、男と違ってすぐに消える。義父の重みは体に残っているのに、ユリアは母の体温を全く思い出せなかった。

 そういえば、真には家族がいるのだろうか。聞いたことがない。

 そんなことを急に思って、すぐに忘れた。

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