第14話 1ヶ月と5日前 煙が消えて行く

 祈りが祈りとして機能するために必要なものは愛ではなく嘘だし、救いが救いとして機能するために必要なのは、勇気ではなく運だ。

 それでも、私たちは愛と勇気の歌を歌う。

 誰も愛されなかったし、誰も救われなかったから。

 それが役に立たないと知らないから。だから私たちは、私たちのためだけに。


 愛と勇気の歌を。




 

 男の体重が体の上に乗るとき、ユリアは体の内側がそっくり反転したような気持ちになる。感覚の反転。感情の反転。つまり、男の体重が乗ると心地よく、男の体重を感じると安心する。

 本来は反対だったということを、もう上手く思い出せない。

「だめ、ですよ――やめてください」

 名刺を渡して何か意味のない話を一言二言交わしている間、隣のボックスから微かに不穏な声がしていた。ユリアは自分の客に気取られないように、少しの間黙って耳を澄ませた。絶えず耳の縁を震わせているスピーカーからの爆音は、慣れてくると上手にそれだけ排除することが出来るようになる。

「そろそろお時間ですねー」

 さっさと客にキスをして店から追い出し、ユリアは急いで事務所に飛び込んだ。

 真はいつものように壊れたソファーに座り、プリントした名刺を切り取っている所だった。ユリアが来ると一瞬で何かを察し、立ち上がる。

「どうしました?」

「3番ボックス、ちょっと怪しいかも」

 客の見送りの際に盗み見たとき、ニコは壁際に追い込まれているように見えた。それ自体はどうということはないが、暗がりにぬぼっと浮かんでいる大男の背中には見覚えがあった。少し前までよく通っていた男だ。

 あまり意思疎通の出来る人間ではない。

 真が出て行ってすぐ、怒号が聞こえた。のれんを捲って伺うと、真はボックスの前で膝をついて話しかけている。中から、言葉になっていない叫びと呻きの間のよう声が聞こえている。ばかみたいに軽快な音楽が、それをときどき掻き消した。

 ユリアが誰かに連絡をしようかと思った瞬間、ボックスからぬるりと手が伸びるのが見えた。それは明らかに暴力の勢いを孕んだ動きで、真の肩口を掴もうとしていた。

「あ、」

 男の手が真の肩口を掴むより早く、真が男の手を取った。かと思うと、男は一瞬で手を後ろに捻られ、動きを封じられていた。

 そのままボックスから引きずり出し、真は男を事務所へ引きずってきた。ユリアがのれんを上げると、無表情だった真の顔に微かな驚きの表情がついた。

「あ、すみません。ユリアさんいるのに連れてきて」

「いいよいいよ」

 従業員は自分の客以外には姿を晒してはいけないという決まりがある。とはいえ、ボックスの前を通らないと女子の待機室には行けないので、通りすがりには必ず姿を見られている。さほど厳密な決まりではない。

 それに、今は非常時だ。

「今日、他に誰か出勤してるの?」 

 ユリアが聞くと、真は無意識だろうが入口の方へ目を向けた。

「外にお兄が」

「じゃあ私連絡してくるから、真くんその人ちょっと見張ってて」

 真に腕を取られた男は、目も体もぐったりとしている。明るい場所で死ぬ動物なのかもしれない。だが、またいつ暴れるとも分からない。

 ユリアが外に出ようとすると、真は追いすがるような声を出した。

「あっ、あの、ニコさんがまだ――」

「うん。大丈夫。見てくるね」

 のれんを捲って出ると、従業員入口の方から音がした。この店は客用の入口と、従業員用の入口があるが、どちらも開く時に機械のあくびのような奇妙な音を立てる。

 暗がりからやってきたのは綾乃だった。ユリアを発見して眉をひそめる。

「なにやってんの」

「3番ボックス」

「は?」

「いいから行って」

「まだ着替えてないんだけど」

「ばか! 客じゃないよ、ニコ!」

 状況を把握したらしい綾乃は「あー、はいはい」と軽い声を出してボックスへ向かった。全く緊張感がない。

 近くにいたらしい義春は、連絡するとすぐやってきた。いつも通りのヤカラ丸出しのがに股で事務所に入ってくると義春は「あ?」と声を漏らして男を眺めた。

「なんでちんちん出したままなの?」

「あ」

 と、真も間の抜けた声を出した。今気が付いたらしい。

「ごめん。ちょっとタイミングがなくて」

「いやお前が謝ることじゃねえ」

 と、義春はすっかり魂の抜けている男の、既によれきっているTシャツをまた倍に伸ばすように引っ付かんだ。

「お前が見せてんのが悪いんだよ。なあ? なにうちの可愛い従業員に汚いちんちん見せてくれてんだ。おい、なんとか言えこら。聞いてんのか?」

 ぐらぐら揺らされても男は反応しなかった。明らかに正気ではない。何かの障害を持っているのかもしれない。けれど義春は、それで納得するほどまともではない。

「真、こいつの服、倉庫まで持ってきて」

 乱暴に男を引き摺って義春は事務所から出て行った。

 倉庫というは洗面所の横にある小部屋で、今は衣装の墓場になっている。布が山のように積まれていて、多少手荒なことをしても音が出ないので、こういうときのために捨てずに取ってあるらしい。

 すぐに指名客が入ったので、ユリアは一端そこから引いた。

 次に身体が空いた時には、男は出禁ということで片が付いており、ニコもある程度回復していた。遅番の若い子たちがやってきて、店にはいつも通りの空気が流れている。しかし、真だけは通常に戻れていないようだった。

「おつかれさまー」

 ユリアが帰る支度を済ませて事務所に入ると、定位置の壊れたソファーに座っていた真は、ばっと顔を上げ、時計を確認した。

「あ、すみません。おれ、お金の計算」

 まだです、と言って真はテーブルの上の書類を漁り始めた。

「いーよいーよ。一服してるからゆっくりやってー」

「すみません」

「むしろ真くんも一服する? 煙吸うと頭良くなるよ」

「それは――初耳です」

 軽く笑って、しかし納得したらしい真は煙草を手にした。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 ここに来たときには吸っていなかったが、真もいつの間にかごく自然に煙草を吸うようになっている。この店の中では、誰もがそのうち、煙を吸っていないと正常でいられなくなるのだ。

 真は一度深く煙を吸って、重たくゆっくり吐いてから、静かに項垂れた。

「今日、本当にすみませんでした」

「うん? なにがー?」

 真は顔を下げたまま、さっきの人、と暗く呟いた。

「受付の時点ではじくべきでした」

「いやぁ、それはどうかなぁ」

 言葉の通じない外国人や、前後不覚なほどの酔っ払いはボーイが受付ではじくべきだが、今日の男はそうではない。サービスをしている側なら気が付くが、一言二言の会話からでは、ただの寡黙な人間にしか見えないだろう。初見の真には判断する術がない。

 そう説いても、真は納得しなかった。

「ちょっと変だとは思ったんです」

「うーん。まぁ変な人多いしねー。よくあることだからそんな気にしなくて平気だよ?」

 ユリアはごく軽い口調でそう言った。実際、とても軽い出来事だからだ。しかし、真は顔を上げると、酷く不思議なものを眺めるような目でユリアを見返してきた。

「よく、ありますか?」

 驚きと、微かな疑いの混じった目をしている。

「よくある。よくある」

 この程度のことを気にしていたら、誰も身が持たない。

「っていうかー、お客さんってみんな、基本的に私たちのこと嫌いだからさ。嫌いっていうか、憎んでるっていうのー? 女のことは見下してるけど性的なことはしたい、っていう人たちが来る場所だからさ。ある程度痛めつけられるのには慣れてるし」

「そんなの、おかしいですよ」

 真が突然傷ついたような声を出すので、ユリアは心底ぎょっとした。真は、縋るような目でユリアを見た。

「どうしてユリアさんたちがそんな扱いをされなきゃならないんですか。見下すとか、意味が分からない。こんな大変な仕事をしてるのに」

 真の煙草から灰が落ちた。灰はテーブルにぶつかって、半分が形を崩して砂のようになる。それでユリアは急に、自分の体がどこか遠く、宇宙のような場所へ飛ばされていったように思った。存在の根が引っこ抜かれてしまったような――。

 真は太い幹のような声を出した。

「俺は、そんなことに、慣れて欲しくありません」

 慣れないでどう生きるのだ?

 程度の差こそあれ、女として生きるということはそういうことだ。蔑まれることに慣れること。馬鹿にされることに慣れること。そういう事実を口にしないこと。何もそれは、風俗嬢に限ったことではないはずだ。

 それとも、真にはその瞬間が訪れたことがないのだろうか? あるいは真に限らず、一定の人間にしかその時は訪れないのか。

「ユリアさんも、何かあったら絶対俺を呼んでくださいね」

 縋るような目のまま、彼はそう宣言した。

「守りますから」

 ユリアは、自分の口から「ありがとー」という間延びした声が出るのを体の中で聞いていた。まるで店にくる客と話をしているときみたいだ。

 自動的な外側の顔。外側の声。

 いいや、女であれば誰でもそうであるはずだ、と強く考え直す。女はそうやって生きてきたのだ。真だってきっと、そうであるはずだ。大勢の人間がそうしているように、ただ口にしないだけだ。

 だって――。

 だって、自分だけがこうなのだとしたら、きっとユリアは願ってしまう。

 と。考えてしまう。

 そうならないために、愛さなければいけないのだ。守らなければいけない。

 けれど、一体。

 私は誰を愛し、誰を守れるというのだろう。

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