第13話 1ヶ月と18日前 生き過ぎる

 精子を吐き出した瞬間、脱皮したように別の生き物になる客がいる。もっとも、大抵の男は射精すると虚しくなったり脱力したりするらしいので、これはその程度が著しい、ということなのかもしれない。

 彼らはプレイが終わって一息つくと、蔑むような目で改めて女を眺め、そして大抵、こんな質問をするのだった。

「なんでこの仕事してるの?」

 全く同じ態度と声音で全く同じ質問をする人間が、この世界には一定数存在する。もしかすると彼らは神のようなものが用意した、型通りに思考する量産型の生物なのかもしれない。

「えー、どうしたんですか急にー」

「なんか理由があってやってるんでしょ? 俺が女だったら絶対に無理」

 すごいよね、と全く何の感慨も籠もっていない声音で言って、男は煙草を口にくわえた。ユリアがライターに手を伸ばそうとすると、手を振って拒否してくる。

「俺、人に火付けられんの嫌いなんだよね」

「そうなんですかー。すみません」

 微笑みを保ったまま、一瞬だけ男の顔を見た。暗くてはっきりと見えないと思っているのか、あるいは単に気が抜けたのか、男はあまりに無防備な顔をしていた。

 すぐ横にいる女を存分にこき下ろしたいという欲望と、紳士的であらねばならないという社会通念を頭の中で戦わせている。そんな顔付きだ。

 性欲に駆られている時には体でしか物を考えられず、それが解消するとまた欲望と理性の戦いをしなくてはならない男という生き物を、ユリアは最近やっと可哀想だと思えるようになった。

 しかし、そういった理性と欲望の戦いの末、こういった量産型人間は、やはりオリジナリティの希薄な負け惜しみを吐くのだ。

「でもいいよね、女の子は。楽して稼げるんだから」

 なるほど、彼は女であっても絶対に春を売ったりはしないのだろう。

 出来るはずがない。



 帰りの送迎車の中、ユリアが何気なく件の量産人間の話をすると、一気にその話で持ちきりになった。いつからか送迎のコースに含まれるようになったコンビニに着いても、まだ話は続いていた。

「でも実際、この仕事してる理由の正解ってなんなんすかね!」

 ナナがハイエースから飛ぶように下りて言うと、すぐ後ろから出てきたアキが続けた。

「私本当にその質問嫌い。殺したくなる」

「そう? 普通気になるんじゃん?」

「ナナさんは情緒ステ異常ですから」と、前を行くミクがスマホに向けて言った。「まぁ金以外に理由があると思っている奴は普通に死んでいいくらいキモいですよね」

 分かる、とアキが続けた。

「何がエッチ好きなの? だよ、好きなわけねえだろ殺すぞ」

「ほんそれっす」

「マジ? みんなそんなこと考えて咥えてんの? ウケんね」

「怒りで噛み切らないようにするので精一杯だわ」

「ですねー」

「でもあれって血で勃起してんでしょ。切ったらホースみたいに血が出んのかな」

「いやキモい」

「ナナさんの発想が一番こわいっす」

 今日は年齢層が低いので、いつもより割り増しで姦しい。店に入る前に少し声のトーンを落とさせるべきだろうかと考えていると、後ろからやってきた真が彼女たちに並び、人差し指を唇に当てた。

「悪口はもうちょっと静かにね」

 ナナは嬉しそうにそれに答えた。

「悪口じゃないっすよ。男根切除の話っす」

「うーん。なおさら静かにした方がいいかな。お客さんいるかもしれないし」

「じゃあボーイあるあるの話しますか? 真さんどんな客殺したいです?」

「ノーコメント。ほら、クジやってるよ。あれでしょ? みんながやりたがってたの」

 真がコンビニの中を指すと、ナナとミクは今までの会話を一瞬で忘れ、わっとコンビニの中へ走って行った。一人だけペースを変えず歩くアキを見て、真がその顔を覗き込む。

「アキさんは?」

「いや、私はオタク系疎いんで。でもあの二人、ああなると長いですよ」

「今日早く終わったし、俺は少しくらいなら待てるけど。ユリアさんどうですか?」

「私もへいきだよー。じゃあアキちゃん、ポテト半分こにする?」

 ユリアがいうと、アキは途端に年下の顔になって「はい」と答えた。真は店内でキャーキャーと騒ぐナナとミクの子守に徹することを決めたらしい。

 ユリアもアキもこの時間に一人分を食べられるほど胃が強くないので、一緒に来たときは大抵何かを半分にして食べている。

「ごちそうさまです」

 ポテトを買ってベンチまで来ると、アキは律儀に小さく頭を下げた。上下関係や礼儀をかなり気にする性質らしい。それほど喋るほうでもないので、最初のうちはやや孤立していた。ニコがやたらに話し掛けていたのをよく覚えている。

「アキちゃんお店慣れた?」

 ポテトをベンチの間に広げながら言うと、アキは大きく頷いた。

「はい。すごく、とても」

「すごくとても?」

 ユリアが繰り返すと、アキは小さく微笑んだ。

「はい。すごくとてもです。なんか珍しいですよね、うちみたいなお店」

 なにがだろう、と思いながらユリアは辛くなる粉をポテトの上にまぶした。この辛さを許容してくれる人間は店ではアキくらいだ。ユリアの作業を見ながらアキは続けた。

「私、結構短い間に店変えて、色んな所で働いたんですけど、従業員同士がここまで仲いい店ってなかったですよ」

「そう? それは嬉しいなぁ」

 それは嘘偽りのない言葉だった。

 ユリアはまさにこの店の雰囲気を良くするために、他店から引き抜かれてきたのだ。そう言うとアキは少し驚いた顔をした。

「引き抜きって――店長にですか?」

「そうそう」

 今ではほとんどその情熱は失われたようだが、当時の岩滝は理想高く、店舗の経営にかなり積極的だったのだ。

「私が入ったころは、まだこの店にもお局さんとか派閥とか結構あってー。新人の子に当たり厳しかったし、待機時間中に急に始まる賭けウノ大会とか、参加しなきゃノリ悪いとかで悪口言われたりしてー」

「地獄ですね」

 アキはあからさまに嫌そうな顔をした。

「ねー。嫌だよねぇ。でもそういう風に生きてきた人って、何やっても変わらないからさぁ。店長、結構クビにしてたなー」

 あの頃から残っているのはニコとユリアだけだ。というより、岩滝が店の改革をしたのは、ニコのような今後稼ぎそうな素人上がりの女に、長く店で稼いでもらうためだったのだ。

 ユリアが店に入ってすぐの頃、ニコは新人いびりの集中砲火のただ中にいたのだ。直接的な攻撃、というのはほとんどなかったが、彼女たちは客に「ニコは本番をやっている」という噂を一生懸命に流していた。

「それ――危なくないですか?」

 唖然としてアキが言う。

「うん。すごく危ない」

 さんざんその噂が出回り、本番目当てでニコを指名する人間がたくさん来た。そういう客はすぐに怪しい体位に持ち込もうとするので、それをボーイに報告し、女たちはニコを辞めさせようと考えていたらしい。本番行為は店の存続に関わるので、いくら売れっ子でもボーイたちは黙っていない。

「最悪ですね」

 そう言ってアキはポテトを噛みちぎった。珍しく怒りが体の外へ出ている。もしかしすると彼女も似たような経験をしたことがあるのかもしれない。愚かな量産型人間は男だけではなく、もちろん女にも存在する。思考が浅く、想像力が希薄で、短絡的に暮らすだけの人間が。

「私、ニコさん好きですよ」

 真剣な声でアキは呟いた。

「入ったばかりのころは、やたら構ってきて鬱陶しいと思ってたんですけど、困ってるとすぐ気付いてくれるじゃないですか。他の新人も頼まれてもないのに面倒見てるし。私、ぶっとんでる人って苦手なんですけど、ニコさんはなんていうか、なんだろう」

 考えるように言葉を止めて、アキはポテトを口にしながら空を見た。

「あまりあの人に嫌なことが起らないといいなーとかって、時々思います」

 曇っているので星は一つも見えなかった。もっとも、晴れていたとしても、この辺りでは美しく星を見ることは出来ない。明かりに全部消されるのだ。

 ユリアもアキと同じで、ニコに対しては幸せを願うよりまず、不幸がないように祈ってしまう。それはどうあれ、ニコという人間の行く先に平坦な道はないと、経験で理解しているからだろう。

 それに、ニコの幸せを願うことは、別の人格になれと願うことと同義だ。彼女が彼女である限り、どこで何があったとしても、結局は同じことになるのだろうから。

 けれど、そんなことを願うのはあまりにも不毛だし、みじめだ。だからせめて今、この世で、これ以上恐ろしいことが起らないように祈るしかない。

「アキちゃん優しいね。えらいえらい」

 頭を撫でるとアキは口をむぐむぐと動かし、目を泳がせた。あまり褒められ慣れていないらしい。

「ふふふ」

 彼女たちみんなが幸せになればいいと、ユリアは心の底から思っている。けれど、ユリアにはもう幸福がどんなものか分からないのだ。

 彗星が落ちてみんな死ぬのが、一番の幸福だと本気で思っている。

 なにもかも、願うにはもう遅すぎるのかもしれない。

 遅すぎたのだ。

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