第12話 2ヶ月と21日前 誰かが側にいる

 真が女であるということを、ユリアはよく忘れた。

 容姿のことだけではなく、真には女の要素が一つもないのだ。特に、不理解という意味ではそこらにいる男たち以上に異性的だった。女という性に対して一切の共感を抱いていないのだ。

 その代わり、理解出来ないものに対しての礼節がある。慈しみ、というのかもしれない。

「ユリアさん、さっきのお客さん大丈夫でした?」

 40分コースを二本付いたあと、うがいを済ませて事務所を横切ろうとすると、焦ったような声で真が声を掛けてきた。一通り仕事を覚えたからと言って、最近は店長の岩滝も義春も真を一人にして外出していることが多い。

「んー? 大丈夫だったよー。何か変だった?」

 というより、さっきの客がどの客のことを指すのか思い出せなかった。しかし真はあからさまにほっとしたような顔付きになって、よかったです、と呟いた。

「ちょっと酔っ払っていたみたいなので」

「ぜんぜん平気だよー。っていうか、夜はほとんど酔っ払いだからぁ」

 素人童貞や風俗中毒の常連を抜かせば、夜にピンサロに訪れる客のほとんどは酒を飲んで普段とは違う人間になっている。あまりに泥酔していると、なかなか射精しないので顎が疲れるが、多少酔っているくらいであればトークも適当ですむので、女たちからすれば助かるくらいだ。

 けれど真は浮かない顔をしていた。

「そう、ですかね」

「なにかあったー?」

「いや、この前、ニコさんがついたお客さんが酔っ払ってて――見回り前、ちょっと怪しい感じだったので」

 ボーイの仕事はほとんどが誰でも出来る雑用だが、プレイ中の巡回だけは彼らにしか出来ない。この店はソファーではなくフラットシートなので、危険な体位になりやすいため他の店より巡回は厳しい。しかし、慣れている客はその巡回の隙を狙って本番の強要をしてくるのだ。

「入れられそうだったのー?」

 ユリアが聞くと、真は一瞬ぎょっとしたような表情をみせた。

「あ、いや。俺が行った時には跨がったりはしていなかったんですが、物音が結構、ひどくて」

「物音?」

「体がぶつかるような」

「ああ」

 ユリアが納得したような声を出したからか、真は不思議そうな顔をした。

「何か聞きました?」

「ううん。聞いてはないけどー。ニコはねー、ちょっと嫌な客に当たること多いから」

 この店で指名が一番多いのはニコだが、客との問題が多いのもニコだ。それは彼女自身の問題ではなく、単なる巡り合わせだ。人にはそれぞれ生理的に合わない人間というのがいるもので、ニコはその地雷を踏みやすいのだ。

 合う人間にはとことん依存されるが、合わない人間には短い間で憎しみに似た感情を抱かせるらしい。けれどそれは、回りが注意してどうにかなるような問題ではない。

「あんまり神経質になりすぎなくても大丈夫だよー。本当に危なそうだったら助けてあげて。声掛けるの怖かったら、ヨシとか店長呼んでもいいし」

 いや、と真は驚いたように手を振った。

「全然、怖いとかはないですけど」

「あ、そっか。真くん柔道黒帯なんだっけ?」

「いや空手です。あと茶帯なんで――って、それ言ってるのお兄ですか? 困るな」

 真は軽く眉をひそめた。少し前までは義春にしか表情らしい表情を見せなかったが、最近は従業員の前でも多少気を抜いて話せている。

 少しの間義春に対して憤慨してから、ああでも、と真は微笑んでみせた。これは出会った当初からおこなっている、作られた表情だ。

「茶帯でも多少は役に立つと思うので、もし危ないことがあったら、ユリアさんもすぐ呼んでくださいね」

「ありがとー。でも真くん減点だなぁ」

「え」

 と真は軽い声を出した。真の驚き方は、どうも真剣味が足りない。表現の問題なのか、そもそも感情の起伏があまりないのか。

「女の子にそんなに優しくしちゃだめだよ。もうちょっと冷たくしてね。好きになられちゃったら真くん困るでしょ?」

 はぁ、と今度は気の抜けた声を出す。

「好きになられるなんてこと、ありますか?」

 本人に自覚が全くないのは困ったことだ。仕方ないので、ユリアは風俗にいる女がどれだけ優しさに弱いか、真の男としての容姿がどれだけ良い部類であるかを説いて聞かせた。

「今は男の子なんだからね、ちゃんと男の子みたいにしなきゃだめだよ。適度に女を馬鹿にして、適度に女に幻想を抱いて、適度に女を性的な目で見たりとかしないと」

「それはちょっと難しいです」

 真面目に困った顔をするので、思わず笑ってしまった。

「うん。それは冗談だけどー。もうちょっと無関心でいてもいいよ。何かあったらフォローするから、困ったことあったら私かニコに言ってね」

 すると真は、少し恥ずかしげにしながらちょこっと頭を下げた。

「ありがとうございます」

 しかし、他の従業員もちゃんと真を男と思っているのか、ユリアにはよく分からなかった。女だと聞かされてから会ったユリアには、前情報なしに真を見た場合、その姿形が本当に男に見えるのかどうか、冷静に判断が出来ない。

 上背があるし、髪も短く刈り込んでいるし、胸も潰している。ただ、声がやや高めのような気がしないでもない。

 何もしない時からからよく男に間違えられていたらしいので、それほど心配はいらないのかもしれない。けれど、やはり時々不安になる。誰かが気が付いて、口外でもされたら。

 万一外部に噂など立とうものなら、もうユリアやニコのフォローだけではどうしようもない。そういうことを岩滝や義春が理解しているのかどうか。

 待機室に戻ると、綾乃が大きく冷やしうどんを吸い込んでいる所だった。

 ずぞぞぞぞ、という音が工事現場のように無骨に響いている。コンビニの麺類をどこでも食べる人間の神経がユリアには理解できなかった。溢したらどうするつもりなのだろう。そもそも、汁を捨てたりすることが面倒じゃないのだろうか。

 ユリアが眺めているのに気が付いて、綾乃は顔を上げた。

「何?」

 少なくとも綾乃が真のことに気が付くことはないだろう。

 また腕が太くなっている気がする。積極的に鶏の肉を取りはじめるようになってから、綾乃の筋肉は目に見えて成長しはじめた。

「杏ちゃんって単純で鈍感でいいよねー」

「は? なに、生理?」

「違うし。煙草ちょうだい」

 そんなことをしたって、男にはなれやしない。諦めて女に徹するほうが利口だ。いずれ、女であることからは逃れられないのだから。せめてそれを利用しないと。

 正気が保てなくなる。

「筋トレなんてバカのやることだよ」

「漢方でも買ってくれば?」

「だから生理じゃないから」

 けれど、何も考えない人間がそばにいるのは、多少はありがたいことなのかもしれない。

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