NO5 ユリア
第11話 3ヶ月と14日前 片隅で歌う
自分が将来男になることを疑ったことはなかった。
草の間を駆け抜け、鼻先を緑の匂いがくすぐり、踏み出した足裏を土が空へ押し上げるのを感じたとき、特にそう思った。
わたしは将来、男になるのだ。
そして冒険へ出る。
世界は膨大な光で溢れていて、未知の物はすべて自分の為に存在していた。毎日が飛んでいるようだった。もっと早く、もっと遠く。どこまでも行くのだ。だって、どこへでも行けるのだから。どこまでも。
冒険。
冒険。
冒険!
けれど彼女は土を潜る蛇の夢を見て、起きたら女になっていた。
それからは、どこへも行けず部屋の中。
✾
ラブホのミネラルウォーターはどれも見たことのないパッケージをしている。絶対に見たことがないのに表記が日本語だったりすると、ユリアはいつも自分だけがひとつ隣の並行世界にずれてしまったような気持ちになった。
ここではこのパッケージの水がそこかしこで売られているのだ。世界の違いとは、かくも些細な差異でしかない。ほんの少しの出来事で世界は分岐し、並行世界が無限に現われる。他にも自分の世界と違うところがあるのかもしれないと、目が勝手に辺りを探しはじめた。灰皿、リモコン、スリッパ、シーツ。ベッド。
白い尻。
急激に現実が戻ってきて、ユリアは岩滝が今言った言葉を改めて考えた。
「女?」
尻の上から声がする。
「うん。女。ヨシの従兄弟? いや従兄弟の子だったかな」
岩滝の尻は白い。
平べったく、肉付きは悪いが、肌がもちもちとしていて、いつでも尻だけが冷えている。それはユリアが取り分け尻をよく触るから気づくのであって、本当は他の部分も冷たいのかもしれない。ただ他の部分は極力触りたくなかった。
尻を触るとなぜか、この男もかつては子供だったのだ、と何かに納得したような気持ちになる。何に納得しているのかは、自分でも分からない。
「女の子にボーイやらせるってこと?」
岩滝の要領を得ない文章を再構成すると、そういうことになる。やれ柔道がなんだ、身長がいくつだと、岩滝はいつも物事の周りから説明を始め、本質のまわりをぐるぐる回るだけで話が終わるのだ。
「だからそうだって」
岩滝は寝たまま肩肘を付いて、顔をユリアのいる方に向けた。ユリアはペットボトルをテーブルに置いて、煙草が目に入ったので咥えた。この出来事も並行世界のものかもしれない。
「そんなに人いないのー?」
「俺もヨシも新店の準備やれって言われてるから」
岩滝が店長をやっている店は――つまりユリアが今働いている店は――実質チェーン店だ。岩滝は雇われ店長で、大本の経営陣は別にいる。岩滝は女の子の面接で「うちはクリーンなお店だから」とか「怖い人はついてないから」というようなことをよく言うが、勿論そんなことはない。
上に新店の準備しろと命令されれば、そうするより他はないのだろう。
「だからって女の子ー?」
「子っていう年齢じゃないんじゃね? 成人して何年とか言ってたし」
たぶん、と言って、岩滝は仰向けになると、女子高生のように自分の金色の髪の毛先に枝毛を探し始めた。
「なんかマジで男の子みたいな感じなんだって」
「でも女の子なんでしょー?」
「そうだけど。だって、人こねーんだもん。しょーがないじゃん」
岩滝はもういくつになったのだろう。ユリアより年上のはずだが、外側も中身も、大学生くらいで止まっている。最初に会った時はキャバのボーイをやっていて、ホスト崩れのような恰好をしていたが、年を経るごとに完全なホストに近づきつつあるようだった。
枝毛をぷつりと引き抜いたかと思うと、「あ」と軽く声を出して岩滝はやや真剣な声色を使った。
「他の子たちには男で通すから、絶対言うなよ」
ならば最初から言わなければいいのにと思うが、実際はそうもいかない。あんな場所に女の子を放り込んで、男だけでフォロー出来るはずなどないのだ。
「お前と、あとはニコにしか言わねーから」
その名前に、ユリアの心臓は重く沈んでいった。
ニコは愛と勇気の歌が好きだ。
だからユリアは、ニコが倒れるといつも愛と勇気を歌う。愛と勇気があれば大丈夫だと歌う。それさえあれば生きていけると、歌う。
けれど、愛や勇気を知っている人間は、ここには一人もいないのだ。
「ニコ、大丈夫だよ。だいじょうぶ、だいじょうぶ」
痙攣するような呼吸を繰り返すニコの姿を見ていると、いつでも声を上げて泣いてしまいたくなった。どうしたら救われるのか、ぜんぜん思いつかない。
ユリアは自身が幸福であれ、不幸であれ、もうほとんど何も感じなくなってしまった。だから、この世の幸福と不幸を一手に引き受けているニコの姿を見ていると、まるで自分が悪いことをしているような気持ちになるのだ。
自分が手放した幸福や不幸が、巡り巡ってすべてニコに注がれているような気がする。それでもニコは全ての感情を決して諦めない。たとえそれが人の物でも。
「大丈夫、だいじょうぶ」
ユリアはニコの側にいる資格がある。ニコもユリアの側にいる資格がある。でも、ただそれだけだ。同じ場所にいて、救わず、救われず、恐ろしい雑音が響く空間の隅の方にいて、二人してじっと、時間が過ぎていくのを待っていることしかできない。
救わず、救われず。
冒険は? とときどき頭の中で誰かが呟いた。
精液には海と血が混ざっていて、それは冒険の予感と同じ匂いをしている。ユリアは男になりたかったが、男にはなれなかった。今では、自分と同じような女を慈しむことでしかこの世で居場所を作れない。そうして結局いつまでも、並行する別の世界にはいけないのだ。
永久にどこへも行けず、もうずっと窓のない小さな部屋の中にいる。
そんなユリアの世界に突然、彼は訪れたのだった。
「営業中はぜってーこっちから入れよ」
義春の声に続き、薄暗い空間に、暴力的で性急な光が差した。そのすぐあとに、ユリアは不理解と無頓着の瞳に出会った。
「あたらしいボーイさん?」
彼は――いや彼女は、男でもあり、女でもあり、また男ではなく、女でもなかった。かつての、私たちと同じように。何者でもなく、何者にもなれる状態のまま、ただそこに存在していた。
「よろしくねぇ」
彼を守らねばならない。
強くそう思った。
守られなかった私たちのためにも、絶対に彼を汚してはいけない。
けれど、いつかそれが破られることも知っていたのだ。なんとなく、絶対に。いつか誰かが壊すだろうと思った。だって、誰も愛と勇気を持っていないから。
この建物の窓は、すべて黒いガムテープで塞がれていて、光はすぐに消える。部屋は光をすぐに忘れる。
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