第10話 1時間と37分後 反転する

 浴槽の血の匂いはすぐに感じなくなった。

 ナイフはうまく刺さる所と、全く刺さらない所がある。綾乃がもう一度、深く塩原の体にナイフを差し入れると、元から穴が開いているのかと思うくらいにするりと刃が刺さっていった。しかし、それで血が多く出るというわけではないのだ。

 人間の体には血も通らない空洞があるのかもしれない。

「あ、下半身の方がいいのかもしれないっす」

 スマホを眺めながらリンカが言った。下着に薄いピンクの水滴がついている。

「なんで?」

「重力ですね」

 適当な答えが返ってくる。リンカはさきほどからスマホの文面を読むことに熱中している。重力にしたがって血が落ちているということだろうか。死んでいるのに血が流れるというのは、少し妙な気がした。

 本当は、本当に綾乃一人でバラすはずだったのだ。けれど、リンカも引かなかった。それで結局協力してやることになったのだが、サバイバルナイフと果物ナイフだけで人間をバラバラにするのは、かなり根気のいる作業だった。血を抜くだけでこんなに力を使うなんて。

 しばらくすると、リンカはスマホの電源を切って、ブラと乳の間にしまい込んだ。

「やっぱりこれ以上見ても無駄ですね。当たり前のこととデマしか書いてない」

 けれど、当たり前のこととデマの違いを判別出来る人間は、そういない。リンカは少し恥ずかしそうに笑った。

「でも焦ってると当たり前のことがなかなか出てこないもんですね」

「――あんた、焦ってるの?」

 そうは見えなかった。リンカはいつも何かしらを面白がってはいるが、同時に少し離れた場所に立っている。恐らく、頭が良くて我を忘れることが出来ないのだろう。

 うーん、とリンカは唸った。

「焦ってるっていうとなんか違う気もしますが――まぁ、平素と同じでないことは確かです」

「へいそ」

 妙な言葉使いだ。

「え。なんすか。お気に召さないです?」

「べつに」

「なんでもいいですよ。平常でも通常でも恒常でも日常でも」

 さすがに語彙が多い。

 けれど、綾乃にはこれが異常なことだとは思えなかった。

 普段通りのことではないにしろ、いつかはあり得る、日常の延長上の未来に過ぎない。この事態に辿り着いたのは、今までの歩みを考えれば、ごく自然な、正当なことだ。

 狭い浴槽の中に押し込まれ、ストッキングで豚みたいな顔にされ、スマホで調べた情報によって体中を刺されている塩原の状況は――むしろこの状態こそ――全く正常のことのように綾乃には思える。

「ていうか、なんで自分が刺したとか意味分からない嘘ついたんですか?」

 リンカはしゃがみ込んで、塩原の左腕の辺りにシャワ-を当て、体から出てきた血を観察しながら言った。

「やっぱり、綾乃さんってユリアさんのこと好きなんですか?」

「はぁ?」

 気持ちが悪くて思わず意味の分からないばしょへナイフを突き刺してしまった。大量に血が流れはじめて、リンカが左腕からシャワーの照準を左乳首に変える。

「だってユリアさん庇ったんじゃなければ何なんです?」

「だから。私はユリアに復讐したいだけで」

「え? 復讐? ちょっとそれは初耳でした。どういうことです?」

 話してもリンカには分からないだろう。というより、誰にも分からない。綾乃はただユリアの鼻を明かしてやりたいのだ。友情やら愛情やら、そういう身の毛のよだつ情からの行動でないのだ。けれど、どうやったらそれを伝えられるのか分からなかったので黙った。またリンカが唸る。

「うーん。よくわかんないすけど。私はユリアさん刺してないと思いますよ」

「いや。刺したのはユリアだよ」

「でも刺したところは見てないんですよね?」

「刺した直後は見た」

「それが直後だという証拠は?」

「証拠?」

 言葉がさっと頭の中を横切った。証拠、などという概念は綾乃の頭には存在しない。そんなものは必要ない。リンカは続けた。

「ニコさんが刺して、そのあとユリアさんがナイフを抜いたのかもしれないじゃないですか。抜いたところを見たんですよね? 刺したところではなく」

 確かに、綾乃が入ったとき、すでに塩原の体にはナイフが刺さっていた。けれど――。

「なんでそんなややこしい考え方すんの」

 いやぁ、とリンカは笑った。

「ややこしくない訳なくないっすか? この状況。だいたい、ユリアさんが塩原を刺す理由なんてないじゃないですか」

 ユリアが男を殺すのに理由などいらない。

 けれど、それはどちらかというと説明ではなく弁解だ。綾乃はユリアのために弁解などしたくはないし、かと言って他の説明も思いつかなかった。

「つうかリンカこそ、なんでニコがやったと思うわけ?」

 綾乃が質問を仕返すと、リンカはシャワーヘッドを少し持ち替えて、だって、と軽く呟いた。

「ニコさん、真さんのことめちゃくちゃ可愛がってたじゃないですか」

 綾乃と違って、リンカの口からはいつでもすらすらと言葉が出る。 

「今日アッパーなもん飲んでたっぽいし、今まで無事に守ってきたのに、あんな野郎にやられちゃって、箍が外れたんですよきっと。死んでなかったからムカついたんじゃないすか? ユリアさんは、たぶんそれを庇ってるだけっていうか」

「ちょっと待って」

 流れる言葉に追いつけず、綾乃は口と同時に手を前に出した。はい、とリンカがすぐに話すのをやめる。

「もっとゆっくり――整えて喋ってくんない?」

「何かとっちらかってました?」

「主語がない」

「主語?」

「そう主語。主語と述語」

「えー」

 とリンカは小さく戸惑ったような声を上げた。

「そんなに省略してないですよ」

 そんなはずはない。

 頭の回転が速いからだろうか。自分が省略しているものに気付けないのかもしれない。もう少し速度をゆるめて考えてもらう必要がある。

「それ――アッパーなもんを飲んでいた、の主語はニコでいいの?」

「え。逆に誰かいます? 他に」

 いない。

「じゃあ、今まで無事に守ってきた、の主語は?」

 普通に考えれば「守っていた」という言葉の主語たり得るのは真だ。どういう感情であるか判然としないが、真がニコに特別目を掛けていたことは明らかだ。

「だからニコさんですって」

「ニコ?」

「はい」

 当然だろう、という顔でリンカは答えた。全く当然ではない。それはトリッキーな主語と述語の結び付きだ。あの自滅と自罰と自傷でせわしなく、息をつく暇もないニコが他者を、しかも真を守る?

 ありえない。

「目的語は?」

「はい?」

「だから、ニコが守っていた、の目的語――誰?」

「そんなに文法好きでしたっけ?」

 と首を傾げてから、リンカは端的に答えだけを告げた。

「真さんですよ」

 まこと、と綾乃はただ言葉を繰り返すしかできなかった。リンカは不思議そうな目をして言い添えた。

「ですからSVO的に言うと――ニコさんが、真さんを、守っていた、です」

「エスブイオー」

 それが何だか綾乃には分からなかったが、おそらく頭の良いことなので放っておいた。今、理解するべきなのはそこではない。

 リンカの言っていることはめちゃめちゃだ。

 たしかにニコはアッパーな薬もダウナーな薬も、酒も煙もいいだけ摂取するだろう。だからその主語がニコなのはまったく問題がない。が、そのあとの真を守ってきた、というのは意味不明だ。ニコになど守れようはずがないし、そもそも守る必要がないだろう。真は柔道の黒帯を持っていると聞いた。

 物理的な守るではなく、精神的な守るだっとしたらもっと理解に苦しむ。綾乃はニコ以上に精神の弱い人間をみたことがないし、逆に、真ほど精神の安定している人間にもほとんど会ったことがない。

 そこでリンカは突然声を上げた。

「えっ!」

「わ」

 予期せぬ音に綾乃は持っていたナイフを取りこぼした。塩原のへその下が、一瞬むちりとへこんで戻る。血は出なかった。

「なに――」

 顔を上げると、ちょうどリンカの瞳がこちらを向いた。

 茶色い双眸が、珍しくちょろちょろと不安定に動いている。困惑と思考を同時に押し進めているような動きの途中で、その瞳は自分の握っているシャワーのヘッドを見つけたようだった。

 リンカは水栓まで伸ばして、捻った。

 音が消え、途端に浴室は静かになった。

「すみません」

 そろりとした目付きでリンカは綾乃を見た。

「綾乃さんが知らないとは思ってなかったんで。あの、本当に」

 明らかに動揺している。しかし、綾乃には何の心あたりもなかった。

「なにが?」

 たぶん文法じゃないです、とリンカは言った。

「綾乃さんが分かってないの。主語と述語じゃなくて、前提ですよ」

「前提?」

「あの――私あんまり大きい音とか得意じゃないんで、出来れば控えめに驚くように努力してもらいたいんすけど、いいすか」

「は? なにが?」

 リンカは苦笑なのか微笑なんかよくわからないやり方で笑って、浴槽を盗み見た。塩原はあいかわらず、ぐったりと静かに豚の顔をしている。鼻が上を向いて、目が細い線になって、顔全体が上方に引っ張られている。頬もやや上を向いて、上唇がめくれ上がり、前歯を5ミリくらい出して。

 死んでいる。

「真さんは女性ですよ」

 静かな浴室に声が響いた。

 綾乃は、塩原からリンカに視線を戻して、放たれた言葉の意味を目で見ようとした。けれど、もうリンカの口は動いていない。言葉は消えている。

 女、と聞こえた気がした。

「は?」

 真さんは女性、と。

「女?」

「はい」

「真くんが?」

「そうです」

 と軽くリンカは頷いた。

「女?」

「はい」

「真くんが?」

「はい」

「女なの?」

「女です」

「真くんが――?」

 まだ続けます? とリンカは笑った。

 綾乃は、なんだか良く分からないまま息を吸った。もしかしたら吐いたのかもしれない。一瞬だったのでどちらだか自分で分からなかった。吐いてから吸ったのかもしれないし、吸ってから吐いて、また吸ったかもしれない。

 体の中を何かが這い回っっている。静かに、けれど確実に。どんどん大きくなる。

 これだけ完全で純真な怒りを抱くのはいつぶりだろうか。けれど、全く初めてではない。子供のころは、常にこの感情と共にあったのだ。それは横にユリアがいたからだ。あの頃は、友愛と共にこの子供らしい、透明で純真な怒りを抱えながら生きていた。

 ユリアは昔から、横暴で粗暴で乱暴で、加えて、大事なことを綾乃には絶対に教えないのだ。

 あの日、ユリアがコンビニで疑うような眼差しを向けたのは、このことだったのだ。綾乃がそのことを知っているかどうか、見極めていたのだ。

 思い返せば、真が女であれば、合点のいくことがいくつかあった。今日のことだって――。

「え?」

 という綾乃の声に、リンカが小さく首を傾げた。

「なんです?」

「ニコが、真くんを、守っていた?」

 綾乃はさきほどのリンカの言葉を繰り返した。

「あんな野郎に、箍が外れた?」

 リンカは小さく縮こまった声で、それも分かってないですよね――と呟き、浴槽の中に転がったナイフを拾い上げ、綾乃の顔色を伺った。

「あの、ですから真さん、さっき塩原にやられちゃったんすよ」

 ははは、とリンカは笑った。それは場の空気をどうにか、軽いものしたいという心遣いに違いなかった。綾乃は、今一度塩原の姿を眺めた。

 素っ裸で、血だらけで、顔にストッキングを被っている。こんな所で、一昔前のバラエティのような姿を晒して。

 綾乃はリンカの手からナイフをひったくり、塩原の腿に突き刺した。

「死ね!」

 血はもうほとんど流れない。体の位置がずれて、ストッキングでめくれた唇がもっと捲れ上がり、汚い歯の全貌が見えた。あはは、とまたリンカは笑って見せた。

「もう死んでると思いますよ」

 そんなことは、今や何の救いにもなりやしない。

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