第9話 45分後 違う名前で呼ぶ
なぜだか分からないが、綾乃は塩原をポリバケツに詰め込むことにした。
店には常にポリバケツが三つあって、一つは客の体や男性器を拭いたおしぼりを入れる物、一つは口から吐き出した精液のくるまったおしぼりを入れるもの、もう一つはそれらの予備だ。
綾乃はその予備のことをすっかり失念していて、精液が入っている方のポリバケツをもう一つの上にひっくり返し、空になったものを塩原の転がっているボックスまで持っていった。
ボックスの前で塩原を上から覗き込んでいたリンカが顔を上げた。
「え、それどうするんすか」
「とりあえず入れる」
「とりあえず? 入れる?」
たしかに意味不明だ、と綾乃も思った。けれどそうした方がいいような気がしたのだ。塩原はかなりの小男だが肉付きがよく、想像していたより重かった。なんとかポリバケツに納めた塩原を、リンカは珍しい動物でも見るように眺めて、短い感嘆の声を上げた。
「ぴったり」
ポリバケツにこびりついた消毒の匂いで、塩原の体臭は上書きされた。
「綾乃ちゃん」
甘ったるい声がして振り返ると、無表情なユリアが真を連れて戻ってきている。真はいつものスーツではなく、繋ぎにTシャツの姿でいた。やはり、真もいつもと変わらない平坦な表情をしている。
ユリアは一瞬ポリバケツを見てから、綾乃に目線を戻した。
「車は?」
「古本屋の前」
「店の裏まで持ってきて」
「持ってきてどうすんの」
「あと煙草」
「煙草買ってどうすんの」
「吸う以外になんかある?」
ユリアはいつもの綾乃にだけ向ける粗雑な物の言い方で続けた。
「色々考えるから。真くんとリンカも連れて外の空気でも吸ってきて」
まるで心遣いのように言うが、それは命令だった。
「こいつは?」
ポリバケツを示すと、ユリアは一瞬だけ動きを止めた。それから、顎で事務所を指し示した。
「あっちに入れて」
しかし、事務所にはニコがいるのだ。
ニコは血で汚れたバットをいつまでも握り絞めたままでいた。激昂も混乱も落胆もしておらず、強いていうのなら呆然としていた。それは綾乃にとっては初めて見る表情だった。ニコはどんな状態であっても強い自我と共にある。その自我が、今は少しニコの体から離れているように見えた。
「早く」
また命令。
もう少しごねても良かったが、リンカと真が戸惑っているようだったのでやめた。
綾乃はニコの座っている壊れたソファーの横にポリバケツを置いて、さっさと言われた通りに真とリンカを連れて外へ出た。何がなんだか分からない。
外の空気は部屋の中の空気よりも重くて息苦しい。
やはりこの車は世間から離れている、と綾乃は思った。名前の思い出せないこの車。馬鹿に車高が高くて、五人乗りなのに五人乗るとぎゅうぎゅうで、だだっ広い荷台は未だに何にも使われていない。
「とりあえず、コンビニ行こうか」
静かな同意の空気が流れる。
リンカも真も、もちろん綾乃も、恐らく何の未来も想像できていないが、何かを摂取した方がよいという予想だけはついていた。
「お腹は? すいてないの?」
綾乃が聞くと、真はいつも通りの控えめな笑みを漏らした。
「あまり減ってないです」
「なんか食べたほうがいいんじゃない? からあげとか」
するとリンカが極小の後部座席から首を突っ込んでくる。
「からあげはだめっすよ。からあげは」
「なんで」
「だって――肉じゃないですか。お菓子とかアイスとかにしましょうよ」
意味が分からない。真は微かに笑ってリンカを振り向いた。
「あれあるかな? この前食べた」
ああ、とリンカも微笑む。
「すっぱいやつですか? グミの」
「そうそう。すっぱーちょ?」
「すっぱちょです。すっぱちょ」
すっぱちょか。と真は繰り返した。二人は、美味しくないけど癖になる、という話を続けた。綾乃は、すっぱちょ、という言葉が頭の中でゆっくり旋回するのを感じた。すっぱちょ。この二人はあとでそのすっぱちょを食べるのだろうか、と考える。
よく分からない。
車を降りると、リンカが無邪気に声を掛けてくる。
「からあげ買うんですか?」
なぜか急に、体から血が引いて行った。
塩原の頭からは血が流れていた。目は閉じていて、靴を脱がした足先はだらりとしていた。体臭があった。けれど、体温のことが思い出せない。塩原には体温があったのか。あれは――塩原は死んだのか?
「綾乃さん?」
「真くん!」
リンカの声を無視して、綾乃は反対側へ出た真に車の鍵を投げつけた。え、という小さな声を出して、真が片手で鍵をキャッチする。彼の驚きはいつも平坦だ。
「ごめん。煙草カートンで買っといて。後で払う」
「はい。あの――」
真は何かを言いかけていたが、綾乃はもう走りだしていた。
そうだ。いつもそうだった。どうして自分は大事なところで大事な場所から離れてしまうのだろう。こうして離れているうちに、いつも大事なことは起きているのだ。自分のいない間に。
店に走り入ったとき、綾乃はあの時のことをまた思い出した気持ちになった。
あの日、あの神社で起きた出来事を綾乃は常に覚えていた。ひと時も忘れず頭の中にあった。けれど、ずっと覚えているということは、ずっと忘れているのとほとんど変わらない。
事務所に入ったとき、ユリアはナイフの柄を握っていた。
それはすでに、塩原の胸の辺りに深く突き刺さっていた。綾乃を見止めた瞬間、ユリアが指先の力を抜いたのが分かった。それがどういう動きなのか、綾乃はすっかり理解していた。そうしてやはり、思い出したのだ。
あの神社の灯籠には一度も光りが灯らなかったし、苔からは湿った匂いがしていたし、石畳はずっと乾いていた。そういうことを、ずっと覚えていたのに、今また思い出したように――。
ユリアはナイフを引き抜いた。
血。
「ユリア」
と、綾乃は違う名前でその女を呼んだ。彼女の本当の名前ではなく、誰かが適当に決めた名前で呼んだ。
するとその女は、ぽつりと呟いたのだった。
「だって生きてたから」
生きていたから。
だからなんだ、と綾乃は思わなかった。生きていたから殺した。それはごく自然なことだ。少なくとも、ユリアにとっては当たり前のことだ。むしろ、なぜユリアが今までそうしなかったのか、そちらの方が不思議だった。なぜユリアは今まで男を殺さずにいたのだろう。
ユリアはすぐに正気を取り戻したらしく、あの時と同じような目で綾乃を見た。自分にまたがる父親に気付かれないように、微かに首を振っていた時と同じ目で、綾乃の動きを制止するような顔色をした。
この女は横暴で粗暴で乱暴で、暴く以外に物事の納め方を知らず、綾乃にいつでも口を噤ませようとするのだ。何もさせまいとする。
綾乃はユリアの手からナイフを取り上げ、ポリバケツの蓋を閉めた。飛び出ていた塩原の頭が邪魔で、蓋はうまく閉まらなかった。
「着替えてきて」
綾乃の言葉に、ユリアは大きく眉をひそめた。何を言っているのか理解しがたい、という表情。
「早くして。真くんとリンカが帰ってくる」
ユリアは若い獣のような目でポリバケツを眺めた。
「どうするの」
「風呂場に運ぶ」
「運んでどうするの」
「バラす」
「杏ちゃんってバカなの?」
「うるさい! いいから早く行って!」
ユリアは酷く不愉快そうな顔をしたが、大人しく衣装部屋の方へ去っていった。
綾乃は、にわかに沸き立った自分の血肉を感じていた。
ついに来たのだ。もう二度とこないかもしれないと思いながら、こんな所まで来てしまった。滑らかに動く肉を感じる。しかるべき時に、しかるべき働きをすることが出来る肉体を自分は持っている。
この日をずっと待っていた。こうして、ユリアに一種の復讐を遂げる日を待っていたのだ。もう自分は、ただ何かが終わるのを待ったりはしない。待てと言われて、じっと見ているだけの子供ではない。
「あは」
と、突然斜め後ろから声がした。ニコが笑ったのだ。
やはり綾乃は音を失ったように思ったが、もはや、そんなことは気にならなかった。ニコの腕とシャツにも、少し返り血がついている。
「あんたも着替えてきな」
綾乃はそう言って、ニコの反応を待たずポリバケツを引きずり始めた。
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