第8話 2分前~25分後 夜が停滞する

 ビーチボールが目の横を飛んで行き、綾乃は叫んだ。

「聞いてないし!」

 べよん、と不細工な音を立てて助手席の背に当たったビーチボールは、妙な角度に跳ねて、運転席のすぐ後ろに座っている綾乃の手元までやってきた。まだ空気が入りきっておらず、べこべこしている。

「あー、言ってなかったかもぉ」

 ごめんねー、と言いながら運転席のユリアは全く反省している様子がない。

 早番が終わってすぐお菓子の買い出しに向かわせられ、やっとのことでユリアの愛車に乗り込んだ所だった。いつまでも出発する様子がなかったので、他に誰かくるのかと綾乃は聞いたのだ。

「普通言うでしょ!」

 この旅行が計画された時、綾乃はその場にいなかったのだ。

 後になっていつものようにユリアに酷く適当な説明を受け、酷く適当に答えただけだった。行くとも行かぬとも言わなかったように思うが、いつの間にか参加することになっていて、ずるずると今日に至った。それについては全く文句はない。自分のせいだ。

 しかし、真が行くなんてことは聞いていなかった。

「でもいつものメンバーって言ったしー」

 やはりユリアは全く悪いと思っていない。たしかに真はいつものメンバーの一員に違いないが、あくまでも彼はボーイだ。こんな風俗嬢だらけの旅行に一人連れて行かれるなんて可哀想だし、風紀的にまずい。

「いやでも綾乃さん、仲直り作戦がメインのお出かけなんで」

 リンカが綾乃をなだめに入った。

「は? 仲直り? 誰と誰の?」

「まじすか。気付いてなかったんすか?」

 それで初めて、綾乃はニコと真が喧嘩しているらしいということを知った。

 リンカが言うには2人の仲はしばらくぎくしゃくしていたが、今回の旅行に真が参加することにより、元の仲に戻れるくらいまでには現在回復しているのだという。ただし、この旅行がなければどうなるか分からない、綾乃が不参加だと計画に影が差す、云々。

「ね。二人のために綾乃さんも人肌ぬぎましょうよ」

 リンカはニコニコ笑った。適当な口車に乗せられているような気がする。しかし、ここまできて、綾乃一人が行くのを辞めたところでどうにもならない。だから黙っていた。

 しかし、釈然としない話だ。

 ニコも真も、人と喧嘩する機能がついているようには思えない。一体どんな内容で喧嘩するというのだろう。ニコが帰ってきたら聞いてみようかと思ったが、果たして本当のことを言うのかどうか。

 閉店作業が終わり次第合流するはずの真が遅れているというので、ニコを迎えに行かせたのだという。今はその待機時間なのだ。先に仲直りをすませようという魂胆らしい。

 綾乃は今日のニコの様子を思い出そうとした。アッパーだった気もするし、アッパーに見せかけたダウナーだったような気もするし、全くの平均の状態だったかもしれない。というより、どれがニコの正常な状態なのか、綾乃には分からなかった。ただ、錯乱する前のぼうっとした感じはなかったので、まぁ大丈夫だろう。

 べこべこのビーチボールを張り裂ける直前まで膨らませて、空気を抜いて、という無為な暇の潰し方をしながら綾乃は二人が来るのを待った。が、二人はなかなか戻ってこなかった。

 店はすぐそこだし、閉店作業はとっくに終わっているはずだ。どんなにたらたらしていたっていい加減戻ってこないと可笑しい。そう思ったところで、ユリアが突然車の鍵を抜いて綾乃へ投げつけてきた。

「よろしく」

 それだけ言ってさっさと外へ出て行ってしまう。すぐにリンカも出て行った。

「ちょっと」

 綾乃の声は虚しく車内に響くだけだった。

 子供じゃあるまいし、そんなに何人も迎えにいく必要などないだろう。やはりどうもみんな真には甘いのだ。ときどき子供を心配する親のような振る舞いをする。あれだけ物理的にも精神的にも大人の真を捕まえて。

 けれど、少し経ってみると綾乃も妙にそわそわしはじめた。よくよく考えれば、ニコが暴れ回る可能性は、常にゼロではない。いや、むしろ常に50%くらいはあるのだ。もしそれで揉めているのだとしたらと思うと気が気でなかった。

「あー、もう」

 綾乃は仕方なく車を路肩へ止め、外へ出た。

 少し前まで雨が降っていたせいで、コンクリートから立ち上がってくる湿った空気には、土を掘り返した後のような匂い籠もっていた。本当の夜が始まるまでのだらりとした空気が、治安の悪い夜の路地を占拠している。

 こんな日はもう訪れないかもしれない。

 店の外階段を上り始めたとき、綾乃は突然そんなことを思った。

 取り分け、こんな日々は――。

 それは過去を思い出すように目の前のものごとを知覚している自分を発見したからだ。踏みしめる度にへこむ階段に、薄まったペンキの匂いに、軽い足音に、自分の手。手の甲に走る筋と血管。あるいは体液を流しすぎた下半身の重怠さ。重くて邪魔な睫毛。

 見えるものすべて。

 この場にいながら、もう懐かしく感じている。もう遠い。それは体に染みこんでいた「今」が、にわかに剥がれ落ちていくような感覚だった。

 頭上から虫の気配がして綾乃は顔を上げた。店の扉の前で、羽虫が電球に衝突し続けている。軽い音をたてて店の階段はへこみ、階上から三歩手前でインターホンの音がする。そこでようやく、綾乃は違和感を覚えた。

 なぜ電気を消していないのだろう。

 閉店作業の一番最初は店の入口の電気類を消すことだ。入口の上の蛍光灯や恥ずかしい店名が輝く看板や、もちろんインターホンも。それに、中からは驚くほど物音がしなかった。いつでも集まれば姦しい女たちの声が聞こえてこない。

 綾乃が扉を開くと、声が飛んできた。

「そこにいて!」

 それは明らかにユリアの声だった。間の抜けた声でいつも隠している本質が、溢れ出ている。綾乃は声に反抗して店の中へ走り入った。

 ボックスの前に立っているユリアが顔を向ける。睨んでいるような目。その横にいるニコの姿を、綾乃の目は捉えなかった。それより前に、ボックスからはみ出ている物体を発見したからだ。

 男の革靴。

 それはつま先が上を向いていて、極端にすり減った汚い靴の裏を見せつけるようにじっと止まっていた。ユリアが疲れ切った息を吐くのが聞こえる。すると、やっと綾乃の目は、ゆらりと動いているニコの姿を捉えた。ニコは何かを大事そうに握り絞めている。なんだろう。金色の。

 バットだ。

 血が付いている。

「あは」

 とニコは軽い声を出して笑った。

 綾乃は世界の音を失った。

 ボックスには、人間の形をしたものが倒れている。

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