第7話 15年と10ヶ月前 君の襟に茜さす
茉莉は短パンのポケットから何かを取り出して、杏の前で開いて見せた。青く光る酒蓋がひとつ乗っていた。ここの所、近所の酒屋には鈍い赤色をした陳腐な酒蓋しか置かれていなかった。二人はつい数日前、新しい秘密の場所を探しに三つも地区の離れた場所まで遠出をしたばかりだった。どのゴミ捨て場にも酒瓶は置いておらず、杏は足が痛くて立ち止まって泣いた。茉莉はそれを置いてもっと遠くへ行ってしまった。
一人で家の前まで帰ってきたとき、杏はまた泣いた。着いていけばよかったと思ったのだ。どうして一人でなんか帰ってきたのだろうと不安になった。
神社にはいつも誰もいなかった。
珍しい酒蓋を見せびらかす茉莉の、襟ぐりの緩んだシャツに西日が差していた。胸の辺りの見慣れない小さな膨らみが影を作っていた。ぷくりと盛り上がった突起が何を意味するかその時の杏はまだ知らなかった。
いいだけ見せびらかして、茉莉はまた短パンに酒蓋をしまい込んだ。そのくるぶしのあたりに泥が跳ねているのを杏は発見した。けれどそれは泥ではなかった。
次の日、茉莉は学校を休んだ。
杏が連絡帳を持って帰ったとき、茉莉の家から出てきたのは知らない大人の男だった。茉莉は出てこなかった。母親も出てこなかった。玄関からは湿った黴の匂いがしていた。杏は帰り道に一人で酒屋に行ったが、やはり鈍い赤色のつまらない酒蓋しか見つけられなかった。
しばらくして、茉莉は学校に来て、また別の珍しい酒蓋を杏に見せびらかした。それはスカートのポケットに入っていた。
茉莉はお化けのように髪が伸びた。お化けのように体の形が変わった。杏はお化けが嫌いだった。嫌いなものはすべてお化けに見えた。
あの日茉莉は帰りたくないと言って、いつまでもウジガミ様の下から動かなかった。杏は、母の言うウジガミがどういう神様だかは知らなかったが、真昼でさえうっそりと暗い空っぽの社の中に、何者かがいることだけは分かっていた。それはお化けと同じような、恐ろしい存在のしかたをしていた。
日が暮れきって、いよいよ杏は帰らなければならない時間になった。茉莉はまだ帰らないと言って、しかし、何をするわけでもなくじっとしていた。しばらく逡巡していた杏に対して、茉莉は一人で帰るのが怖いのかと笑った。かっとなって、杏はそこから出て行った。悠然と、わざと、ゆったりとした足取りで参道の真ん中を歩いた。
完全に神社から離れてしまってから、杏は急に背中が恐ろしくなった。あのうっそりとした社の何者かが、外に出てきたような気がしたのだ。それでも悠然と、ゆっくりと家まで歩き通した。走ったら何か恐ろしいことが起こるような気がした。そうして玄関の前まで来て、家から漏れている明かりを頬に感じたとき、なんて恐ろしいことをしてしまったのだろうと思った。
杏は走って神社まで取って返した。
茉莉のくるぶしに発見したアザを思い出した。トイレについた血を思い出した。めくれたスカートを思い出した。酒蓋を握り込む指を思い出した。膨らんだ胸を思い出した。湿った黴臭い匂いを思い出した。帰りたくないというときの声を思い出した。
鳥居の前まで来たとき、ウジガミ様の前にはもう人影がなかった。
杏は放心したような、緊張したような妙な心持ちになった。人影がないということを目が認めている他に、耳が音を拾っていた。それは生き物の音だった。その日は風が吹いていなかった。生き物が蠢いている音がだけが聞こえた。音だけが聞こえていた。
杏はその場に立っていた。
じっと立っていて、息を殺した。しかし、自分の呼吸が分からなかった。それが自分の呼吸なのか、茉莉の呼吸なのか、もう一つの影の呼吸なのか分からなかった。もう一つの影は男だった。茉莉の家から出てきた男だった。男は熱心に動いていた。
茉莉は顔を背けるようにしていた。その顔は杏の方を向いていたが、目は何も見ていないように思えた。
砂利が音を立てて、杏は初めて自分が動いたことを知った。茉莉の目が動いた。影は変わらず茉莉の体をまさぐっていた。茉莉は杏を見止めて、けれど驚きはしなかった。ただゆっくり、首を振った。何かを制止するように首を振っていた。
杏は、動かない自分の体を恐ろしく思った。
何かが終わるまで、杏はずっとそこに立っていた。立ったまま、動けないでいた。じっと固まって。何かが終わるまで。
ただ立ち続けていた。
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