第6話 13日前 瓶の中、ビー玉が鳴る
きっこう祭り、という言葉を知ったとき、綾乃の目の前には毛のない中年男性のつるつるとした下腹部があった。そのせいか、あるいは単に語感のせいか、今でも綾乃の頭はそれをいかがわしい言葉だと勘違いする。
二年くらい前までこの店には衣装売りが来ていた。
毎日体験入店を募集している風俗店には、貸し出し用の衣装が山のようにあり、それを着潰すような女もいるが、多くは自分の気に入った衣装を自分で買っている。今は制服風のワイシャツとスカートで統一されているが、当時は服装が自由だったので、やすい水商売用の衣装を売る業者が入っていたのだ。
その衣装売りは本名か偽名か知らないが、アサキと言って、いかめしい顔をしたスキンヘッドの男であり、衣装を詰めた透明のビニールを背負ってサンタとオカマとホモを自称していた。絶対にゲイとは言わなかった。
ラメがふんだんに入ったタンクトップに、白いミニスカートを合わせて履いていたアサキは、この町に点在する風俗店を巡り歩いていた性犯罪者だ。
というのも、彼は、実際には異性愛者で、業界に慣れていない新人に自らの毛のない下腹部を晒すことを生き甲斐としていたらしい。
「ほら、ねえ、ここよここ」
男はここが気持ちいいのよ、とアサキは女声で言い「蟻の門渡り」という言葉を実地で教え、エスカレートすると自分のモノを咥えろと要求してくるのだそうだ。
綾乃はもう新人ではなかったので、やられたことはない。その代わり、男性器を太ももに挟み込んで「今日は女の子よ」というギャグを毎回やってきた。そうでなくてもアサキは座ると常に下半身が露出している。パンツという文明に迎合しない人間だったのだ。
そういう訳で、綾乃がその言葉を聞いたとき、目の前には不自然な形をしたパイパンがあった。
「もうすぐきっこう祭りね」
アサキは何度か男性器をはさみ直しながら言った。
「きっこう祭り?」
「あら、あなた知らないの? モグリね、モグリ」
それがこの町で開かれる祭りの正式名称なのだという。
路地という路地に、笹や竹にぶら下がったくす玉や、網のようなものを飾り付け、短冊に願いごとを書いて飾ると願いが叶ったり叶わなかったりする。
「七夕でしょ」
「え? なに?」
綾乃の言葉に、斜め前を歩くユリアが振り返った。ブドウ飴の着色が唇に付いている。
肩にべたりと他人の汗が触れて、綾乃は瞬間的に苛立った。今更他人の体液など気にならないはずなのに、なぜか外だと不快に感じる。両端の屋台に並んでいる人間の声がうるさくて、自然と声が大きくなった。
「この祭り! 七夕でしょ?」
ユリアは、今まで舐めているだけだったブドウ飴をかみ砕いた。なぜ会話をはじめたタイミングで噛むのだろう。
「知らない。っていうか、いまさら杏ちゃんとお祭り来てもたのしくなーい」
「本名やめてよ曽根さん」
そう言い返すと、無言で二の腕を殴ってきた。ユリアは自分の名前、とりわけ名字が嫌いなのだ。とはいえ、綾乃もユリアと同じ気持ちだった。小中高と同じクラス、同じグループにいて、その後の仕事もほとんどずっと一緒になのだ。今更連れ立って祭りに来たところで、楽しもうという気概を持てない。けれど――。
「なら断れば良かったじゃん」
拒否権がなかったわけではないのだ。
ユリアはガリガリと音を立てながら、だって可愛そうじゃん、と答えた。
「若い子たち行きたがってたしー。あと真くんも」
そうだったろうか。他はともかく、真はそれほど行きたいという感じではなかった。最初に騒ぎ出したのは店の学生組だ。町を挙げての大規模な祭り中、シャッターを閉めたり、小さな屋台を出したりする所がある中、あの店は毎年通常営業をしている。
こんな祭りの日に来る人間がいるのか、と客の誰もが言うが、質問をする前に自分を省みて欲しい。自分はアルコールと喧噪で安易に性欲を高まらせて来店しているくせに、よくこんな日に、なんて言えるものだ。
むしろ稼ぎ時なのであって、店はいつもの倍は出勤人数を増やしている。
それで無理矢理出勤にされた子たちが、30分でも良いから祭りに行きたいと綾乃たちに頼み込んできたのだ。こういった交渉は古株の役目だ、ということになっている。
幸いボーイの義春と店長の岩滝は、ちょうど二人で祭りに繰り出して帰ってきた所で、気分よく酔っていたため主張は簡単に通った。
ただし、きっかり45分の制限つきの順番制。学生その他若い衆は真のお供付きということだった。そして謎の年功序列制度により、綾乃とユリアがまず放り出されたというわけだ。
「ねー、ないんだけど」
少しも振り返らずユリアは人混みを突き進んでいる。
「なに」
「ビーフジャーキー屋」
「ないでしょそんなの」
「えー、昔行ったじゃん。砂糖付いた生姜とか売ってるとこ」
「何十年前の話よ」
きっこう祭りという名称こそ知らなかったが、綾乃はこの祭りを知らなかったわけではない。かなり大きな祭りなので、小学校のころは緊張しながら電車に乗り出掛けたものだ。もちろん、ユリアも一緒だった。あのころは綾乃はまだ太っていた。そうして、あのころもユリアは一度も振り返らなかった。いつもそうだ。
「つうかその店、ここの祭りじゃなくない?」
「えー絶対ここだってー」
ユリアが今すぐビーフジャーキーが食べたいと聞かないので、コンビニで買えばと提案したらあっさりと採用された。
二人ともいまさら特別に見たいようなものもなく、喧噪を避けている間に、店の近くの神社に辿り付いた。ほとんど山に近い傾斜を登らないといけないためか、町中に比べるとぞっとするほど人気がない。というより、綾乃とユリア以外誰もいなかった。
無人の神社だ。
ユリアは自分の嫌いなコンビニには行かせないくせに、綾乃の行きたくない所には構わず入る。横暴で粗暴で乱暴な、暴く以外に物事の納め方を知らないモンスター。
本当はそういう人間なのだ。
「まだ15分もあるー」
ユリアは賽銭箱の横に座って、乾いた肉を噛みちぎった。いつの間にかまたぶどうゼリーを手にしている。昔から今まで変わらず売られているということは、そこそこ人気のある飲み物なのかもしれない。
別にまだ蝉はないていなかった。
別に、というのがどういう感傷なのか、自分でもよく分からなかった。妙な副詞だ。別にとか、特にとか、なぜかとか。あってもなくてもよいようなものなのに、なぜ付けるのだろう。蝉はないていない。それだけでいいはずだ。
また主語と述語のことを考えている自分に嫌気がさした。ユリアとの間にはそれが必要ないはずなのに――必要がないからなのか、考えてしまう。
綾乃は少し間を開けてユリアの隣に座った。腿の裏がひんやりとする。狛犬の横顔は溶けていた。手水の水は止まっていて、神木のしめ縄は汚れている。神社はどこも同じ佇まいをしている。神社という一つの場所なのだ。
吐き気がする。
「っていうか杏ちゃんってぇ、真くんのこと苦手なの?」
突然意味の分からない言葉が飛んできて、綾乃はユリアの顔を見た。
ぽってりとした白い肌に、桃色のチークがうっすら乗っている。茶色いふわふわした髪が風に吹かれるのを見て、ぞっとした。
あまりにも女だ。
ユリアはいつものように前だけを見て肉をかじり続けた。
「は? なに突然」
「だってさー、杏ちゃんなんか冷たいっていうか、よそよそしいっていうかぁ、優しい気がするー」
「普通に優しいでよくない?」
冷たいとよそよそしいが「優しい」と同列なのはおかしい。
「だからぁ、杏ちゃんが男に優しいのって気持ち悪いじゃん?」
「真くんいい子だし。そりゃ優しくもするでしょ」
しかし、よくよく考えてみると、綾乃には人生の中でこれほど男と親しくした記憶がなかった。
最近では真も含め、馴染みのメンバーでかならずコンビニやファミレスに寄り道をしている。これは規律違反だ。ボーイも女同士も、店外での私的な交友は禁止されている。女の子同士だけならまだしも、ボーイを含めどこかに寄るなど、少し前の綾乃だったら絶対にしなかった。男女の色恋関係に巻き込まれるのだけは避けたい。
「つうか、あんただって真くんに優しくしてるじゃん」
というより、みんな真には優しいのだ。
今までのボーイと違って、真はちゃんと仕事をするし、文句も言わないし、女を馬鹿にしたりもしない。彼は、男とか女とか、そういう人格をしていないような気がする。だから楽なのだ、綾乃も。
ユリアは鼻歌を歌うように答えた。
「私はもちろん優しくしてるよ。真くんが楽しそうだと嬉しいしー」
綾乃は心底ぎょっとした。再びユリアを見ると、いつもと変わらない女の横顔がある。女は――ユリアは、ぱっと綾乃を見て、嫌そうに目を細めた。
「なに」
「いや、別に」
「杏ちゃんってさー、私のこと人間の心を知らない化け物だと思ってるでしょ」
「そこまでは思ってない」
本当は思っている。というより、そうならない方が可笑しいと思っている。
ユリアは何も答えず、半固形物を吸い込んだ。
ずるずるとした音が聞こえてくる。
ずっと日常だ。いつまでも綾乃はユリアと同じ日常を過ごしている。小学校、中学校、高校、それから後の売春の時代。何度源氏名が変わろうと、人間の中身は変わらなかった。好きなものも、嫌いなものも、ずっと一緒。ずっと同じ。
けれど、そんなことが本当にあり得るのだろうか。
「神社って、どこも同じ匂いがする」
綾乃が呟くと、ユリアは鼻で笑ってみせた。
「なにそれ。精液の匂いとか?」
笑えない冗談を言うところも、昔から少しも変わらない。
神社はユリアが父親に犯されていた場所だ。
そして、綾乃がそれを見ながら何も出来なかった場所でもある。
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