第5話 1ヶ月と5日前 鼻先に香る

 ニコの体からは時々薬の匂いがする。それが本当に薬の匂いなのかどうか、綾乃には分からない。消毒されきった布のような匂いがするのだ。

「ふふ」

 腕の中でニコが笑った。それは声というより、体の笑いだった。くつくつ、という形容がもっとも合っている、体の揺れの笑い。

 待機室の関節照明がちょうど真上から落ちて、ニコの顔の上で化粧がだらしなく滲んでいるのがよく分かった。黒いショートボブの髪が涙で頬に張り付いている。

「わたし」

 とニコは口にした。

 けれどそれは意味を孕まない音だ。意味を紡ごうとして吐いたではない。だから続きはない。主語ではないので、述語もない。綾乃にはそういうことがもう分かるようになった。ニコはしばらく赤ん坊のような呼吸をしていて、くつくつといくつか笑った。

 かと思うと急に、獣のように勢いよく起きあがった。強い瞬き。脳に薬が到達したのだろうか。瞳孔が開いている。

「あは」

 と、ニコはいつものようにゆるく笑った。

「すみません。もう、大丈夫です。おっぱいありがとうございます」

「別におっぱい貸したわけじゃないんだけど」

「でも、いいおっぱいですよ。強くて。ねぇ?」

 同意を求められても困る。まだ言葉がうまく繋がっていないような物言いだ。

「客来てないし、まだ横になってれば?」

 綾乃の言葉に、へへへ、と笑い、ニコは膜に包まれているような遅い声で答えた。

「もうへーきなので、かおを作りなおしてきます!」

 中空にぬるりと立ち上がり、踊る床を進むような奇態な足取りでニコは待機室から出て行った。暗幕が捲られ、元の位置に戻る。耳に喧しい音楽が戻ってきた。

 ニコが倒れている間、なぜか綾乃は音を感じなくなる。肌を揺らすほどの大音量が聞こえなくなるのだ。

 理由は分からない。もはやニコが倒れるのは日常であるし、薬が効いてくるまで、泣き続け、意味のわからない言葉を吐き、ひくひく揺れているのは、もう見飽きてしまった。落ち着くまで抱き留めていればいいだろう、くらいのことしか思わない。

 それでもニコは綾乃の音を奪う。

 麦茶を取りに事務所まで行くと、真が申し訳なさそうに謝ってきた。ニコの介抱を任せたことを詫びているらしい。全くもっていつものことなので、気にしないようにと返すと、真は目を細めた。

「そうですか」

 それがどういう表情なのか、綾乃には読み取れなかった。ただその顔がしこりのように頭に残った。

 深夜になって、ぬるいとあたたかいの端境にいる唐揚げを手に、コンビニの自動ドアを出てきた時も、綾乃はまだそのことについて考えていた。

 真は何を感じてあの顔をしたのだろう。

 外に出て五歩歩くと、灰皿の前のベンチに真を挟んで、ユリアとニコが座っているのが見えた。みんな笑っている。

 綾乃は立ち止まって、何かを考えようとしたが、適わなかった。

「なにしてんすか」

 後ろからやってきたミクが、買ったばかりの課金用のコードをスマホに打ち付けながら声を掛けてきた。なにをしている、という言葉を綾乃は一瞬考えた。何もしていない。

 ああ、とミクは何か合点がいったような声を出した。

「仲いいですよね。あの三人」

 ニコと真とユリアのことだ。

「そう?」

 確かに、あれは「仲が良い」と形容するべき様子なのかもしれない。互いの顔を見合い、笑い合っている。ミクは珍しく画面から顔を上げた。

「え、その言葉はどう捉えたらいいですか? 綾乃さんは仲が良いとは思っていないということです? それとも、仲が良いように見えるのが納得いかない?」

「別に――仲が良いのかぁ、と思っただけ。つうかあんたこそ、それどういう意味なの」

 まあね、とミクは綾乃の言葉をほとんど無視して答えた。

「どっちかはヤってると思いますよ」

「は?」

「でもニコさん義春さんの女でしょ。ユリアさん店長の女じゃないすか。ややこしいですよね」

「人の話聞いてる?」

 この業界では、スカウトした女はスカウトした人間が面倒を見るのが基本だ。サービス向上のためにあれやこれやと、講習という名をかたってセックスしようとするボーイはことの他多いし、それがぐずぐずとした定期的な肉体関係になることも少なくない。

 今の店は講習をしないというのが売りのようだが、ユリアとニコがそれぞれ店長と義春の女だというのは、暗黙の了解として知れ渡っている。

 ミクはまた綾乃の言葉を無視し、ひとりごちた。

「それに、真さんがセックスしてるとこって、あんま想像できないですよね」

 ほら、と言って脈絡なくスマホの画面を見せてくる。何かと思うと、今までの話とは全く関係がない。課金して手に入れたゲームのアイテムのようだ。

「ドブっす」

「何がほらなの」

「ドブだぁ」

 急激に落ち込み、ミクはその場にしゃがみ込んだ。こうなったらもう、まともな返事は返ってこない。仕方がないのでその口に唐揚げをつっこんだが、嫌な顔ひとつしか返ってこなかった。

 仲が良い三人が、こちらを見て笑っている。なるほど、と綾乃は感慨のない言葉を思った。仲が良いのはよいことだ。揉めるより余程いい。

 ただ綾乃には、仲が良いというのは仲が悪くなる前兆にしか見えない。

「ほら二人ともー、そろそろ帰るよぉ」

 気が付くとユリアが目の前にいる。綾乃はその顔をまじまじと見た。

「なーにー?」

 甘い声を出しながら、ユリアは外面を半分外してじろじろ見るなと目を細めた。何も詮索するな、という目だ。この世の全てに対して。

 別に、ユリアが真とどうなろうが、本人がそれいいのならば、綾乃には特に言うことがない。面倒にならないのならば、という条件付きではあるが。まだドブを引き摺っているミクを無理矢理立ち上がらせて、綾乃は答えた。

「ドブ引いたんだって」

 ドブです、と自己紹介のようにミクは繰り返した。ユリアは項垂れるミクの頭を撫でながら、慈愛たっぷりの声と顔を作って返した。

「また稼いで課金しな。ねー?」

「うう。はい」

 この世界では、何もかも自己責任なのだ。誰も何も、本当の助けにはならない。とりわけ特別な情の類いは、単なる破滅の前触れであることが多い。真は、車の前ではしゃぐニコの姿を、目を細めて眺めていた。

 いつか壊れるに決まっているのに、なぜ愛そうとするのか。綾乃にはそれが分からなかった。

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