第4話 2ヶ月と10日前 食べる(後部座席で)

 真は、瞬く間に女たちの玩具になった。

 おもちゃという響きにいかがわしさを感じてしまうのは、綾乃の認知が汚れているからだろうが、もちろん、そういう意味での玩具ではない。

「だからね! 大きい豚が一番じゃないすかって言ったんすよ」

 スタンバイのために事務所に向かっていると、ナナの弾んだ声がぱっと飛んできた。ベニアをガムテープで貼り付けただけのドアはいつも開け放たれていて、変わりにのれんが掛かっている。ごわごわした布をめくると、そこは椅子の住処だ。

 三人がけの革張りのソファーに、学習机についている背の高い椅子、子供用のロッキングチェア、一人がけのベルベットのソファー、サマーベッド、小学校低学年の椅子三脚。全て、どこかしらが壊れている。

 真はいつもガラスのローテブルの前の、二人がけの茶色いソファーに座っていた。これは座る度にブリキの兵士の悲鳴のような音を立てる。ナナはその真の横にぴったり張り付いて座り、客に渡す名刺を書いているようだった。制服のスカートがめくれて、ピンクの下着が見えている。

「こら、ナナ! 名刺は立って書きなさい」

 綾乃の声に、ナナははっと顔を上げ綾乃を確認し、やべ、とはっきりと声に出してから立ち上がった。ピンクの布がもっと丸出しになる。戦略的パンチラだ、とナナは言うが、単にスカートという文明をうまく獲得できていないだけだろう。

「パンツ見えてるよ」

「あはは!」

「なに笑いなのそれは」

 綾乃の呆れ声にまた笑って、ナナは冷蔵庫の上でさっと何文字かを書いて、すぐにボックスへ去っていった。客に一本付き終わるまでは勤務中のため、名刺は立って書くこと、というのがこの店での一応のルールだ。

 軽くため息を吐く綾乃に、真はすみませんと頭を下げた。

「注意するべきか迷ったんですが」

 男に恐縮されることになれていないので、どうも座りが悪い。

「いや、まぁ確かに難しい所ではあるから」

 昼の仕事と違い、ここでは従業員の気分一つが稼ぎと店の評判に直結する。おそらく、真は義春にその辺りに充分気を付けるよう言われているのだ。つまり、注意しすぎないように。否定をしないように。

「言ってもらえて助かりました」

 とても真面目だ。

 綾乃はこの業界が長いので、それなりにボーイもたくさん見てきたが、真はこれまで見たことのないタイプだった。そもそも仕事をちゃんとするだけで珍しい。

「ナナは言って大丈夫だよ。まぁ、言ってもすぐ忘れるけど」

 ルールを守ろうという気はちゃんとあるのだ。

「というか、ここの若い子みんな素直だから、真くんなら言っても大丈夫だと思う。注意したほうがいいのは年上の方じゃない? アイさんとか、志保さんとか――あとは別件だけどニコか」

 真のひとつの癖は、人の目を見ながら話を聞くことだ。そういうタイプのボーイは自己啓発系が多いので、綾乃はあまり好きではない。が、真はそっち系でもなかった。熱意をもって話を聞いているのではないのだ。

 眺めるみたいに話を聞いて、ただそのまま受け取っている。

「その方たちは――気難しいですか?」

 そして、よく言葉を選ぶ。

「いや、気難しいっていう話になると――まぁ正直みんな気難しいよね、こんなとこで働いてる時点で」

 困り顔と微笑をまぜた顔で、真は親しげに呟いた。

「綾乃さんは気難しくなさそうですけどね」

 どうも彼には、一種の不自然さがある。言動と言動の間に必ず一拍、妙な間が入るのだ。戸惑っているのか、元々そうなのかは分からない。

「私も気難しいよ」

 そう答えると、今度は軽く受け止め、滑らかに笑ってみせた。

「じゃあ気を付けないと」

 人間の作りものみたいだ。

 けれど、こういう人間のほうがボーイに向いているのかもしれない。現に女たちはみるみる真を気に入り、可愛がっているが、ちゃんと一定の距離を取っている。真は今までのボーイと違って、どこにでも連れ回していいような玩具ではないのだ。特別な日に、特別な存在として与えられた物であり、だからこそ女たちは常にその喪失を恐れている。

 すっかり慣れた手付きで、真はおしぼりの入った籠をさしだした。

「じゃあ綾乃さん、本指名のお客さま、3番ボックスで50分コースです」

「ああ、はい」

「いってらっしゃい。がんばって」

 しかし、適切な距離を保たず真と接している女が、綾乃のすぐそばに存在しているのだった。



 遅番の場合は希望者には送迎がつくが、今は送迎係がいない。そのためボーイが閉店作業を終えてから、車を出すことになっている。

 家が一番遠い綾乃は、その日もハイエースの最後尾に陣取っていた。まだ誰もいなかったので、食べそびれていた夕飯の冷やしラーメンを袋から出して、硬くなった麺に液体をかける。麺が丸い形のままぐるぐる回って、なかなかほぐれなかった。

 すぐにドアが開き、車がやや揺れる。入って来たユリアはちらりと綾乃の様子をうかがった。

「普通食べる? 車で麺」

「まだ出ないんだから良いでしょ」

「出なくても食べないでしょ」

 ユリアは横に座ると、卵をよこせと意味の分からないことを言った。無視していたら、諦めたのか煙草を吸いはじめた。この車には探せば無限に携帯灰皿が出てくるが、そのどれもが灰でいっぱいになっている。

「なんで最近送迎なの」

 綾乃が言うと、ユリアは煙をぽかりと吐いて「なに」とだけ返してきた。

「自分の車は?」

「車検出してる」

「車検十月じゃない?」

「うるさいな。店長命令だって」

 意味不明な返答だ。けれど、麺が解れてきたのでまず麺を吸った。もう少し追求しようとすると、またドアが開いた。車が揺れる。

「車で麺て」

 ユリアと同じことを言って、ミクは綾乃の前に座った。車中にモンスターと戦う音が響き、急に賑やかになる。

「卵ちょうだいよ」

 もう一度ユリアが言ったので、綾乃は急いで卵を頬張った。本当は最後にゆっくり食べたかったが、取られるよりましだ。綾乃はしばらくモンスター討伐の音を聞きながら麺を吸った。車の中に一人増え、二人増え、その後、思ったより早く運転席のドアが開いた。

「すみません、お待たせしました」

 真はいつも待たせたことを律儀に謝る。誠意は感じるが、やはりどことなく淡々としていた。この場面では謝ること、とプログラムされているみたいだ。

「ゆっくりでいーよ。この人麺食べてるから」

 ユリアはそう言い、これ以上どうやっても入らないだろう灰皿に煙草を押し込んだ。

「えっ、車で麺?」

 真が目を丸くして振り返ったので、女たちは笑った。

 綾乃は何かを言いたかったが、やはり麺を啜っていたので声が出せなかった。後部座席の綾乃の姿を眺めて、真が微かに笑う。

「まー俺の車じゃないのでこぼしてもいいですよ。出発しますね」

 またさざめきのように女たちは笑い、車がゆっくり発進する。

 モンスターを倒す音の中、女たちはかしましく話しはじめた。ときどき掠れた真の声がまじって、誰もが楽しげにしている。実際、それは楽しい時間だった。まるでどこか遠くに遊びにでも行くように。

 箱のような車は、世間に寄り添って進んでいる。

 綾乃は、やはりユリアの外車の名前を思い出せないでいた。

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