第3話 3ヶ月と12日前 埃が舞い上がる

 待機室で筋トレをしていると、接客を終えて戻ってきたリンカが「どんだけ精力ありあまってんすか」と笑った。

「は? 性欲?」

「いや精力です。まぁ、性欲でもいいっすけど」

 と、リンカはいちごポッキーの箱を開けた。また客にもらったらしい。リンカは差し入れ目当てで、しょっちゅう店のブログにお菓子の写真と感想を上げている。ホームページの紹介文も当初は「おしゃべり上手の金髪Dカップギャル♡」だったのだが、最近枕詞に「お菓子が大好き!」とつけさせたらしい。

 DカップではなくB寄りのCカップだ、という訂正は受け入れてくれなかった、とこの前ぼやいていた。

 ホームページの文章はすべてボーイが適当に書いているため、信憑性はほとんどない。綾乃は3年前から23歳のままだし、好きなもの(こと)という欄には「車の運転♡」と書かれている。

 全く好きではないし、ハートなど一生で一度も出したことがない。

 以前、33歳のアキという女性がいたが、彼女は在籍中ずっと25歳だったし、彼女の趣味はパチンコしかなかったが「家の掃除♡」と書かれていた。♡をつければよいと思っているのだ。

 ただ、ユリアの紹介欄にはちゃんと「外車♡」と書かれてあり、それが綾乃は気にくわなかった。外車がよくて、なぜからあげが駄目なのか。綾乃は車の運転にくらべれば、唐揚げの方が五億倍は好きだ。

 そんなことを考えている間、目の端ではポッキーが絶えずちらちらと浮き沈みしていた。

「なに。なん、か、用?」

 リンカは先程から蟻の行列でも覗き込むみたいに、綾乃の筋トレを眺めていた。噛りすすめられたポッキーが、続々とリンカの口の中に消え、嚥下される。リンカはまじまじと綾乃を眺めながら言った。

「脳みそに筋肉がつまってるのって、どんな気分なんすかね」

「喧嘩売ってる?」

「いや、単純に超うらやましいっす」

 リンカがぼすん、といつからあるのか知らない薄茶色の毛布の上に座るので、埃が舞い上がった。もう絶対に捨てた方がいい。

「脳に、筋肉なんて、あんの?」

「さあ。実際はどうかしりませんが。なんかこう、綾乃さんの脳にはありそうですよね。筋肉。脳の生命力っていうか、余計な思想を力で排除っていうか」

 そのあともリンカはごにょごにょとなにか言ったが、綾乃には理解できなかった。どう考えても筋肉より知能があったほうが良い。

 店には大学生が何人もいるが、中でもリンカはずば抜けて頭のよい大学に通っているらしいのだ。綾乃は大学をよく知らないのでピンと来なかったが、何人かは目をひんむいて驚いていた。将来は弁護士になるのだそうだ。弁護士の生活など、綾乃には一秒だって想像できない。

「そういや、昨日新しいボーイさん来てましたよ」

 リンカは新しいポッキーを三本口にいれ、高速で咀嚼しはじめた。綾乃はスクワットを始めた。

「そういや、なんか、言ってた、わ」

「ほれが、ヨシはんのイトコなんれふって」

「んー」

 綾乃の反応に、リンカはつまらなそうな顔をした。

「なんだ。知ってたんすか」

「まぁ、たまたま」

 リンカは情報通だが、今回はユリアの方が早かった。もっとも、ユリアが綾乃に情報を流すことはまれだ。

「イケメンだったっすよ」

 と、リンカはにやにや笑った。

「ほーん」

「で、ニコさんが倒れました」

「それは別件でしょ」

 倒れるほどのイケメンなど画面越しにも見たことがない。

「大丈夫なの? ニコ、また、連勤?」

「連勤つか、連投すかね? 昨日オーラスで――ほら、マキさんが飛んだから。それで昼間一人で回してたんですって」

 オープンからラストまで、つまり昼の12時から夜の12時まで、というシフトはそれほど珍しいものではないが、オープン直後にくる客は、夜の常連よりも厄介な人間が多いのだ。それを一人で回すのは、元気な人間でも疲弊する。

 ニコは常態が不安定なのだから、もう少し店側が配慮するべきだ。ボーイたちはケアとかなんとか口では言うが、結局は古参に世話を押しつけてくる。

 その顔色を読んだのか、リンカは明るい声で付けたした。

「でも私が一本ついたあとは元気そうでしたよ。イケメンもいたし」

 ずいぶんイケメンを主張してくる。けれどリンカは基本的に人類を褒めるので、これはあまり当てにはならないだろう。これも育ちの良さなのだろうか。若いのに偉いものだと思う。

「まー私が会うのはまた今度かな」

 そう言ってストレッチに入ろうとした瞬間、暗幕の向こうから不穏な音がした。大音量の音楽の上に、ブチ、とマイクのスイッチを入れる音が重なる。綾乃は体の動きを止めた。まさか。

 マイクから男の声がする。

「NO7綾乃さん、NO7綾乃さん、写真指名入りました。スタンバイお願いします」

「うっそでしょ!」

 あはは、とリンカが足をばたつかせて笑った。

 部屋の隅に転がっている目覚まし時計を見ると、終業時間まであと3分を切っている。もうすっかり帰るつもりでいたのに。なぜ、こんな時間に。

「しかも写真指って!」

 綾乃は何度撮っても写真写りが抜群に悪く、一年に二三度しか写真で指名されることはない。それがなぜこのタイミングで。

 おめっすー、とリンカは声を弾ませた。

「私、今日7時までなんすよ。綾乃さんこれ50分コースだったら一緒に帰れますね! 物産展いきましょーよ物産展」

「またやってんの? 別にいいけど――つうか、今のコール新しい子?」

 ノイズが酷いので声色は分からないが、喋りが慣れていなかった。ああ、とリンカが声を漏らした。

「しばらくはヨシさんと夜番するって言ってたんで。そうかもしんないっす」

 ふーん、と相槌を打つと、リンカは表情をぱっと明るくさせた。

「なんだ。やっぱり気になってたんじゃないすか」

「別に気にならないとは言ってないでしょ」

 というより、かなり気にはしている。もし本当にイケメンならば、色恋沙汰で揉めるかもしれない。揉めれば、絶対こちらに厄介毎が回ってくる。こんな職場にイケメンがいたって、なんの得もないのだ。店としてはありがたいのだろうが。

 綾乃が立ち上がると、リンカは「30分コースだったら延長二回もぎ取ってきてくださいね」と無理を言った。

 もう終わりだろうと高をくくって、筋トレなんてするんじゃなかった。せめて省エネで終わらそう、と事務所ののれんを潜ると何かを踏んづけた。見ると、水色のスーパーボールが落ちている。昨日主婦たちが掃除をすませた事務所は、もう我楽多と漫画の住処になってしまっているようだ。

 中まで入ると、見慣れないスーツ姿の男の子が立っていた。お気に入りのソファーに座っているボーイの義春が、おお、といつも頭の悪いそうな声を上げた。

「綾乃。こいつ新しいボーイな」

 背の高い――といっても、180センチはない――男の子がこちらを振り返る。男、というより、男の子と言いたくなるような雰囲気だった。つるつるした白い肌をしていて、目は黒く、白目が白い。当たり前のことなのかもしれないが、水商売ではあまりお目に掛からない清潔な目だ。少しだけ眉を下げて、その子は義春の言葉をただ繰り返した。

「綾乃さん」

 やや掠れた、落ち着きのある声だ。

「どうも」

 綾乃が少しだけ頭を下げると、彼の方は大きく頭を下げた。

「わ、あ、俺――昨日から入りました、最上真です。よろしくお願いします」

 緊張しているのか、最初の声が裏返っていた。頭を下げた拍子に、黒い髪に天使の輪が出来る。綾乃はお辞儀から戻ってきたその顔を、もう一度眺めた。

「えっと」

 と、彼は笑うための筋肉を均等に使って、はにかむような表情を見せた。それから、何かを思い出すような顔をして、おずおず呟いた。

「あの――綾乃さん、50分コースで、6番ボックスに、お願いします」

 丁重におしぼりの入った籠が差し出される。

「ああ、はい――どうも」

「いってらっしゃい、です。がんばってください」

 懸命に笑顔を作られたので、綾乃も真剣に笑顔を作った。

 これはまずい。

「はい。いってきます」

 イケメンだ。絶対に揉めるに決まっている。

 盛大なため息を吐きながら、綾乃はボックスへ向かった。

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