第2話 3ヶ月と16日前 嫌いなコンビニを通り過ぎる
女子の待機室では、必ず誰かが煙草を吸っていて、そうでなければ全員がスマホをいじっている。またそうでもない場合、下らない話をしていることが多い。
綾乃が吸っていた煙草を吸い殻だらけの灰皿に押し付けると、斜め前に寝転んでいたナナが急に顔を上げた。
「綾乃さん、幼なじみが喘いでるの聞くのって、どんな気分すか?」
「は?」
突然何を言い出したのかと声を上げると、質問してきたナナは「あ」と声を上げ、立ち上がった。
「すいません、ちょっと急におしっこ!」
赤いパンツの尻が目の前を通り過ぎて、ばさりと乱暴に暗幕を捲る音が続く。静かに捲って出ろと、ナナはもう五十回は注意されているはずだが、もう一回の注意をする暇はなかった。
「なんなの」
綾乃がそう呟くと、正面に座っているミクがゲーム画面から顔を上げずに答えた。
「ナナさん、まだ赤ちゃんなんで」
指先の下から、絶えずモンスターだか何だかを攻撃する音が聞こえている。ああでも、と画面に向けてミクは呟いた。
「尿意に気づけてるってことは幼稚園児くらいかもしれないですね」
どちらもさして変わらない。むしろ多少の知恵がある分、赤ん坊より幼稚園児の方が厄介だ。少なくとも、赤ん坊は喘ぎ声の話はしないだろう。
けれど、なぜかミクはそのままナナの話を引き継いだ。
「でも私も気になってたんですよね。なにがどうなったら幼なじみ二人で、同じピンサロで働くことになるんです?」
どう考えても気になっていた話を聞く態度ではい。
もっとも、ミクはゲーム画面から目を離すと禁断症状で全身の毛が抜けるらしいので、そのままでいてもらった方がありがたい。ただでさえ、待機室は抜け毛で溢れているのだ。これ以上増えるのは勘弁して欲しい。
「つうか、幼なじみじゃないから」
綾乃の答えに、はは、とミクは声だけで笑った。
「なんでしたっけ? 遠い親戚?」
「んなわけないでしょ」
「だって綾乃さん、幼馴染じゃなくて腐れ縁、っていいますけど、幼なじみと腐れ縁の違いって具体的に何を指すんですか?」
「なにって」
そんなものは考えたことがない。
「そりゃ――意思とか」
「意思?」
「一緒にいる意思があって一緒にいるのが幼なじみなんじゃないの」
へー、とミクは声を漏らした。指先は奇態に動き続けている。よく会話とゲームを平行して続けられるものだ。ずどん、と画面の中で何かが燃え盛る。
綾乃さん、とミクは口を開いた。
「それだと一緒にいる意思がないのに、ずっとユリアさんと一緒にいることになっちゃいますよ」
「だからそうだって」
暗幕が捲られる気配がして、音で誰だか分かってしまうことに綾乃はうんざりした。ミクが顔を上げる。
「あ、ユリアさん。お疲れっすー」
「おつかれさまー」
「今ちょうど綾乃さんと、ユリアさんの話してたんですよ」
ミクは画面に向かってニヤニヤ笑った。
「私はしてないでしょ。してたのあんたらだから」
なになにーと言って、ユリアはミクの隣に座った。そして、当然のように綾乃の足下の煙草をかっぱらった。
「ちょっと、自分のは?」
「事務所に置いてきちゃったー」
甘えたような声に勝手に顔が歪む。ミクがスマホのディスプレイを連打しながら言う。
「綾乃さん、ユリアさんと一緒にいるのは運命だって言ってましたよ」
「言ってないし」
ユリアは煙を吸って、吐いて、伸び切ったTシャツみたいな声をだした。
「ほんとー? うれしー」
こんな風に語尾を伸ばして話すようになったのはいつからだろう。覚えていない。その変化を知っているということが煩わしい。
「っていうかナナちゃんはー?」
「また吐いてるんじゃないっすか?」
女子待機室は、いつも空気がだらりと緩んでいる。時間が動いていないみたいで、だから、何もかも永遠に続くような気になってしまうのだ。
✾
綾乃はいつまでもユリアの愛車の名前を覚えられないでいる。
外国の馬鹿でかいなんとかという車、という認識から一向に先へ進まないのだ。四文字だったような気もするし、六文字だったような気もする。車に興味がないというのもあるが、運転のしづらさに対する心の抵抗なのかもしれない。
眺めが高すぎる。
低い所を対向車線のライトが間を開けて何台も通り過ぎていく。彼らは地上の近くを走り、この車は世間から離れている。
「コンビニ寄って」
急に、助手席から声が飛んできて綾乃は意識を車内に戻した。ユリアは助手席に座っている間、大抵は前だけを眺めている。
「なにすんの」
「煙草と振り込み」
シフトの人数の関係なのか単なる気まぐれか、それとも日給に足されるガソリン代目当てなのか知らないが、ユリアは時々愛車で店まで来る。いつの間にか、その日に綾乃がいれば、帰りは綾乃が運転するということになっていた。
これは二人の間に無数に横たわっている暗黙のうちの、些細なひとつだ。
良いでもなく、悪いでもなく、そうするべきとも、せざるべきとも思っていない。確固たる意志のない暗黙。だらだらとした坂みたいな妥協。
「じゃ肉食お」
綾乃が呟くと、ユリアが即座に言った。
「あそこのコンビニはやだ」
「こっちの道だとそこしかないでしょ」
「釣り竿屋曲がったとこは?」
「遠い」
「あそこ行くならビール飲んで良いよ」
誘惑に負けて、綾乃は通り沿いのコンビニを二つ通り過ぎた。交渉により確固たる妥協をすることもある。それは大抵、主語も述語もなく行われる。
綾乃が好んで食べる唐揚げの種類も、唐揚げと一緒に飲みたいビールも、ユリアの嫌いなコンビニも――それを嫌いな理由も――互いに口にするのがうんざりするほど知りきっている。
だから、それについての主語も述語も、会話には出てこない。
綾乃は全ての主語述語的なものが嫌いだった。結び付きが決まっていて、あべこべだと成立しない感じが嫌なのだ。けれど実際には、そう言いながら安易な結び付きに安易に乗っかっている自分が嫌なのだ。あべこべになれないこと。あべこべになろうとしないこと。いつまでも坂のような妥協をし続けていること。
何もかも煩わしい。
綾乃はコンビニを出てすぐビールの缶を開けた。一日仕事をした後の肉とアルコールほど、人体に幸福を与えるものはない。
「ああー」
声を上げたら、後ろからやってきたユリアが「獣くさい」とだけ呟いてベンチの方へ歩いて行った。このコンビニは綾乃たちの家からは少し離れるが、ベンチと灰皿があるという点で他のコンビニとは一線を画している。綾乃はゆるくユリアを追いかけた。
「もう飲んだから。もう運転できないから」
念を押すと、ユリアはベンチにどさりと座って、煙草の箱を投げてよこしてきた。両手にからあげとビールを持っているので、煙草は綾乃の胸に当たり、みじめに地面に落ちた。
待機室でかっぱらった煙草のお返しということなのだろう。もう運転はしないという綾乃の意思表示にに対する「はいはい」という返事でもある。
ユリアは根が粗暴なのだ。
「毎度どーも」
唐揚げを口にくわえて、煙草を拾うと、ユリアは自分の煙草をぺりぺりと開けながら唐突に言った。
「今度新しいボーイ入るって」
そういえば、結構前にやめてから補填されていない。
「いつ?」
「明後日」
「ふーん」
からあげはいつ食べてもうまい。
ユリアはしばらく黙って煙草を吸っていた。レジ袋からビーフジャーキーがはみ出ている。たぶん、透けて見える四角い紫色のものはぶどうゼリーのジュースだ。ユリアは中学のころからずっとその組み合わせで飲み食いしているが、綾乃には全く理解出来ない。しょっぱい固形物に対して、甘い半固形物でどう対処しようというのだろう。
「なんか聞いた?」
突然ユリアは言った。
「なにが?」
「新しい子のこと」
なんかとはなんだろう。どちらにせよ、何も聞いてはいない。
「なんかヤバいの?」
そう聞くと、ユリアは口を結んで、一瞬疑うような目を向けた。というより、疑っている、ということをこちらに伝えるような顔をした。それから、なにごとかに納得したように「まぁそうか」とぼやく。
「なに」
綾乃の言葉を無視して、ユリアは短くなった煙草を灰皿に投げつけ、外し、足で踏みつけた。おっとり巨乳のふわふわ女子、という店のユリアの宣伝文句を思い出し、綾乃は眉をひそめた。ビーフジャーキーと、ぶどうゼリーのジュースをごそごそと取り出しながらユリアは続けた。
「その子、ヨシのイトコなんだって」
「へー」
ぼんやり相槌を打って、綾乃は最後のからあげを咀嚼した。からあげは最初から最後までうまい。
「イトコねぇ」
親戚同士で喘ぎ声の響く職場で働くというのは、一体どんな気分なのだろう。綾乃には想像も付かない。まぁ、少しでも長く続けばいい。それしか思わなかった。
ユリアがその時何を確認し、何を隠したのかなんて、一瞬も考えなかった。
考えるのは嫌いなのだ。
だから、こんな人生になっている。
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