前幕

NO.7 綾乃

第1話 1時間15分後 室外機の音がする

 浴室に戻ると、なぜか塩原は豚の顔をしていた。

 ブラとショーツだけの姿になって、その前でリンカがスマホをいじっている。さっきまで高い所で二つに結んであった金色の髪が、いつの間にか後ろでひとつに結ばれていた。

「なにしてんのあんた」

 綾乃がそういうと、リンカは馬の尻尾を振り回して振り返った。

「なんすか?」

「なんすかじゃないでしょ、なにそれ」

 塩原は顔にストッキングを被っている。自分で被れるはずがないので、正しくは被らされているのだ。

「だってキモくないすか。顔」

「ずっと前からキモいでしょ」

「いや、造形の問題じゃなく、見られながらバラすのがキモいってことっす」

 バラす、という言葉に綾乃は何かを感じたが、感情を確保する前にすべて通り過ぎてしまった。目から飛び込んでくる映像が強すぎて、何もかも滑っていってしまう。

 確かに、本人に見られながら体をバラすのは気まずいのかもしれない。けれど、こんな一昔前の深夜テレビみたいな顔でいられても困る。

 それに――。

「なんであんた裸なの?」

「え? だって、汚れるじゃないっすか。綾乃さんも脱いだほうがいいですよ。まぁ、もう完全に遅いですけど」

 リンカは綾乃の胸の辺りを見ている。

 今日に限ってなぜ白いTシャツを着てきたのだろうと思う。けれど、こんなことは予定に含まれていなかったのだ。死体をバラすなんて、だいたいの人類には予定のないことだ。

 意識した途端、血の貼り付いている感じが気持ち悪くなって、綾乃はシャツを脱いだ。あ、とリンカが声を漏らす。

「その下着新しいです? 初めて見ました」

「客にもらった」

「まじすか、ペンギンおじさん?」

「そう」

「うわー。好きそー」

 リンカは声を上げて笑った。

「なに、好きそうって」

「なんていうか、小麦肌腹筋女子に黒い下着送るって、性癖的に立直一発ツモ平和みたいな感じするじゃないっすか」

「小麦肌腹筋女子って私のこと?」

 あはは、と軽く笑って、リンカは綾乃のブラの右下乳の辺りに指を入れた。

「良いものっぽいですけど、よく着られますね。なんか嫌じゃないっすか?」

「布に罪はないでしょ」

「布!」

 と、またリンカは笑った。どうも今日はよく笑う。

 もしかするといつもこんな風だったかもしれない。寧ろ、この違和感はいつも通り過ぎる、という部分にかかっているのかもしれない。

 ブラの間からスマホを取り出し、リンカはさらさらと何事かを調べ始めている。

「やっぱり、血抜きをしたほうがいいっぽいですよ」

「血抜き?」

「なんか腐るんじゃないかって」

 画面には知恵袋的なページが表示されている。

「それ信憑性あるの?」

「あるわけないじゃないですか。全部妄想ですよ」

 けれど、かなり真剣に見入っている。リンカの瞳にちらちらと画面の光が反射して、情報が頭に流れているのが目に見えて分かる。

「でもまぁ、知識は知識ですから」

 誰に言うでもなくリンカは呟いた。

 綾乃は黙っていた。頭のよい人間が何を考えているのか、産まれてこのかた分った試しがない。ただ結果を受けたあとに、ああ、この人は頭が良かったのだな、と納得する瞬間が訪れるだけだ。

 先に気が付くことはない。

 リンカはシャワーヘッドに手を伸ばした。

「これ、お湯も出るんでしたっけ?」

「出るよ。たまにヨシが荷物出して浴びてるし」

 警察のガサ入れ対策で、浴室にはいつも段ボールが詰め込まれている。法律的な問題として、ピンサロにはシャワーがあってはいけないのだそうだ。ただ、触れば積まれた段ボールがほぼ空なことくらいすぐ分かるし、浴室があったからと言って即どうにかなるわけでもない。無駄な努力だ。

 じゃあやりますか、とリンカがナイフを取り出しので、慌てて止めた。

「いや、私がやるから。あんたは指示だけ出して」

 ナイフを取り上げようとしたが、上手く避けられてしまった。

「いやいや、なんでですか。私にやらせてくださいよ」

「駄目に決まってるでしょ」

「なんでです?」

「なんでって――あんた未成年じゃん」

 あは、とリンカはいつもと違う笑い方をした。喜び。楽しさ。可笑しさ。そういうものから遠く離れた場所から出た笑いだ。

「それ、関係あります?」

「あるよ。あるでしょ普通に」

 しかし、具体的な理由は挙げられなかった。

「もともとリンカには関係のないことだし」

 綾乃の苦し紛れの発言を、リンカはただ眺めていた。彼女はいつも適切に空気を読み、適切な空気に変える。しかしそれは、いつでも不適切な空気に持って行くことが出来るということなのだ。

 非常に軽い声でリンカは告げた。

「綾乃さんも関係ないじゃないですか」

 けれど、今のこの空気を作ったのはリンカではなく、綾乃なのかもしれない。

「綾乃さんが刺したっていうの、嘘ですよね?」

 微かに首を傾げて言って、リンカはそっと浴槽に目を向けた。

 豚の顔をした塩原は、胸だか腕だか良く分からない場所から血を流して弛緩している。これは、さっきまでポリバケツの中にいて、その前はボックスの中にいて、そのもっと前には――驚くべきことに生きていたのだ。

「私が刺した」

 もう一度綾乃が言うと、違いますよね、とリンカは同情に近い眼差しを向けてきた。

「ニコさんでしょう。刺したの」

 耳の縁から音が消えて、次に出そうとしていた言葉が喉の中で消えた。体全体が空洞になって、一瞬何もかも忘れた。

 何を。

 リンカは今、何と言ったのだ?

「ニコ?」

 綾乃の言葉に、リンカは不思議そうな顔をした。

「どう考えても――え?」

 言葉が止まる。リンカはまた浴槽に目を向け、深く何かを考え始めたようだった。知識の詰まった脳が、滞留しているように見える。情報が多いから、選別に時間がかかるのだ。それに、多ければその分目も曇ることもあるのではないか。

 その横顔に綾乃は告げた。

「ユリアだよ」

 深い思考から戻ってきて、リンカが顔を上げる。なぜ自分が刺したなどという嘘をついたのだろう。綾乃は今更自分のやったことを不思議に思った。だって、どう考えてもこれは順当な出来事だ。知識などいらない。

 水が流れて、風が吹いて、時が流れるのと同じくらい明白なことだ。

「ユリアが刺した」

 だから綾乃は、自分がどうにかしなければと思ったのだ。

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