鳩谷真衣という女はいない


 二週間で取れるはずだった免許が一ヶ月以上も取れなかったことについて、鳩谷真衣にはもはや真実以外の理由が思いつかなかった。

 頭が悪かったのだ。

 合宿に参加した県が山陰の右と左のどちらにあったのかもう思い出せない。というより、そもそもちゃんと認識できた瞬間が一回もない。たぶん一生認知できない。

 久しぶりに帰ってきた我が家には、長いこと洗っていない犬のような匂いが充満していた。二週間くらい、と思って掃除も洗濯もしないまま戸締まりだけはしっかりとして出掛けたのがいけなかったらしい。

 気休めに買ってきたアイスのバニラの匂いと混ざって、これはもう最悪というより他がない。

「事件に関係があるとみて、元従業員の男女合わせて5人を」

 どうにかリモコンに足が生えて、こちらまで歩いてきてくれないだろうか。こんなに暑い昼間にニュースなんて見たくない。せめてそうめんでもあればもう少し気が晴れるかもしれない。けれど――。

「えっ」

 声を漏らした瞬間、タンクトップにアイスが落ちた。

 白濁を舐めているうちに、ニュースは次の話題に変わっている。でも見間違えようがない。あの建物。

 治安の悪い町の更に治安の悪い場所に建っている灰色の古くて汚い雑居ビル。モザイクが掛かっていたが、あの看板は見る人間が見れば一発でどこだか分かる。

 真衣のバイト先のピンサロだ。

 殺人、と言っていたような気がする。

「やばいやばい」

 取り急ぎ、タンクトップを洗濯機に放り込み、クーラーを消して外へ出た。自転車のサドルが馬鹿みたいに暑くて、目玉焼きが食べたくなって、やっぱり冷やし中華がいいかもしれないと思う。それから、夏はいつ終わるのだろう、と考えた。

 けれど夏はもう終わったのだ。

 真衣はまるまるひと夏を仮免学科試験の落第に費やしたのだ。その間、店の誰とも連絡を取っていなかった。



 お土産を買い忘れたので、ビル中の物産展で買って行った。

 大雨でも大地震でも営業していたのに、人が死んだらさすがに休むらしく、店は閉まっていた。中に入ると昼間なのに電気が点いていて妙な感じがした。いつもは夜中の閉店時にしか明るくならないのだ。けれど、よく考えるとそちらの方が変なのかもしれない。

 とりあえず、音を立てないように女子待機室へ向かった。きっと真衣と同じような輩がいるはずだ。まずは情報収集、と暗幕を捲ると、案の定サンダルが一足並んでいる。もう一枚の暗幕を開け放つと左端の定位置にアキが座っていた。

 眉毛用のマスカラをすこすこ出し入れしながら、アキは気怠げに真衣の手元を見た。

「なんで白い恋人?」

「え?」

 手のひらの紙袋の中で、白い恋人がこてんと向こう側に倒れた気配がする。

「いや――売ってたから」

「行ったの島根でしょ?」

 島根だったのか。

「島根って妖怪たくさんいる?」

「妖怪は鳥取」

 じゃあ鳥取に行ったのかもしれない。

 アキはもう眉毛用のマスカラを閉まって、ビューラーを取り出している。

「誰か死んだ?」

 もっと深刻に聞くつもりだったのに、すでに真衣の口からはものすごく軽い声が出ていた。

 誰かが死んだのは確かだ。それなのにここには非日常感が足りない。アキがビューラーをあぶったついでに、煙草に火を付けるので、真衣も急激に吸いたくなったが、カバンには酢昆布しか入っていなかった。

 待機室にはいつも埃と煙草と体液と何らかの香料が混ざった匂いがしていて、ここ以外どこでも嗅いだことがないので、毎日通っていたときでさえ、真衣はここに来ると懐かしいような気持ちになっていた。

「塩原が死んだ」

 アキは煙草を吸いながら、器用に睫毛にビューラーを当てながら言った。

「それでうちの従業員が5人? 逮捕されたとかされないとか」

「なんだ」

 塩原ならば死んで当然だ。真衣だって、隙があればいくらだって殺したい。けれど、急に妙な気持ちになった。

「誰が逮捕されたの?」

 さぁ、とアキは煙を吐いて、マスカラをすこすこと動かした。

「飛んだのはユリアさんと綾乃さんとニコさんとリンカだけど」

「えっ、飛んだの? 急に?」

「宣言して飛ぶやついないでしょ」

「そりゃそうだけど」

 この業界では最早バックレの方が正しい辞め方である気もするので、そこには驚かない。けれど、ユリアと綾乃はかなりの古参だし、リンカはどうか知らないが、ニコが飛ぶというのは、ちょっと可笑しい気がする。また妙な気持ちになる。

「一気にいなくなったの?」

「一気にいなくなった」

「塩原も?」

「塩原も」

 ならば逮捕されたのも彼女たちだろう。真衣は指で数えた。

「それじゃ4人だけど。人数合わなくない?」

 テレビもアキも、5人と言っていた。

 きゅぽん、とマスカラが外に出る音がする。

「真さんもいなくなった」

 急激に日常が薄れていくような気がした。

「テレビは、男女5人とか女5人とか言ってる」

 その言葉が何を意味するのか、真衣には分らなかった。真は男なのだから、真が逮捕されたのなら男女5人だろうし、そうでないのならば、女4人だ。

 誰か別の共犯者がいるのか。

「それって――」

 言葉の途中で、事務所から大きな物音が聞こえてきた。怒号が続いて、すぐにボーイの義春が暴れているのだと分かる。これは非常に日常的な出来事だ。けれど、日常を続けていること自体が、もはや非日常であるような気がする。

 真衣はもう一度何かを考え直そうとして、考えることが面倒臭くなって聞き返した。

「ちょっと色々よくわかんないんだけど。どういうことなの?」

「私だってわかんないよ、でもさっき警察が」

 というアキの言葉も、また別の音に遮られた。どすどすと、不躾な足音が真衣たちのいる方へ近づいてくる。この建物は非常に古くもろいので、乱暴に歩く人間がいると床が揺れるのだ。

 聞き慣れない男たちの声がすぐ近くから聞こえてきた。

「葉っぱでもやってんじゃないすか」

「あんなもんだよ。言葉通じるだけましだろ。それより、なんだって?」

 どうも、部屋の隅で内密の話をしているつもりらしい。たしかに、暗幕の奥にこんなガバガバな女子待機室があるとは誰も思わないだろう。

 張りのある声と、ややしゃがれた声が交互に聞こえてくる。

「いや、どうも話がちぐはぐで、かなり手こずっているみたいですが」

「自供してるんだろ?」

「ええ、それは。供述もまともみたいですが、ただ――的にはバラバラで――というか、先ほども――けど――――その男というのが――――」

 急に声が小さくなって、上手く話が聞こえなくなった。真衣が音を立てないように暗幕の裏に近づくと、アキが呆れたような顔を向けてきた。

 男たちは、布一枚向こうで話し続けている。

「いいんだよそんなことは、どっちでも」

「良くはないでしょう。ちゃんと対策しないとメディアが」

 ぐにゃり、と足がゆがんだ。

「わ!」

 誰だこんな所にキティちゃんサンダルを置いたのは。

 すぐに暗幕が乱暴に捲られ、白髪の男と、それよりはかなり若く見える男が現われた。二人とも、一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに顔の無表情に戻った。

 白髪の男が口を開く。

「君もここの従業員?」

「え、あっ、はい! と、鳥取に免許を取りに行ってました!」

「島根でしょ」

 というアキの声に、若い方の男が部屋の奥を覗いた。

「ここって、女の子の待機場所?」

 女のことを女の子と呼ぶ男は信用できない、と思いながら真衣は答えた。

「そうです」

「不衛生だな」

 始めて見た時には真衣もそう思ったかも知れない。けれど、ずっとほの暗い中にいると、醜さと汚さは空気の中に広まって薄まる。待機室には間接照明が一つしかないのだ。

「てういうかナナ、いつまで白い恋人持ってるの?」

 アキがマイペースに声を掛けてくる。確かに、手汗で紙袋の紐のところがぐにゃぐにゃだ。真衣はとりあえずその場に紙袋を置いた。若い男がそれを覗き込んだ。

「島根?」

 白髪の男はそれを無視して、アキに声をかけた。

「もうちょっと話を聞かせてもらってもいいかな?」

 アキは答えなかった。

 白髪の男は視線を変え、真衣を見た。こんな客だったら、いくらでもサービスするのにな、と一瞬で考える。ちょうど良い年上の男だ。若い男は乱暴だし、老人はスケベが過ぎる。白髪の男は目を細めた。皺が、すごくいい。

「君は、清田春子とは仲が良かった?」

 空気に穴が空いた。

 真空の穴が、現在と過去と未来を全部吸い込んで、また吐き出したように感じた。吐き出されて戻ってきた意識で、真衣は考えた。この人は今、何を言ったのだろう。

 若い男が、いや、と口走った。

「何も隠すことないからね。世間話だと思って、素直に気軽に話してくれればいいから」

 真衣が何かを隠そうとしたと思ったらしい。はぁ、と口から声と息の中間のものが出て行く。

「いや、そうじゃなくて」

 と手を降ってみて始めて、自分は今驚いているのだ、と気が付いた。そうか、そうだったのか。いや、そうだったのだけれど。

「私たち、名前とか知らないんで」

 真衣の答えに、若い男は一度不思議そうな顔をした。

 やはりこれは非日常なのだ。真衣たちの日常は、ずっとずっと非日常だった。毎日それが続いたから、日常になってしまっただけなのだ。

 真衣は答えた。

「清田春子がどの子を指すのか分りません」

 どうして今、この店には明かりがついているのだろう。そのことを考えると、怒りによく似た強い悲しみがこみ上げてきた。昼間でも真っ暗でなくてはいけない店の中を、明るく光らせてしまうのは、とても酷いことだ。

「ああ」

 若い男はごく軽い声を漏らし、真衣を見下ろした。この笑い方はよく知っている。微かな笑みをはりつけた軽蔑のしぐさ。

「君たち、源氏名しか知らないのか」

 なぜ殺さなかったのだろう。

 真衣は急激に口惜しくなった。彼女たちは、どうして自分たちを置いて行ってしまったのだろう。人を殺すくらい、真衣にだって出来る。塩原でもこの男でも、客の誰でもいいから、殺して、自分も彼女たちと一緒にどこかへ行きたかった。

 そうすれば。

 あるいはここから逃げ出せたかもしれない。

 こんな人生から。

 若い男は手帳の中に清田春子の源氏名を探しているらしかった。当たり前だ。彼らは何かを詳らかにするためにここにいるのだから。明かりが部屋を照らすように。ここにいる全ての女たちに「それは間違いだ」と判決をくだすために存在しているのだ。

 殺してしまわなければ、と真衣は産まれて初めて強く思った。

 殺して、ここから逃げ出してしまわなければ。そうしないと、わたしは――。


 けれど、彼女はこの感情を忘れる。

 二年後に就職し、三年後に結婚し、その半年後に子供を産んだ。

 そうして、過去は全き過去になる。


 この物語に鳩谷真衣という女はいない。

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