ある雨の日の僕が見た一コマ 

波ノ音流斗

体験談 雨音、濁る心、あの雨粒。

               〈 1 〉


「ここ、教えて。」

 思えばこの言葉が最初だった。



 高校生になってはや二か月。まさかここまで忙しいとは思わなかったが、それなりに慣れては来ている。何ともまさかこの僕にも適応力があったとは。


 教室はクーラーの音とクラスメートの声賑わいを見せている。ざわざわというほど元気ではないが、それでも少しはテンションの高さがある。まぁそれでも片頭痛の様にじれったい感情も少しばかり感じられるが。

 僕は顔を黒板の方から窓の方に向ける。僕の席ならではかもしれないが、ここではクラスメートの声よりも雨音の方が勝っている。おそらく片頭痛のような感情はこれのせいだ。ここは広めの高校の割に木がいっぱい植えられているため、その葉っぱやら枝やらが小刻みに揺れるのが見える。それらがたくさんの雨粒を砕くと思うと、やっぱりどこか雨の日の悲しげな感覚というものがあると思う。


 ここは教室、今は昼休憩。いつもこの窓際最後尾の席で手短に昼食を済ませて、小説片手に教室を眺めるのが日課だ。はなから見たらこんな日課ただの変態にしか見えないと我ながら思うが、宿題も授業中の隙間時間を使って終わらせてしまった以上もうやることはない。

 僕は左のこめかみの方を強く押す。ちなみに僕も片頭痛持ち。この季節はみんなと同じく少しばかりの頭痛に悩まされてはいるが、それでも雨の日は好きだ。この雨の音に勝る自然の音はそうそうないだろう。


 梅雨。雨の季節。僕のような少数派が少し心を躍らせて、大体の人が嫌なうっとおしい季節。


 雨音。床の木の鼻につく匂い。肌に重くかかる湿った空気。揺れる木や草。小刻みに円形を作る水たまり。なかなかいい季節だと思う⋯⋯と思うのは僕だけだろうか。



「ねぇ。」

 丁度本に視線のもどしたときに、ふと声がかけられた。 

 何か僕の方に近づく足音が聞こえると思ったところだった。どこか静かながら透明な透き通った声だった。それにしても、ただでさえ一人を好みそれに周りも馴染んでいる状態なのに、僕に話しかける人がいるとは。何用だろうか。


「ん?」

 僕は本に目を向けたまま声だけで答える。いつも声をかけられたらこんな感じだ。そのせいもあってか、僕に積極的に話しかける人は少なく、話しかける内容は大体事務連絡だった。


「ここ、おしえて。」

 すると、僕の視線と本の間にA4のプリントがずいっと入ってきた。さすがに読書の邪魔をされては少し癇に障る。


「何を教えろって?というかなんで僕なの?」

 そういって僕は視線をあげる。そのプリントを握る細く白い腕を視線でたどって顔をあげたとき、思わず息をのんだ。


「だって君、数学得意なんでしょ?」

 その透き通った声の主は、思った以上に綺麗な人だった。別に目を引く程ではないけど割と顔だちも整っているし肌の透き通るような白、それと対比するようにある嫋やかな黒髪の中見え隠れする銀色の髪。何だろうか、時間が急速に早まった気がした。

 ただ、この人を見たときに少し引っかかる部分があった。僕は人とあまり会話するタイプじゃないが、教室内ぐらいならすぐにその人の内心ぐらいわかる程度には人間観察をしていた。それなのに、その人間離れした綺麗さを持つ彼女は、どこかで見た覚えもなかった。


 そして、

「僕に数学教わろうとするのは君ぐらいだよ。」

 僕は人とあまり会話をしないゆえに、密かながら数学の順位の首位を独走していることを知っている人は少ない。それなのになんでだろう?


「いいから教えてよ、お願い。」

 ここまで言われて断るのはさすがにひどいと悟り、僕は、


「わかったよ。どこ?わかんないところ。」

 結局彼女に教えることとなった。教えている途中に声が上ずっているように聞こえるのは、恐らく人との会話に慣れていないからだろう。もしくは⋯⋯いや、それはないということにしておこう。


 こうしてなんとも奇怪な僕と彼女の関係がつながる。


 この瞬間、人間関係を後悔することも知らずに。



                〈 2 〉


 すっかりあたりが薄暗くなったころ、

「ここでこの点の座標を求めて⋯⋯そうそう、そしたらこの直線の式が出てくるから⋯⋯」

 僕な相変わらず数学教師の日々が続いている。僕のいつもの窓側最後尾の席に向かうように、その前の席から椅子を180度回転させてシャープペンシルと消しゴムを握るのは、

「あぁ、なるほど。」

 いつもの彼女である。この関係が1か月程度続いている。まさか、彼女が分からない数学の問題を、全て僕のところに持ってくるようになるとは思ってもみなかった。

 そして、僕の中で育ちつつあるこの正体不明の感情は、なんでか少しずつ暴走をするようになり、それを押さえつけるのにさえ必死になっている。全く僕らしくない。


 だがこの感情がかなわないのは、なんでだかは自分でもわからないが勘づいていた。それを暗喩させている言葉が、

「梅雨が終わっちゃうね。」

 という少し切なそうな彼女の言葉だと言えばバカバカしい。その後に僕も

「雨が好きなの?」

 なんて会話をつづけたのは、その暗喩を振り切るためだった。



 なのに、なのに⋯⋯



「⋯⋯梅雨が終わったら、私も消えちゃうのかな。」


 その声を聞いたときにぞわっという盛大な悪寒がしたときに、暗喩を現実だととらえた。捉えてしまった。僕の心の中で水が一気に濁るようなそんな嫌な気分になった。


「不吉なこと言うなよ。」

 僕はある程度その動揺ん気づかれないように装ってその言葉を返した。

「でもさ、」

 彼女はその言葉をつづける。

「雨ってみんな悲しい感じを想像するけどさ、こんなにきれいに、美しく降ってくる雨をさ、なんでみんなそういうのかな?」


 僕はその話にすっかり引き込まれる。こういうたぐいの話すは僕もよく想像するわけだが、こういう話を聞くのは、大体の人が「何言ってんの?」で終わらせる人が大多数なのに、この話はそうにもいかなかった。まぁ正体不明の感情に突き動かされているのもあるが。この水のように流れる話の中に、川底の大きな石のようにしっかりとしたものがあるような気がした。しかしその石こと意思は、やっぱり冷たいようだった。


「でも、悲しいんじゃなくて、『儚い』だったら賛成かな。こんなに高い空から降ってくるのにさ、それなのに地面に打ち付けられて、あとは地面に吸い込まれておしまいだよ。」


 彼女はその顔全面に悲しげな表情を浮かべている。その顔のすっかり見入る僕に彼女は振り向く。それと同時に動く、窓に映っている彼女の像は、そのまま雨の中に溶けてしまいそうだった。


「確かになぁ⋯⋯」

 僕はその彼女の顔を真正面から見た瞬間の動揺を隠すように、さっきまで彼女が見ていた窓の方向へ顔を向ける。その時に僕と向かい合う、窓に映る僕の顔を見て気づいたが、僕の顔の一部に属す二つの球体は、雨に濡れたようだった。


「それでも私は、この雨粒たちが地面とかに打ち付けられたときに起こす、微かながら薄く光る花火を、とてもきれいだと思う。」


 そういいながら彼女は、音を立てずに立ち、目の前に座っている僕の背中の方にまわった。そして、窓の方をボーっと眺めている僕の首元に両手を当てた。その瞬間、一つ目の雨粒が僕の頬に当たるように、何かに気づかされたような気がした。それを僕は、未だ杞憂だとすることにした。


「⋯⋯温かいね。」

 彼女はそう口にした。


 そして彼女はすぐにその手を降ろし、パパッと帰りの準備を手際よく済ませて、いつも通り帰ろうとした。


「またね。」

 彼女が言ったので挨拶を返そうと思った、が、


「⋯⋯あ、そうだ。」

 彼女がそれを一度止めた。その次に発した言葉は、



「私の名前、木空露きうつろ 咲雨さく、覚えておいてね。」



 この何とも不思議な言葉だった。

 そしてそのまま踵を返し、すぐに走って教室を後にした。


 その後の彼女⋯⋯木空露 咲雨は雨に溶けてしまった。

 その優しい笑顔が、雨の中に消えた。


 咲雨はもう二度と見ることはないだろうと、この死にそうな心をどうにかして押しとどめた。


 そして皮肉にも、その日の夕方に梅雨明け宣言があった。



                〈 3 〉



 後々になって調べてみたが『木空露 咲雨』という人は存在しなかった。

 その代わりに見つかったのは、『虚露うつろ』という存在だ。


 ネットで見つけた半信半疑の実例はこうだ。

 梅雨時期に少女など(相手によって姿形が変わる)の姿になって、人の前に現れる“幽霊”とも“神様”とも言えない存在。

 こういった事例の中でも珍しく、この『虚露うつろ』は自我を持ち人間と同じような行動をするため見分けることはほぼ不可能らしい。ただ、ある日突然現れることが多く、そこで分かる人は分かるらしい。

 この『虚露うつろ』という存在は、日ごろの生活に何となく張り合いがない(悪かったな張り合いがなくて)人たちの前に現れ、その人たちの生活を充実させる方向へ向ける、こういった超常現象の類の話の中では極めて珍しい善者らしい。そして、ここまで詳しく内容が分かっている超常現象も少ない。



 そしてその通りになっているのは確かである。


 あの数日後、

「⋯⋯すみません。」

 見知らぬ同級生の女の子に話しかけられた。厳密にいうと同じクラスメートでかなり物静かな身長低めで丁寧な言葉遣いの女の子で、笑った顔を見たことのないような人だった。


「数学が得意と聞いたのですが、教えていただけますか?」

 そしてこれである。前に話したが、僕が数学のテストの順位の首位を独走しているのを知っている人はほぼいないに等しい。だから、


「⋯⋯誰から聞いたのそれ?」

 と聞いてみたところ、

「⋯⋯えっと、『咲雨さく』という方から聞きました。」

 これである。『虚露うつろ』という存在もバカにはできない。


 そのままぼくたちはゆっくりと距離を縮めて行き、そのまま付き合いを始めた。かなり稀なケースだと思う。



 今、僕は快晴の下にいる。隣にはさっき紹介した『桜子さくらこ』という女の子いるちょっとした丘の上、草が風になびき波にも似た音を立てる。目の前にはすべてを飲み込みそうな海が広がり、それさえも吸い込みそうな群青色の快晴の空。


 もちろん、雨はここ最近ずっと降っていない。


「きれいですね。」

 桜子は言って、

「そうだねぇ。」

 僕はそう返した。


「⋯⋯そういえば、」

 桜子は背伸びをするように大きな空を仰ぎながら僕に言う。

「『虚露うつろ』⋯⋯いえ、『咲雨さく』さんはあそこにいるんでしょうか。」


 僕も桜子のみている方向を見て言う。

「きっとこの群青に吸い込まれたんだ。」

 そうだよな。咲雨。



 いまだに不思議なんだ。なんで俺を救おうとしたのかさっぱりわからない。僕は一人が好みだ。でも⋯⋯


 何となくわかったよ。



「どうしたんですか?」

 隣の桜子が首をかしげる。微か微笑みを浮かべながら。どこか咲雨に似ている。


「いいや。別に。」

 僕も頬笑みで返す。



 咲雨よ、ちょっとわがままかもしれないけど、お願いがある。


 僕にまた再び雨が降った時、

 あなたが僕の頬の当たって、

 小さな花火を起こして、

 気づかせてくれるかな?


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