4-4.黒の到来

 シプたちと合流し、入り口の方に向かったが、そこは兵士や野次馬の姿で満杯だった。兜やらが邪魔をして小柄なグリュテには上手く見えず、かといって隙間を割って入るわけにもいかない。


 飛び跳ねたりして隙間からようやく見えたのは、仰向けに倒れ伏す灰色の衣を着た男性で、地面には血だまりがある。その衣は、よく知った潜密院せんみついんのもの、しかもグリュテには見覚えが特にあった。


「あれって」

「娼館でぬしを襲ったものではないか? 確か」

「間違いない、やつだ」


 背丈が他の人間たちより高いグナイオスとセルフィオのささやきに、グリュテはうなずいた。彼らは難なく姿を確認できているようで、グナイオスは野次馬に紛れようとするシプの手を掴み、グリュテたちの側に引き寄せた。ノーラは目をすがめ、集まってきた住人たちを制する兵士の声に顔をしかめている。


 兵士たちが住人を押すように退け、それで大きな穴ができた。おかげで見える。刺客の一人は背中を切られているのか、そこら中を鮮血で濡らし、それでもかろうじて息があるのか苦しげに口を動かしている。


 でも、とグリュテは胸元で手を組んだ。少しずつ、黄色と緑の光が彼を照らしはじめている。死が、近い。なにがいいたいのだろう、そう思ってグリュテはセルフィオにかばわれながら、刺客の男へ意識を集中させた。


 来る、と男は死の淵に半分以上足を踏み入れながらも、怯え、震えていた。頭蓋がひび割れそうなほど強い念。この恐怖をグリュテは知っている。


 芋虫のように這っていた指が動きを止め、口から血泡を吹き、男はついにこときれた。男の側にいた兵士が首を振り、仲間たちに男の死を告げた。男の体を包んでいた黄色と緑、二色の輝きが強まり、少しずつ玉となって宙へ立ち上っていく。でも、美しさを感じさせる輝きよりも、今のグリュテには読み取った念に驚き、口元を押さえることしかできない。


(黒が、来る)


 男が残した思念に、グリュテの足が勝手に震え出す。顔から血の気が引くのが、自分でもわかる。思わずよろけ、隣にいたセルフィオへもたれかかるように体をぶつけてしまう。


「大丈夫かい、グリュテ」


 異変を察してくれたのだろう、セルフィオの気がかりな声音も今のグリュテを立て直すしるべにはならない。


 住人たちが、興味を失ったかのようにそれぞれ戻っていく中、グリュテはそれでも男の死体を見つめていた。残ったグリュテたちへ、兵士が叱責を浴びせてくる。そのときだ。


 高台の奥、監視を兼ねて作られた見張りの塔からけたたましい音が鳴った。赤玉グラナディの象徴媒体を通し、どこからか流れてきているのだろう音は、兵士たちの顔を真顔にさせる。


 男の死体を残し、兵士たちがグリュテの側を急いで過ぎ去る。まだいた野次馬たちも、なにごとかと顔を見合わせたりしている最中、グリュテはようやく口を開いた。


「来るって」

「なにが来るっていうんだい」


 いぶかしげなシプの声が、遠く感じる。一気に騒がしくなった町の中、グリュテの声は小鳥のさえずりよりも小さく、しかしすぐ側にいたセルフィオたちへは届いただろう。


「黒が、来るって」


 震えた声は一瞬、セルフィオたちをぽかんとさせ、それでもすぐにシプを除いた三人の顔が驚愕に変わった。


「それって」


 どういうこと、そういおうとしたノーラが続きを止めた。グリュテは刹那、おぞましいまでの寒気と熱が体を伝ってくるのを感じた。体の底から絶叫したい気持ちになる、絶対的な死が近寄る感触。毛穴中から冷え冷えとした汗が噴き出し、手足を震わせる、身もよだつような気配。灼熱の熱さと絶対凍土の冷えが交互に体中をむしばみ、どんな心だろうとへし折ってきそうなまがまがしさの塊。


 誰かが叫んだ。悲鳴はたちまち、感染するように町中のそこここから上がり、一つのこだまとなって怒濤のうねりに変わる。


 男の側に唯一残っていた兵士が、狂乱したような笑い声を出す。兜のない兵士の顔は恐怖に塗れ、歪み、死体を置いて入り口から見える林の方へ走り去っていく。近くにいた住人たちもそれに続くように駆け出し、あるいは動かぬ彫像と化し、でも誰もが叫びを上げている。


 悲鳴が聞こえた。シプの声、グリュテは体と心をむしばむ怖気をこらえながら、そう理解した。そして気づく。この感覚を、みんな、感じている事実に。


 小さく、歯が揺れて音を立てるのもグリュテは聞いた。セルフィオが顔を白くさせ、必死でこらえているのか、左手を震える右手で押さえこんでいる。


 心の中に入りこもうとするおぞましさがついに頂点に達し、堰が壊れたかのようにグリュテが顔を上げた瞬間、小気味よい音が響いた。次いで、痛み。ノーラだ。彼女は足の震えを無視し、グリュテの頬を叩いたあとセルフィオ、グナイオス、そしてシプに同じことをする。


 灼熱の痛みが、一瞬グリュテを正気に返らせた。それは多分、みなも同じなのだろう、唖然とした視線を一斉に浴びてなお、ノーラの顔は悔しさにも似た強気で満ちている。


「まだ、ここに来てない」


 ノーラの声は調子を外したかのように揺れている。けれど、少し高い声はグリュテを含め、全員を正気に戻した。唇を噛み、流れた血をぷっと吐き出すノーラの姿は、野性味すら帯びた凄みがあった。


「逃げるなら今のうちだわ」


 ぱん、と再び筋肉を叩く音がする。グナイオスとセルフィオだ。彼らはそれぞれ手と足を叩き、ノーラの言葉にうなずいた。シプは未だ震え、グナイオスにしがみついてはいたが、気丈にも瞳を潤ませながら折れた膝を元に戻した。


 グリュテは叩かれた頬を再度自分で叩いて、震えを止める。しかし。


「アーレ島だ!」


 必死なまでの、哀れみすら感じさせる声音で兵士が、塔から叫びを上げる。


「アーレ島に『詞亡王しむおう』が出たぞ!」


 その声に、グリュテは眼下にある島を思わず見つめた。光がない代わりに、黒いもやのような瘴気が島には立ちこめ、それは雲と一体になって天で渦を巻きはじめている。


 アーレ島に、黒の王。グリュテは殊魂アシュムの輝きが見えない理由を、ようやく理解できた。黒がむさぼったのだ。死者を呑みこみ、まだ息のある存在を『詞亡くし者いじん』に変えたのだと。


 理解できたところでどうにもならないが、ともかく頭だけは回転している。それなら、動ける。


「逃げるなら陸路か」


 グナイオスが、シプを抱き寄せながら腹立たしげにつぶやく。だが、入口側、林の方を見た彼の顔がこわばったのを、グリュテは見た。振り返る。逃げていったはずの住人たちが顔を恐怖に染め、あるいは四肢の一部をもがれ、よろめきながらこちらに向かってきている。


 母親とはぐれて泣き叫ぶ子供を、後ろから切ったなにものかがいた。その速度は誰も声を上げる暇もないほどに早く、鋭い。


 薄曇りの中、そこだけ宵が訪れたかのように、いや、それより暗く、深い闇にも似た色をした人の姿があった。黒でできた曲刀を携えて、すでに人ではなくなった、『詞亡くし者いじん』と化した存在。目も、髪も、服も、肌も、全てが黒い。でも背格好ですぐにわかる。


 ティゲニー、とセルフィオが呆然と名を呼んだ。


 石が積み重なってできた半円形、その入り口に逃げこむ住人たちを、黒色のティゲニーは無造作に切り捨てていく。血飛沫と悲鳴と鳴き声が充満する入り口の向こう側、そこには同じく、黒に染められた水妖馬ケルピンなどの<妖種>が黒い瞳をらんらんと輝かせ、こちらを見ている。水妖馬ケルピンに半身を食べられた男の臓物が、ひどい悪臭を周囲にもたらす。


 セルフィオが一歩、かばうようにグリュテの前に歩み出た。後ろから小声で術を唱える声がして、後ろ目でちょっと見ると、戦斧を携えたノーラがいた。


「グナイオス、シプを連れていって」

「ちょいと、ノーラ」

「ここにいられちゃ足手まといなの」


 数を数えるノーラの声は冷静で、でもそこに哀しげな様子は微塵もない。ただ事実を述べているだけ、そんな気がした。セルフィオがそっと、手でグリュテを突き放した。軽く、たたらを踏んで後ろに下がる。


「グリュテも連れて行ってほしい。活路を切り開くには一人では足りないだろうから」

「フィオまで! あんたら、あの数相手にやり合う気なのかい!」


 シプが悲鳴を上げた。小型のものから大型のもの、それこそ犬の形をしているものから馬の形をしているものまで、黒い<妖種>は次々と数を増している。入り口にある岩の囲いを乗り越えて、こちらに入ってこようとするものもいて、林の向こうにはまだ控えがいるのかもしれない。


 グリュテは振り返り、海の様子を見る。海は影に包まれたかのように暗くなっており、アーレ島周辺からじわじわと、それこそ黒い墨が一滴一滴雫を垂らし、色を冒していくようにその黒さを広げはじめていた。黒いもやも同じく、亀よりも遙かに遅い速度でこちら側に向かってくるのが見えた。カトリヴェ島にも命があると理解しているのだろう、黒の王の思考などグリュテにはわからないけれど、殊魂アシュムが集まるこの島を狙っていることくらいは推察できる。


 海はだめ、とグリュテは決断を下す自分の頭の回転を、このときばかりは呪った。


「祭りに参加しないのは、二つ名持ちとしての傭兵の沽券に関わるな」


 グナイオスが豪胆にも笑い、腕を掴んで離そうとしないシプの手を優しく、引き剥がす。愕然とした顔を作るシプの顔は、それでも美しさを保ったままで、悲劇だけが強調されているようにグリュテには感じた。


「あんたまで、そんな」

「なに、案ずるな、シプ。我にはお前を娶るという野望がまだあるからな」


 さらりといってのけ、それからグリュテを見つめてくるグナイオスの笑みはこわばっていたが、力強いものがある。


「すまんがな、グリュテ。二人でとりあえず安全な場所まで退避してくれるか」

「いやだよグナイオス、あんた、こんなときまで格好つけて」


 子供がそうするみたいに、シプはグナイオスから離れようとしない。グリュテはセルフィオを見た。ほほ笑みが返され、でもそこに、悲壮感なんて少しもなかった。グリュテも笑みを返してうなずく。信じている。生きて戻ってくることを願い、それをグリュテは信じた。


「シプさん、行きましょう。わたしたちが残ってたら、きっと邪魔になるだけです」


 潤んだ目で、どこか恨みがましい視線を飛ばしてくるシプの手を、気にせずグリュテは握った。ひんやりとしている、それでもぬくもりを感じる手を握っても、不思議と吐き気は感じなかった。


 数十名の兵士が、それぞれ武具を持ち、こちらに向かってきているのが見えた。誰もの顔は真剣で、黒に当てられた恐怖を乗り越え、町を守ろうとしているのだろう。狭い入り口近くにこれ以上いたら、戦闘に巻きこまれる恐れもある。グリュテはシプを引き寄せた。


「セルフィオさん」

「うん?」

「信じてます、わたし」

「知っているよ」


 それだけで繋がる、わかる。セルフィオに死ぬ気なんて、微塵もないことを。だからグリュテは駆け出す。シプを連れて、兵士たちの横を通り過ぎる。


「狩られたいやつから先に来なさい!」

「『猟剣りょうけん』のグナイオス、参る!」


 ノーラとグナイオスの、気迫が入った声が背後からした。


 戦が、始まる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る